すべての現実は「政治」である:おわりに

現代日本の法律において、結婚した男女は一緒の名字にそろえなければならないとなっているわけであるが、現代においても、九割以上は、男性の名字にそろえるのだという。おそらく、法律論議においては、そのどちらを選択するのかについては、

  • 自由

なのだから、これで「平等」ということになっているのであろうが、常識的に考えてこれが

  • 異常

だと思わないことはおかしいのではないか、と言いたくなる。こういった「嘘」の平等や人権は、おそらく、明治の新政権が、天皇制を国際社会向けには

  • 宗教ではない

ととりつくろっておきながら、実際の小学校などにおいては、完全な「宗教」教育を行っていた実態と照し合わせて考えてみたとき、同様の現象なのだろうと思わずにはいられない。
早い話が、近年ではどこの会社内でも、「通名」としては、結婚して性が変わった女性は結婚する前の名字で仕事をしているし、他の会社に営業に行くときも、それで通している。このことは、在日外国人の方々が仕事場では「通名」として、日本の名前を用意して仕事をされていることと同様に、だれも気にもしなくなっている。
こういった事情を考えるなら、なぜ上記の割合は、五割五割に近づいてこないのだろうと考えてみれば、そこには、言うまでもなく、なんらかの「男尊女卑」的な戦前の意識が今にまで続いていることがうかがえるわけであろう。
こういった状況において、いや「法律上は平等なんだからいいんだ」というのは、あまりにも現実を反映していない、「嘘のからくり」なんだ、ということは誰にだって分かるわけである。
例えば、海外の大学においては、パフォーマティブ・アクションとして、そういったマイノリティに優先的に大学への入学を認める政策がとられる、といったことが推進されてきたわけだが、これはそういった「権利の平等」をたんに認めたからよしとするのではなく、実際的に「社会の平等」が実現されなければ、それは問題だ、と考えるということであり、つまり、現実にそれを妨げる「障害」が、この社会にはある、といった認識がこういった動きを推進してきたわけであろう。
おそらく、ここで最後に書くべきことには、いろいろあるのだろうが、私は一つの提案によって、この議論を締めたい。
それは、一つの政治的な提案なのだが、いわゆる

  • 男子校
  • 女子校

というものは廃止すべきなのではないか、という主張である。つまり、端的にこういったものは「男女差別」だと思っている。低学年向けの教育機関にしても、高学年の(大学に代表される)研究機関にしても、そもそも、こういったアカデミズムに男女による区別があることの方がどうかしている。
そして、なかなか興味深いことに、こういった「差別」が今だに残っているのは、中学や高校の

における、男子校なわけである。私はこの制度が、さまざまに「歪」な現代社会の構造を生み出しているのではないか、と考えている。そして、そういったエリート男子校で育った彼らエリートたちは、お互いの

  • 共感

感情において、妙な「連帯」と、その判断に対する

  • 実存的

な納得感を感じているわけで、これが今の日本の「リアリズム」を大きく歪めている。もっと言えば、彼らが「それ」を差別を意識せずにダダ漏れさせている

  • 原因

において、大きな役割を果たしている、という印象を受けるわけである...。