すべての現実は「政治」である:第2章「ヘーゲルのカント批判」

さて。もう一方のカントへの批判なのだが、こちらはよりカントの主張への「不満」を表しているわけで、そこで何を批判者たちがストレスに思っているのかを、よく見極める必要があるが、それがよりにもよって、非常に

  • 似ている

わけである!

カント自身は、原理における同意を認めるシラーの言葉を額面どおりに受けとっている。だがたとえそうであっても、ひろく一般に考えられているとおり、二人の思想家を分かつ違いは根本的なもので、それはおもに感性に割り当てられる道徳上の意義に関わる。前段階での引用文が示すように、シラーは「義務への傾向性」を伴うものであるとし、さらには義務を快く果たすことは可能であるというばかりか、「快と傾向性との結合を樹立すべきであり」、「喜びをもって理性に服従すべきである」と提唱する。くわえてシラーは、法則が人間に対しては命法の形をとるというカントの断定を批判する。シラーの訴えるところでは、自律の原理というにもかかわらず、このような命法にあっては、法則はあたかも理性が自己の感性的側面を暴君的に圧制するための「外国法や実定法のような外見」を呈する。このような疑念を胸に抱きつつ、シラーはつぎのように問う。「もし道徳の領域におい感性的な本性はつねに抑圧される側の党派にすぎず、協力して働く党派ではないとすれば、自己自身が圧制されて祝われている勝利に、どうしてその感情の炎のすべてを捧げることができようか」。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

ウッドが雄弁に語るように、

ヘーゲルがカントの善い意志の概念を却下するとき、その根本的な狙いは、善い意志とは本質的に人間の実存に疎外された形であり、それそのものの感性的な本性からも、それが行為する実在的な世界からも切り離されたものだと見なすようなわれわれの考え方を改めさせることにあった。叡知界における動機の格闘というカント的な見取り図では、われわれの実践理性がその自己満足から疎外されてしまう。同じく、ヘーゲルの見方によれば、意志し行為することの道徳的価値はその結果に依拠しないというカント的な考えでは、道徳的行為者は、みずからの実在的世界における実存在と、それへの関与から疎外されてしまう。こうしたカント的な考えでは、われわれは道徳的行為の本質そのものを疎遠な世界、あの世での出来事と見なすことになり、その結果、実在的世界におけるわれわれのいかに高貴な行為も達成も、せいぜいのところ道徳的な意志作用の副産物のように見えるのは避けられない。現世での意志の壮麗な現われはどこまでも、悪い意志を覆い隠す目くらましの衣装でしかないと言えよう。

ウッドからのこの引用から覗われるように、カントの道徳心理学に対するヘーゲルの批判の根底にあるのは、超越論的観念論の形而上学に対する、そしてそれに連なる超越論的自由の理説に対する、十把一絡げの全面的拒絶である。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

ウィリアムズは、この論点にかんする周知の議論のなかで、チャールズ・フリードから借用した例に訴えている。船が難破したあと、自分の妻もそのなかにいる。溺れている生存者のなかからたった一人だけを救出しうる立場になった男の例である。想定として、夫は(適切にも)自分の妻を助ける決心をするが、しかしその決心は、こうした状況では事情に応じてしかるべく行為することが道徳的に許容されうると最初に決着をつけてからのことだとしよう。この仮想的な筋書きを解説して、ウィリアムズは言う。

しかしこのような解釈は、行為者に一つ余計な考えを押しつけてしまう。だれか(たとえばその人の妻)のもっともな望みとしては、その人の動機づけの考えをすっかり詳らかにした場合、自分の妻だからという考えであてほしいのであり、自分の妻であり、しかもこういう種類の状況では当人の妻を助けることは許容されるという考えであってほしくはない。

