すべての現実は「政治」である:第6章「政治」

さて。東浩紀先生の「観光客の哲学」には、次のような言葉がのっている。

ルソーは人間が嫌いだった。社会も嫌いだった。
ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、そうだろうか? ルソーが「嫌い」だったのは、人間でも社会でもない。

  • 政治

なわけであろう。これを混同することは許されないように思われるわけである。
ここで少し、まとめ的な話を書いておこうと思うけれど、第4章でのバーナード・ウィリアムズに関係して引用した例を思い出してもらいたいが、例えば、カントの倫理学においては、定言命法という形でそれは、「格率」と呼ばれる命題として、その道徳法則を受け入れるという形をとって自らの行動規範としていくわけだが、その場合、結果として自分の妻を助けることになるかもしれないが、大事なポイントはこの道徳法則は、この他人の子供の方を助けるということについて、一応、平行して考えることにはなる、というところにポイントがあるわけである。つまり、カントの道徳モデルは、あまりにも感情が爆発して、端的に人間が情動のままに行動するというような形を「正当化」しない、というところにある。
そこが、カントの超越論的自由論でいう「叡知界」の特徴なわけで、本当はそんなわけがないんだけれど、この道徳法則においては、まるで「無時間」であるかのように、常にその活動は行われていて、行動を行う前も、行っている最中も、行った後でさえ、「それでよかったのか(それでいいのか)」の反省機能が働き続けているという

  • モデル

が使われている。これに、シラーもヘーゲルもバーナード・ウィリアムズも耐えられなかったわけで、「そんな分裂症みたいな人間をどうやったら私たちは<素晴しい>と思えるのか」と疑問をていしたわけである。
シラーであれば、人間の芸術的な衝動は、まさに、その人間の「全体」がそれに向けて働くということがなければ、あまりにもその人間が「つまらない」人間に思えると言って不満を述べたし、ヘーゲルなら、まさに私たちがナポレオンの歴史的偉業、革命の偉業に胸を熱くするのは、そのナポレオンが行った「(ヨーロッパの統一という)実践的結果」において、そう思うのだから、カントのようにその「意図」を独立して、その価値を考えるといった、その人を「全体」として評価しようとしない態度がどこか、人間の「素晴しさ」を小さく見積ろうとしているように思えたのだし、バーナード・ウィリアムであれば、自分の妻が今まさにそこで死のうとしているのに、なんでその妻を助ける「以外のことを考える」なんていう、人間としてありえない態度をカント哲学は強いてくるのかが理解できない。自分の妻なんだから、あらゆることを優先しても、もうなにも言うこともなく、そのことだけで考えて猪突猛進で行かないなんていうのは、そんな薄情な奴は家族をもつ人間じゃないだろ、とカントを批判した。
しかし、ここにおける「対応」をどのように分かりやすく説明するのがいいのだろうか? そこで、もう一度、東浩紀先生の「観光客の哲学」に注目してみたいのだが、例えば、第2章で引用したように、この後、東浩紀先生はカントを「下半身をどうにかしてから政治に介入してこい」と言ったということで糾弾したわけだが、これは上記のまとめから正しくない。カントが言っているのは、たとえ結果として「下半身」、つまり、「動物的な選択意志」に従う結果となったとしても、それと

  • 平行

して、叡知界における「道徳法則」による選択(=熟慮)が常に働いていなければならない、ということであって、人間も動物なのだから、ある衝動的な行動をとってしまうことは、当たり前だがあるわけである。
しかし、ここで東浩紀先生が言いたいのは、カントであれ、カール・シュミットであれ、アレクサンドル・コジェーヴであれ、ハンナ・アーレントであれ、共通しているのは、上記のまとめで整理をしたような、カント的な理性的抑制のモデルに抵抗しているのであって、そういった意味では、明確に、シラーやヘーゲルやバーナード・ウィリアムズの側、つまり、人間をより「統一的」に、「全体」」として、その「価値」を評価していこうといった

  • より進化した人間の姿

のような視点から、もっとその人間の「情動」を、まさに、その人そのものの(物語的な)説明の統一性において中心においた解釈を模索している、というわけだが、例えば彼は以下のように言っている。

哲学者のふたりめは、イマヌエル・カントである。この哲学者についてはあらためて紹介する必要はないだろう。この三世紀でもっとも大きな影響力をもった哲学者である。カントの影響下でヘーゲルが生まれ、カントへの反発からニーチェハイデガーが生まれ、のちカントの復興として分析哲学が生まれる。そんな巨大な存在だ。
ゲンロン0 観光客の哲学

この見通しは分かりやすくて、ようするに東浩紀先生は

ではなく、

により、コミットメントをして、より「野望」的な政治思想を構想している、ということなのだ!

