公共政策のパラドックス

国家による公共政策には一つのパラドックスがある。それは、国民はその政策がほんとうのところはなんなのかを知らない、ということである。
知らないのに、「選択」する、とはこれいかに? 民主主義は多数決である。しかし、多くの公共政策は近年の、産業の高度化に伴い、大学で専門で研究でもしない限り、まともな知識も身につかず、まともな理屈で判断もできないような内容のものが多くなってきている。つまり、

  • 判断できない

のだ。普通の人はみんな、毎日の仕事に忙しい。そんな細かい話にこだわってはいられない。しかし、国家は国民主権なのだから、国民に選んでもらわなければ、なに一つ前に進められない。
じゃあ、どうすればいいのか?
しかし、この問題を一瞬で解決する最強のツールがある。それが「一般意志2.0」であるw

再三繰り返しているように、ルソーは全体意志(議論を通した集団の合意)と一般意志を区別する。全体意志は特殊意志の総和だが、その総和は誤ることがある。他方で一般意志は「誤ることはない」。特殊意志と一般意志が相反するように見えるときは、じつは市民は自分の本当の望みに気がついていないだけだ、というのがルソーの主張である(「人はつねに自分の幸福(ビアン)を望むが、かならずしもつねに、何が幸福であるかがわかっているわけではない」)。人民が自分の本当の欲望に気がついていない、というこの構図がすでに精神分析を予感させる。

例えば、今、安倍政権は支持率が以前ほどは落ちて、まあ、都議会議員選挙で自民党は惨敗したわけだが、これは国民が意識の上で選択したものにすぎず、

  • いや、心の中では、みんな安倍ちゃんが好きで、本当は支持したいと思ってるんだ。無意識ではそうなんだけど、マスコミの洗脳でそう思わされているだけなんだ。左翼の仕業なんだ

と言えば、一般意志は、「みんな安倍ちゃん支持」ということになる、というわけであるw
こう考えれば、「選挙は無意味」ということになるだろうw 一切の「選択」は虚偽なのであり、つまりは

  • ホントウの意志

ではないw まさに、

  • ボクノサイキョウノ「ホントウ」

というわけであるw 「お前のホントウは、精神分析哲学者(=文系)のオレが知っている」というわけであるw
こうして、「パターナリズム」は最強の「正当化」を与えられるw どうせ国民は自分が何がしたいのかを知らない。それを知っているのは、精神分析の難しい本を読んできた、文系のオレたちだ。だから、オレたちエリートが「共和主義」的に政治を行う。一切の政治の堕落は、

  • 国民に直接、選択をさせた

ことにある。どうせその選択は、国民のホントウの意志ではないが、精神分析の専門家の文系のオレが判断すれば

  • 国民のホントウの意志

を代弁することができる、というわけであるw まあ、独裁なんていうのは、だいたいこんなレトリックですよねw
近年では、いわゆる、「パーミッションマーケティング」というのが、デフォルトとなってきている。あるウェブ上のサービスを利用しようとすると、必ず、なんらかの「規約への同意」をチェックさせられて、これをやらないと利用できないようになっているわけだが、ここにおいては、その最初の同意で

  • ほとんど全て

の、そのサービスの内容についての合意をさせられるわけで、つまりは、こういった手続きをふまない限りは、そういった「パターナリズム」でさえも、許されない、といった公共的な合意ができている、ということなのであろう。もし「パターナリズム」を正当化したいなら、相手の「パーミッション=許可」を得ることによって行え。これに対して、ルソー型の社会契約論では、

  • いや、その「合意」はお前が生まれる前のはるか原初の時代にすでに成立しているんだ(=社会契約されているんだ)

というわけであるから、うさんくさいわけであるw 安倍首相に言わせれば、

  • え? ボクが総理になっている時点で、国民の皆さんは、加計学園への利益供与に「賛成」だったということじゃないんですか?

と言っているのと変わらない。「国民はホントウは、加計学園への政府の利益供与に賛成しているんだ。無意識では賛成しているんだ。なのに、左翼マスコミの批判の大合唱のせいで、国民は世間体を考えて、安倍ちゃん批判を嫌々させられている」となる、と。やれやれである...。