ウィリアムズが言及している「解釈」は、規則功利主義による解釈として特定されうるものである(すなわち、義務に従順な夫が「この種類の状況では、各人が各人に固有の人や物に配慮するのが最善である」という根拠に基づいて決心する)。とはいえ、明らかにその例は、定言命法に縋るカント主義者にも同じく適用できるという意図があるだろう。ここでの主たる論点は端的につぎのように言える。すなわち、そうした状況では、一般的な道徳的考察は(それが正確にはいかなる本性のものであれ)どうでもよいものである。というのも、愛しているから自分の妻を助けるということに、原理に基づく正当化など必要ないからである。そればかりか、そうした考察は、われわれのもっとも深い個人的な愛着を、不健全な仕方で侵害するものでもある。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

シラーにしても、ヘーゲルにしても、バーナード・ウィリアムズにしても、言っていることは、ほとんど変わらない。ようするに、カントの「義務」を理性と一緒に解釈するモデルは、人間を感情などのその他の部分との

  • 分裂

を起こし(それをヘーゲルは「疎外」と呼んでいる)、人間の「統一的な魅力」を損うものだ、と異論を唱えているわけである。カントの理性モデルは、そういう意味では、なんというか心の中の

  • 民主主義政治

による合議制のようなものと考えてみればいい。多くの「機能」が常に競合して、一つの行動へと移るわけだが、それらは文字通りの意味で「和解」をしない。それぞれは、決して相手を「支配」しないが、なんらかの力学によって、どれかがドミナントな地位を占めるようになる。
しかし、こういったモデルにシラーのような、ロマン主義者は耐えられなかった。人間は、そんな「つまらない」存在なのだろうか、と。人間の情熱の炎は、燃え上がれば、人間のすべての要素をその色に染めて、かけぬけるのであって、そんな

  • あー言っている人もいれば、こー言っている人もいる

みたいな、どこかの民主主義国のような、グダグダした国家のような、ぐだぐだな、みっともない存在であるなどということに耐えられるのか、と。一糸乱れず、統率のとれた「独裁国家」のような、壮麗な姿こそが人間の情熱の素晴しさのモデルとしてふさわしい、と。
例えばヘーゲルは、ナポレオンを例にとる。ナポレオンのヨーロッパ征服という歴史的偉業は、それそのものが、ナポレオンの英雄的素晴しさを、それそのものとして示しているわけであって、ところがカントのモデルでは、

  • 道徳は別の叡知界という空間での別の話

とされているわけで、まったく、こういった人間の実践的な「行為」と分断されている。こんなふざけた話が許されるのか、と。
そして、バーナード・ウィリアムズの指摘はもっと、直截だと言える。なにが道徳だ、と。今、目の前で自分の妻が死にそうになっているなら、他のだれに迷惑になろうが関係なく妻を助けるにきまっている。それに対して

  • いろいろな理由や説明の選択をさせる

ような「道徳」はなにか人間として間違っている、と。それが「家族」というものなのであって、それ以上に説明など必要なわけがないじゃないか、と。相当にお怒りだ、というわけです。
こういったカント批判は、昔からお決まりの定番メニューとなっているわけで、そのお決まりの定番メニューにおいては、東浩紀先生の「観光客の哲学」も変わらない。
ようするにカントが理性、理性と「うるさい」と。人間はそんな理性なんかで図れるような存在じゃねんんだ、と。もっと、情熱的で素晴しい存在なのであって、そういった人間の本質に対して、カントの哲学は一種の侮辱としてあるんだ、と。

シュミットとコジェーヴアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なしののっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピア拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。
ゲンロン0 観光客の哲学

このように解きほぐすとわかるように、『永遠平和のために』の第一確定条項(各国家における市民的体制は共和的でなければならない)は、人間の話に置き換えると、じつはきわめてわかりやすい、ほとんど低俗と形容していいようなことを言ってしまっている。カントはいつはそこで、各国家に、まずはおまえの下半身を制御できるようになってから国際社会に乗りだしてこいと、そう注文をつけていたのである。
ゲンロン0 観光客の哲学

これについての批判は以降の章で検討する。