ハイデガーは『人間の条件』にいっさい反応を示さず、またそのことがアーレントを深く傷つけた。のちの彼女がヤスパースへの手紙に書いているように、それはひとりの思想家を名乗った彼女をまるでかれが罰しているかのようであり、この点で彼女はおそらく正しかったのだろう。しかし、この作品で彼女が成し遂げようとしたことを考慮に入れると、かれの沈黙も腑に落ちやすくなる。この作品は多くの点で----かれはそれを理解したにちがいなかった----ハイデガー哲学の中心的な要素、とくに政治と哲学の関係にかんするかれの沈黙からの独立宣言であった。私的な観想的生活のうぬぼれた要求にたいして公的な活動的生活の尊厳を擁護するアーレントは、それによって、一方に純粋哲学と、他方にそれ自身の語彙を要求しそれ自身のルールにしたがう政治について思考することとのあいだに、垣根を植えようとしていたのである。

シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

なぜ、ハンナ・アーレントの「人間の条件」という本に、ハイデガーは不満を感じたのか? それは、上記の引用にあるように、この本がハイデガーの政治思想を根底から糾弾するものだった、という認識がある。それに対して、東浩紀先生がわざわざハンナ・アーレントを否定して、自らの「下半身」の哲学を構想するということは、ようするに、ハンナ・アーレントの側ではなく、

の側に自らをより共感的な場所に置いて考えている、ということを意味しているわけだが、いまさら言うまでもないが、ハイデガーのこういった「内観的」な態度こそが(まあ、それを中二病と言ってもいいが)、彼のナチス・コミットメントを結果したわけで、ここにおいても東浩紀先生の終始一貫した、右翼寄りの言説の傾向の理由ともなっている、と解釈できるわけである。
さて。
そういうわけであるが、結局のところ、シラーやヘーゲルやバーナード・ウィリアムズのカント批判と、カントの道徳哲学は、どちらが「正しい」ということになるのだろうか? いや。言い方を変えるとするなら、この二つの立場の

  • 和解

を考えるとするなら、どういったところにそのポイントがあるのだろうか?

たとえば、ネーゲルは行為者性の概念の整合性を疑問視する。というのも、われわれの自己把握に不可欠であるとネーゲルが見なすまさにその行為者性の概念は、別の不可欠のわれわれの自己把握の仕方、すなわち「客観的な見方」と両立しえないように見えるからである。この客観的な見方によれば、われわれはそれぞれ、その信念、欲望、価値などの総体とともに、世界のなかの一つ一つの項目にすぎない。とはいえこの点でネーゲルは、おそらく自分で思っているよりもカントに近い。というのも、カント自身の立場の本質的な特徴はまさに、自由というものは概念把握されえないとするところにあり、しかもそれはネーゲルとまったく同じ理由によるからである。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

カントの道徳哲学が示していることは、ようするに、そんなに人間は超越的なまでにスゲーわけじゃない、ということなわけだ。それに、シラーやヘーゲルやバーナード・ウィリアムズは不満だったわけで、そんなわけはない、人間はもっと根源的にスーパーなんだ、と言いたかったわけであろう。しかし、そのことは、上記の引用においても、とてもよく示されている。私たちは「自由」というとき、これってそんなにすごいことじゃないんだぜ、とカントは言っているわけである。カントの純粋理性批判は人間の経験における、さまざまな連続性や完全性や統一性といった、人間の世界把握の能力について注目をするわけだが、ようするにやっていることは、さまざまにおいて

  • 認知的不整合

を抱えているような、つまりは、かなり勝手に人間の能力自身が適当なまでの「補正」をかけたバッタモンでなんとか日々をやりくりしている、ということなのであって、そういった日々の実践の中で、可能な範囲を「倫理」を考えていくしかない、という実に「ひかえめ」な主張なわけである。

本書でリラは、かれらに欠けていたものをプラトンにならって「節度」(moderation)と呼んでいる。
シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

(まあ、いろいろ書いたけど、カントの言っていることって、かなり「常識的」な枠組みをどういった形而上学によって「正当化」できるのか、っていう問題意識が大きいように思うんですよね。例えば、現代法における、「人間の尊厳」、「人間の自由の保護」、「人間の刑罰制度の正当化」といったことは、そもそも人間がどのような存在になっていなければならないか、といったところから逆算しているようなイメージがあるわけで、それにシラーや科学的唯物論者たちから始まる「真実を発見してやる」的な人たちが、カントの「間違い」を発見したとして、声をあげてきた歴史って、だって、カントはそんなことに関心がないんだから、まあ、当然だよね、としか言いようがないような批判に思えてしょうがないんですよね。だったら、あんたはカントに代わって、どういった人間社会の青写真を描くのか、と聞かれているわけだけど、あんまりそういった方向に彼らの話は進まないっていうねw...。)