すべての現実は「政治」である:第1章「唯物論」

少し前にこのブログでも紹介したが、『カント入門講義』という、ドイツの方による一般向けに純粋理性批判の解説をしている本があるのだが、この最終章に、他のカントの本との関連の解説と共に、このカント哲学に対する

  • 批判

が書かれている。これを読むと、かなり本質的な内容になっていて、それはカントの言っていることが、間違っているかどうか以前に

  • 証明されていない

ということなのだ!

周知のごとく、カントは判断表を引っ張り出して、ここからわれわれの悟性の基幹概念としてのカテゴリーを形而上学的に演繹しようとする。しかしながら判断表それ自身は演繹されないままである。このことの埋め合わせをしようとする試みは、ラインホールト、フィヒテシェリングからクラウス・ライヒにいたるまでに及んでいる。もしカントの理論が、決定的な箇所において根拠づけられていないという嫌疑から免れようとするならば、さまざまな判断機能は自己理解の仕方としての自己意識から演繹されてはいけないのではなかろうか。そうすると、カントが自分自身ではアリストテレスのカテゴリー論に関して主張していたのと同様に、彼自身のカテゴリーは単に断片的に拾い上げられたものにすぎなくなるであろう。

カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために (叢書・ウニベルシタス)

カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために (叢書・ウニベルシタス)

こういった批判はこの前紹介した、冨田恭彦の『カント哲学の奇妙な歪み』においても反復されていて、そこにおいては、ようするにカテゴリー表はまったく、アプリオリではなく、経験的な恣意的選択でしかない、というもので上記の引用とほぼ同じようなことを言っている。

つまり、反自然主義的哲学者の議論が実は自然主義的基礎を持っていたという事態に、われわれは直面せざるをえなくなるのである。

しかし、その本と多少の違いを感じさせられたのは、以下のような指摘だ。

もしわれわれの外なる諸対象の現存在がないならば、われわれが経験的に認識するかぎりでの、われわれの個々の現存在を、われわれは規定することができない、ということである。したがってここで、すべての世界は、単なるわれわれの表象であり、それ以上ではない、と考える観念論は論駁される。それゆえ、カントが証明した定理は次のような内容である。「私自身の現存在の単なる意識、しかし経験的に規定された意識は、私の外の空間のうちにある諸対象の現存在を証明する」(B275)。この「論破」カントの立場をはっきりさせるために必要である。というのは、この論駁は、カントがいわばバークリーの言う意味での現象学的観念論(phanomenalistischer Ideasmus)を支持してはいなかったことを示すからである。
カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために (叢書・ウニベルシタス)

冨田の本では、カントはロックの人間知性論における「物自体」の役割が、観念論的なものに横滑りさせられていることに注意を要求するわけだが、その場合のカントの説明は、成功しているかどうかはともかく、バークリ的な観念論とは別のものとして考察されていることを、示している、ということなのであろう。
しかし、いずれにしろ、カントに対する彼の同年代人から現代に至るまでの、執拗なまでの批判は、大きく

  • 経験論による批判
  • 感情や人格の統一性からの批判

に分かれるように思われ、上記の冨田の批判はこの前者の典型的なパターンだ、ということができるであろう。
さて、この前者というのは、ようするに、「科学」とか「唯物論」とか「自然主義」の側からの、カントへの物言いというわけで、ようするに、カントは「科学的じゃない」と言っているわけだから、それはそうだろうなということは、上記の引用でもあるように、ようするに、なんにも証明してないじゃないか、という異議申立てなんだということなら、もうそれ以上、議論することもない、となるわけだ。じゃあ、カントはなにをやっているんだろうね、ということになるのだろうけど、彼ら唯物論者たちの追及は、そこで終わるわけで、まあ論敵を論破してすっきりしたから、あとは別のことを考えたい、ということなのであろう。

最後の第四歩は、統覚を自発性に結びつけて、それによって自発性と熟慮を完成させることである。この連結によってミーアボーテはつぎには、熟慮が自由の十分条件であると主張しうるようになる。またしても、統覚と自発性とを連結する議論は、大部分は周知の論拠とか ぶるので、ここで考察するには及ばない。とはいえ考察が求められるのは、このような分析から最終的に現われてくる自由の見方についてである。ミーアボーテ自身の言い方では、

