映画「否定と肯定」から考えるいろいろなこと

昨日、日比谷でこの映画を見たのだが、そもそもなぜ23区ではここでしかやっていないのだろう? まあ、どうでもいいのだが。
ホロコースト研究者である、ユダヤ人の女性の歴史学者であるデボラ・E・リップシュタットは、イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングの主張する、ホロコースト否定論を著書で批判していた。ある日、アーヴィングはそれを理由として、名誉毀損でリップシュタットを提訴する。しかし、イギリスの司法制度は、訴えられた側に立証する責任がある。いわば、アーヴィングはイギリスの司法制度のその特性を逆手にとって、戦略的に攻撃してきたわけである。
この映画のポイントはなんだろう? それは、デボラ側の弁護士たちが、デボラの「要望」にことあるごとに反対するところにあると思われる。このことは、よく考えてみると不思議である。デボラは自分が気に入らない弁護士は、罷免をすればいいのだから。しかし、ことはそんなに簡単ではない。もしもデボラが裁判で負ければ、そのユダヤ人社会に与える影響は甚大であろう。ユダヤ人コミュニティが、彼女が裁判を受けたことに批判的だったのはそこにある。デボラ自身は、自らの「正義感」から、やむにやまれず、裁判を受けたのだろうが、彼女は自らが負けた場合の社会に与える影響について深く考えていた印象はみうけられなかった。
しかし、だからといって彼女は裁判を行わないべきだったのだろうか? 問題はそんなに簡単ではない。いわば、彼女の弁護士たちが採用した裁判戦略はこの中間を狙うものであった。つまり、

  • まともにアーヴィングを相手にしない

というところにある。アーヴィングの狙いは、この裁判を通じて、自分の主張がより社会的に「影響力」を広げられることである。
ところで、この映画のパンフレットで憲法学者の木村草太さんが評論をしている。

アウシュビッツの生存者に対しては、「ガス室のドアがあったのは左か右か」といった些事を質問し、言い間違いや記憶違いを引き出して侮辱する。
(木村草太「ディナイアル」)

実際、アーヴィングがデボラに裁判を仕掛けた目的はここにある。彼はなんとかして、デボラに自分の「話しかけ」に「応答」させようとする。そうすれば、口八丁手八丁の彼にしてみれば、なんとでも、彼女の「印象」を世間に悪く写るようにできる、とふんでいる。これは、ホロコースト被害者に対しても同じである。なんとかして、彼はホロコースト被害者を裁判の場に立たせたい。なぜなら、彼らが裁判に出頭させしてしまえば、彼はそのホロコースト被害者たちに彼の「質問」に答える

  • 義務

を取得できるからだ。その権利さえ手に入れれば、あとは、上記の木村先生の指摘にあるように、「なんとでもなる」と彼は考えている。というか、こういった人は「そうやって」今まで生きてきて、「成功」してきたと思っているわけであるw
デボラの弁護士チームは、アーヴィングの「ホロコーストはあったのかなかったのか」論争を、まっしょうめんから行わない。そうではなく、

  • いかにアーヴィングが(彼女への)名誉毀損に「ふさわしい」ことを実際にしていたのか

に焦点をあてる。アーヴィングは彼女の本が彼への名誉毀損だと言っているんだから、いや、その彼女のアーヴィング評価は「正当」だ、というところに一点集中する。つまり、この裁判において、ホロコースト「問題」なるものはまったく問われない。大事なポイントは、

  • アーヴィングが「やってきたこと」

にある(アーヴィングが「ホロコースト肯定論」と称してやってきた、さまざまな杜撰な主張の立て付けの悪さ、にこそある、と)。アーヴィングはデボラに彼女の本で、批判されたことに「ふさわしい」人間であることこそが問われたわけである。
そして、パンフレットにも書かれていたように、この映画は徹底して、アーヴィングが

  • なに者なのか?

を避けている。つまり、ここには徹底してアーヴィングの「内面」の描写が避けられている。この映画において、常にアーヴィングは「謎の人」である。彼の「文学的側面」を徹底して、除去して描かれている。つまり、このことが逆説的に、この映画の問題がホロコースト問題でない、のであって、アーヴィング問題であることを示している。ようするに、これは

  • アーヴィングの<政治>

なのであって、だから、この映画は徹底して、アーヴィングの内面描写を拒否したわけである。
ところで、私はむしろ、この映画を見た後に、パンフレットを読んでいて、世の中的に、今、木村草太先生

  • 自身

がある二人の有名人によって、ぼろくそに(まさに、名誉毀損だ!)誹謗中傷をされていることを、どうしても思い出さずにはいられないわけで、まあ、その二人こそ、国際法学者の篠田英朗先生と、まあ、このブログでは何度も登場してもらっている、自称「哲学者」の東浩紀先生なわけである。
さて。この二人は、