カントにしたがえば、自由であることとは、まさに、理由連関を具体化している必須の行為要素を自己意識的に表象することに基づいた仕方で行為するということである。行為者の自由とは、行為者が、みずからが相応の理由連関を具体化している状態について、適切な内面的な物語をみずからに語るということに存する。それに伴って物語の語りが、行為全体の構成要素の一つとなる。

いささか晦渋な隠語めいた述語はともかくとして、カントの自由のこのような記述のうち、前半はわりあいすっきりわかりやすく、問題がないように思われる。カントにとって自由とはまさに、自己意識的な理性的活動のための能力である。目を引くのは後半である。ミーアボーテはそこで、この活動の眼目は本質的には、行為者が「適切な内面的な物語をみずからに語る」ことに存すると主張する。このような自由の見方は、カントの自由の捉え方とは大きく異なっているように思われる。この見方によれば、自由は自己意識の内面的な領域へと追いやられてしまうことになる(これはヘーゲルが『精神現象学』で分析したストア派の自由にどこか似ている)。

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

現代のほとんどの哲学者にとってと同じくミーアボーテにとっても、理性的行為性を、それゆえ自由を脅かす潜在的な危機は、還元的唯物論によってもたらされる。至極当然ながら、それゆえにミーアボーテの想定では、カントの主たる関心は、今日の多くの両立論者の関心と同じく、物理主義的な観点で理解された宇宙のなかに「心的なもの」を、すなわち信念と欲望を、さらに一般的には志向性を、容れる余地を見出すことである、そうなればつぎには、行為者性についてのカントの超越論的な記述を、ディヴィドソンの非法則的一元論や、またおそらくはデネットの「機械論的姿勢」、「志向的姿勢」、「人格的姿勢」の対比といった哲学説に照らして解釈してみたくなるのも当然である。これらの哲学説にはある種のカント的な響きがあるが、しかしこれらが前提とするのは厳密には自然主義的な枠組みである。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

言うまでもないが、こういった近年の「科学」の発展に依存して、「哲学」を解釈していこうといった傾向はずっと続いているわけであるが、それが意味していることは、まあ、自然主義と言っても、唯物論と言ってもいいが、その説明において、

  • 科学<によって>

説明するといった一貫した動機にある、と言えるであろう。このように説明をすると、多くの方は「当たり前」と思われるのであろう。科学こそが現代社会を基礎づける唯一の「正しさ」であり、科学に依拠しないものなど存在しえないのだ、と。
こう言われると、おそらくその主張には、おもてだっては否定しえないような、後ろめたさを感じるのであろう。
しかし、よく考えてみてほしい。
私たちの「生活」の中には、思ったよりも多くの、おそらくはあまり科学的ではない主張に依拠して存在しているだろうと思われる意匠がある。その多くを特徴づけるものこそ

  • 伝統

であるわけだが、その中での「哲学」の役割も見逃せないわけである。

さらにいえば、ベックの場合と同じく、いやそれどころかカントの行為者性の理論についてのおよそすべての解釈者についてそう言えるのだが、問題の中心にあるのは、理性の原因性、より適切には理性的行為者性の原因性は経験的性格を示す、というカントの理説がまじめに受けとられていないことである。ひとたびこの理説の中心性に気づけば、ただちに明らかになるとおり、カントの問題は、両立論者とは異なって、いかにして理性的行為者性を「自然化」しうるかということではない。そしてそれゆえ、カントの思想に暴力を振るうことなしには、両立論式の解決(これにデイヴィドソン式の解決も含まれる)をカントに帰すことができないということも明白であろう。
こうした両立論式の読み方とは反対に、カントの問題設定はまさに、両立論者の分析が終わるお決まりの地点から始まる。すなわちカントは、理性的行為者性は法則に支配された自然の秩序に組み込まれている、ということを承認するところから問題を始めるのである。このような組み込みが経験的性格における理性的行為者について成り立つという想定から出発して、カントが問うのは以下のことである。すなわち、いかにしてこの想定は、みずからの理性的行為者性にまた独特の叡知的性格をも付与しなければならないという必然性と調停されうるだろうか。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