  • 日本のデイヴィッド・アーヴィング

なのだろうか? まあ、その判断は読者に任せようと思うが、以下では、私なりにこの文脈を整理することで、人々の判断の助けになれば、と考え以下を書き連ねていこうとは思っている。
篠田先生については、このブログでも何回か紹介させてもらったが、ある方がツイッターでこんな感想を述べられている。

それにしても、"憲法学者の方々が、「篠田の憲法解釈でよい」と学会決議でもしてくれれば...もちろん私は改憲不要論に転ずる。"ってスゴイこと書いておられるような...。要するに憲法学者自衛隊合憲論を"強制"するために憲法改正が要るって明言してる訳ですよねぇ。まあ安倍首相もそうなのか...?
@masa_koz 2017/10/15 18:11:17

私は、その時々の政治情勢等の外的事情や政治的・社会的権力を通じて自説が通説化しても全然嬉しくないし、ひょっとすると放棄しちゃうかもとさえ思うんですが、どうも篠田英朗氏は寧ろ歓喜しそうでもあって、これはどうやら全く違う位相にお住まいのようだから、批判の意味がない気もしてですね...。
@masa_koz 2017/10/15 21:43:47

換言すると、私にとって学説を巡る論争は専門家集団の中での"ゲーム"だけども、篠田氏にとっては"政治"なのだろう、と。それ故に9条3項加憲なる外的イベントに異様に拘るのだろうと想像するが、私が全く理解できない世界だし、したくもないので、そっとじするしかないかなぁ感が半端なく...。
@masa_koz 2017/10/15 21:53:47

ところが、である。これと同じようなことを、東浩紀先生も言っているわけである。

立憲民主党共産党と連携しなければ、ぼくは支持したし、キャンペーンも取り下げた。自衛隊合憲化に反対する勢力は、安全保障から目を逸らているので安倍とか反安倍とか関係なく支持できない。この点ではぼくの考えはとてもシンプルです。
@hazuma 2017/10/25 00:30:42

篠田先生が、「憲法学者の方々が、「篠田の憲法解釈でよい」と学会決議でもしてくれれば...もちろん私は改憲不要論に転ずる」と言えば、東先生は、「立憲民主党共産党と連携しなければ、...キャンペーンも取り下げた」と言う。この

  • 驚くべき

主張をこの二人はまったく、なにも「おかしい」と思っていない。これはなんなんだろう? ようするに、この二人はなにかと「戦っている」わけである。つまりこれは、

  • 政治的行動

を意味しているのであって、上記の方が言っているように、

  • 自分の主張が学術「ゲーム」として、オタク的に「俯瞰している」

といった、ある意味、客観視した視点をもてなくなっていて、なんらかの「政治闘争」のようなものになっている、というわけでしょう。そして、不思議なことに、彼ら自身がそれを、なんの恥かしげもなく告白していることなんですね。
ところで、篠田先生は、2017/07/29 に videonews.com に出演して、神保さんから「篠田先生の説がこれからもっと広がりますよ」とベタ褒めをされていたわけだが、どうも、篠田先生自身は、あんまり乗り気じゃないような、ずっと「言い訳」めいた主張に終始している印象を受けたのだが、なぜ、彼はもっと自信満々ではなかったのだろう?
ところで、以下のブログでは徹底的に篠田先生の『ほんとう憲法』が批判されている。

「日本の憲法学者は、「主権者である国民が政府を制限するのが立憲主義だ」と強調する」(『ほんとうの憲法』14頁)
直言(2017年10月16日)憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)――「9条加憲」と立憲主義

加えて、篠田氏の立憲主義の定義には、「主権者である国民が」という主語を勝手に付け加える表現が繰り返し登場する。だが、憲法研究者の文献に見られる立憲主義の定義には、政府を制限する直接的な主体という意味で「主権者である国民が」という主語はない。「立憲主義とは、国の統治が憲法に従って行われなければならないという考えをいう」(高橋和之立憲主義日本国憲法〔第三版〕』(有斐閣、2013年)19頁)、「国家権力が憲法の制約をうけ、国政が憲法の規定に従って行われる原則を立憲主義(constitutionalism)と呼ぶ」(伊藤正己憲法〔第三版〕』(弘文堂、1995年)10頁)、「立憲主義というのは、権力の行使を憲法に基づかせようという考えである。」(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1〔第五版〕』(有斐閣、2012年)5頁)、アメリ憲法学・政治学の研究者らの教科書でも、「近代立憲主義とは〔...〕憲法を制定し、それにしたがって政治を実践しようとする思想である。権力を制限することを目的とする自由主義的思想の一形態である」(早大政経学部の川岸令和ほか『憲法〔第4版〕』(青林書院、2016年)5頁)、「近代立憲主義は、憲法に基づいて政治を行うばかりではなく、市民の有する不可侵・不可譲の権利・自由を守るために、憲法によって国家権力を制限しようとする」(慶大法学部政治学科の大沢秀介『憲法入門〔第三版〕』(成文堂、2003年)6頁)等々。これらの立憲主義の定義のどこにも「主権者である国民が」という要素は述べられていない。権力を制限するのは「憲法」であって「国民」ではないという極めて当たり前の結論である。それに、天皇主権であった明治憲法も「立憲主義」として観念される以上は、立憲主義の定義に「主権者である国民が」という要素が入らないことは当然だろう。話は単純である。安倍政権の安保法制についていえば、安保法制は憲法違反であり、国政が憲法の規定に従って行われていないから立憲主義に反していると憲法研究者は述べているのであって、「主権者である国民」がどうのこうのという篠田氏の話は、完全に的外れである。はっきり言えば、意味不明である。
直言(2017年10月16日)憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)――「9条加憲」と立憲主義

ところが、これとまったく同じことを、東先生も述べている。

立憲主義は、国民が憲法で政府を縛る立場を意味します。そのためには憲法は国民だれもがわかる文章でなければなりません。自衛隊が合憲か違憲か学説によって異なるという現状こそ、立憲主義の最大の障害なのです。なぜこのシンプルな話が通らないのか、それもまたナゾです。
@hazuma 2017/10/25 01:04:30

これが「ナゾ」なのは、立憲主義の定義が間違っているからであって、逆になぜこれが分からないのか、不思議なわけである。
そして、例の9条解釈についてであるが:

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という9条2項について、篠田氏は次のようにいう。

「禁止されている「陸海空軍」とは、「war potential」としての「戦力」に該当するものである。逆の言い方をすれば、「war potential」ではない陸海空軍は、必ずしも禁止されない」(『ほんとうの憲法』240頁)

篠田氏の法令の読み方は不可である。法令では「その他の」の読み方のルールがある。
直言(2017年10月20日)憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その4・完)――憲法9条をめぐって

憲法の規定では、例えば、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」(14条2項)では、「華族」は「貴族」の例示である。ところが、氏の論法でいえば、「貴族」ではない華族が認められることになるが、概念上、「貴族」ではない華族は存在しえない。同様の論理で、「戦力」ではない「陸海空軍」は存在しえない。篠田氏の論法に従うと、支離滅裂な命題になることが容易に理解されると思う。
直言(2017年10月20日)憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その4・完)――憲法9条をめぐって

さて。なぜこんな「基本的」なことを見逃せるのだろうか? もちろん、篠田先生の主張は、戦後憲法の「英語版」からの主張だったわけだが、だとしても、少なくとも「今の日本語の憲法」では、絶対にそういった解釈が無理であることは、断らなければフェアでないことは、当たり前なわけであろう。
その他の9条の項目についてもそうで、ようするに、それくらいのことは日本の憲法学界においてだって、いろいろと検討されてきたんじゃないんですか、といった点に関して、華麗にスルーをしてしまう。逆に、篠田先生自体が、こういった「解釈案」を「発明」された、と言っている内容自体が、そういったいろいろな文献を読んでいれば、まあ、似たような案が書かれていたなんてことだって、それなりにあったんじゃないのか、と言いたくなる。そういった「スルー」っぷり、なわけなんですよね。
しかし、それにしても、ここにおいても、東浩紀先生は、こういった篠田先生と「似た」構造の発言を、過去からずっと繰り返されている:

今回の騒動の教訓は、憲法は、普通の日本語で書かれるものじゃないといけないということでもある。普通の日本語で言えば、自衛隊は戦力だ。学問の世界で自衛隊は戦力ではないということになっていて、たとえそれが正当だとしても、そういうことをやっていると憲法への信頼自体がなくなるんだよ。
@hazuma 2015/06/15 18:48:29

ここで言っている、「普通の日本語」とはなんなのか? よく考えてみてほしい。上記の篠田先生は、9条2項の解釈で、ある致命的なミスを行っている。しかし、こういったミスは、いわば憲法や法律用語における「ローカル・ルール」だと言ってもいい。もちろんここで、篠田先生はこのルールを当然知っていたけれど、読者にある「印象操作」を行おうとして、意図的にその指摘を記述しなかったのかもしれない。しかし、いずれにしろ、こういったミスが起こりうるから、憲法は「普通の日本語」で書かれなければならないと言われたら、あなたはどう思うだろうか? 当然、本末転倒だと言うんじゃないのか? こういった「ローカル・ルール」があるのは、「誤解」が解釈において起きてはならない、という認識があるからであろう。つまり、「普通の日本語」こそ

  • 曖昧

なわけであろう。なぜか、この「出発点」を忘れている。
そして、篠田先生の持論における決定的な欠点を以下は指摘する。

「集団安全保障及び個別的・集団的自衛権を否定する日本の憲法学の態度は、世界最先端の議論ではない」(『ほんとうの憲法』146頁)