以前もこのブログに書いたように、カントははるか未来において、超越論的自由論が不要になり、すべては自然主義的に説明できるようになる時代が来る可能性を認めている。しかし、そうでない限り、実践的な合理性の範囲において、超越論的自由論には一定の正当性があると考える。もちろんそれを否定することはかまわないのだが、そうならそうで、なぜカントはそうまでして超越論的自由論を擁護しなければならないのか、その問題意識に対して、一定の説明責任を果たさなければ、それがひき続き、一定の役割があるものとして扱われることになることは、このの必然なわけであろう。
例えば、東浩紀先生の『観光客の哲学』の後半の家族論において、彼は自らのこの「家族」という概念が、柄谷行人の言う「交換様式A」と基本的には同型のものであることを示唆している。ところが、彼の説明には、まったくと言っていいほど、柄谷が強調するような

  • 交換

についての概念的な説明がなされない。つまり、なにが「家族」なのか、なぜ家族は「連帯」するのかの具体的な意味がまったく説明されない。その代わりに、いきなり、家族のメンバーは

  • 家族のために死ねる

集団だからこそ価値がある、といういわば「外延的」な説明が急に、あらわれる。このことは、その『観光客の哲学』における、リチャード・ローティの「(動物的な)共感」に、ある種の「未来社会の可能性」を見出そうとする姿勢にもあらわれている。
カントの倫理学の考え方からすれば、「欲望」とは、人間の「自由」の範疇にはない。それは、さまざまな「原因」によって引き起こされる、いわば、本人によっては制御できない範疇のもの(=感情)であって、その「感情」にこそ、人間の未来の可能性があると強調されることには、いささかの違和感を禁じえない。
カントの倫理学において、重要なことは「自由」にある。それは、理性的な領域において、「選択」するということであって、動物的な欲望に「強いられる」行為とは、本質的に異なっている。しかし、よく考えてみると、こういった

  • 物性

はまさに、「唯物論」と親和性があるわけである!

スタヴローギンは下宿先で幼い少女に出会う。彼女はまだ一〇代の前半で、母親から日常的に虐待を受けている。スタヴローギンは気まぐれから少女と性関係をもつ。そしてすぐに関心を失ってしまう。数日後、ストヴローギンに裏切られたと感じた少女は自殺を図る。少女は彼の顔を睨み、ひとり無人の納屋へと入っていく。スタヴローギンは自殺を予想するが、なにも行動を起こさない。そして少女は首をくくって死んでしまう。スタヴローギンはそのことすらすぐ忘れてしまう。ところが数年を経て、彼は少女の幻覚に悩まされるようになる。そしてつぎのように告白する。罪悪感はまったく覚えていない。同じことをもういちどやれと言われればためらいなくやるだろう。けれども「たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。[......]私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ、あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた、それが、私には耐えられないのだ」。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

東浩紀先生はこういった「物語」に「未来社会への可能性」があると考える。しかしこれは、スタヴローギンが自ら意識することのなかった範囲での、

  • トラウマ

のようなものであり、彼自身が語っているように、まったく今においても罪悪感をもっていないわけであろう。つまり、これはある種の

なわけである。柄谷にとって重要だったのは、まさに「交換」というその積み重ねの事実性を離れて考えることはなかったわけで、交換様式Aであれば、「贈与」と「返礼」の重層的な蓄積性にあった。それは例えば、家族であれば、子供が大きくなるには、親による一方的な「贈与」なしには不可能であったことへの負債の感情が、親孝行の強迫的な感情としての「愛情」を根拠づけているといった関係が見出されるわけであるが、東浩紀先生のこの本では、そういった説明は一切あらわれない。だとすると、なぜ人々は「家族のためなら死んでもいい」と思うのか、その説明がなく、いきなり、

  • 家族とはそういう人たち

というように、これが家族の「定義」のようにあらわれるわけである。このことは、上記の引用においても、象徴的にあらわれている。スタヴローギンはたしかに、典型的なサイコパスなのであろう。しかし、その彼でも、上記の引用の意味における

  • 可能性

があるんだ、と言われるわけだが、ここにおいては、なんの「交換様式」による説明もない。たんに、ある「トラウマ」といったような

  • 物性

が、なぜかそこに「ある」といったような形になっており、つまり、ある「共感」の可能性といったような説明になっているわけであるが、このことは逆に言えば、その人間に備わっている(と東浩紀先生が主張する)「共感」の機能を、社会を支配するアーキテクチャー構築側が、この人間がもっている「共感」という「機械」を

  • 支配

すれば、人間を支配できる、といった「唯物論」的な「ユートピアディストピア」を示唆している、と解釈できるわけである...。