篠田氏はこのように言うが、そもそも、「世界最先端の議論」とは何か。「集団的自衛権の否定」が
憲法集団的自衛権行使を認めないという趣旨であれば、それは日本だけではない。

集団的自衛権は義務ではなくして権利であります。権利をどのように行使をするのか、これは各国の事情に委ねられます。我が国以外にも、例えばスイス、オーストリア、この永世中立国においては集団的自衛権の行使、これは考えられません。また、現実を見ましても、コスタリカという国は軍隊を持っておりません。集団的自衛権の行使は考えられません。各国に集団的自衛権はひとしく認められていますが、その中でどういった形で行使をするのか、これは各国の法律ですとか様々な事情によって限定される、これは当然のことであると思います。義務ではなくして権利であるからして、これは当然のことであると考えます。」(189-参-我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会平成27年09月14日岸田外務大臣答弁)。

篠田氏の言葉を使えば、スイス、オーストリアコスタリカは、「世界最先端の議論」をしていない「ガラパゴス」なのだろう。
直言(2017年10月20日)憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その4・完)――憲法9条をめぐって

これに対応する東先生の持論は以下だ:

憲法9条と自衛隊の存在が矛盾しているのは小学生でもわかることで、そういうのを放置してるからこの国はだんだんおかしくなってくるのだ。
@hazuma 2013/01/01 14:43:12

自衛隊が必要なのは自明であり、そして自明なものを違憲化している憲法がバカげているのも自明である。これは戦前の歴史がどーとか日米同盟がどーとかいっさい関係ない。
@hazuma 2013/01/01 14:49:01

篠田先生と東先生に共通しているのが、ある種の

  • 正義

の観念だと思っている。つまり、国際平和の実現のためには、日本は軍隊をもって、より積極的に外国の紛争に介入すべきだ、という「正義感」であり、その「持論」を達成するために、逆算ですべての主張が組み立てられている。なまじっか、「正義」に関わる主張だから、他人も反論しづらいわけで、それが、「世界の最先端の議論でない」とか「自衛隊が必要なのは自明」といった発言につながっている(どうだろう、デイヴィッド・アーヴィングにどこか似ていないか)。
そういった視点に立てば、「スイス、オーストリアコスタリカ」は、東先生に言わせれば「自明なものを否定」している

  • 狂った国家

ということになるのであろう。
もう一度、この問題の「基本」にたちかえって議論をしてみたい。
それは、最初にも書いたように、憲法学もただの「学問」なのであって、さまざまな学説があって、それらが「ルール」の中で、オタク的に議論がされ、その中で主流の考えが確立されたりしていくというだけのことであって、つまりはこれは、たかだか「学者」の一定のルールの中での「ゲーム」に過ぎない、ということなのだ。
実際、憲法学会でも、今でも多くの学者が自衛隊違憲だと聞かれれば、アンケートにはそう書く人がかなりいるわけであり、別にそのことを憲法学会でもだれも否定していない。事実、自衛隊が合憲という「解釈」をしていたのこそ、ずっと政権与党であった自民党政権のときの、内閣法制局そのものなわけで、つまりはそこには深く、自民党の意向が反映していた。
大事なポイントは、学者は学説に対して、絶対にコミットメントをしてはならない、というところにある。なぜなら、これはたかだか「ゲーム」だからであって、そういったものにコミットメントをすることは、学問の趣旨に反するから。
少し脇道にそれるかもしれないが、東浩紀先生の三冊目の本に『不可視なものの世界』というのがあるが、この巻末の作者紹介の欄には自らを

  • 哲学研究者、批評家

と書かれている。ところが、彼は最近は自らを「哲学者」と名乗っている。さて。いつから彼は、「哲学研究者」から「哲学者」に変わったのだろう? つまりこの厳密な彼なりの「定義」はなんなのか、ということになるが、彼が言いたいのは

  • 自分は大学教授を辞めた(=「哲学研究者」ではなくなった)

というのと「哲学者」というのは、ほぼ同値の意味くらいしかない、ということを意味していて、ようするに、研究者仲間の間の学会的な「ルール=作法」に縛られない、と宣言しているわけである。
もちろん、いろいろな考えをもつことは人それぞれなのだろうが、そのことと「哲学研究者」や「憲法学研究者」だったなら、自ら守らなければならないと考える(つまり、学会に論文を提出する場合に踏まえようと心がける)こととは、全然別のことなわけであろう。
しかし、である。
いろいろとこんなふうに書いてきたが、実は、東先生はいろいろな場面で、少し矛盾しているようにも思われることを言っていたりするわけである。

しかし実際、地方議会ぐらいはそろそろ男女平等条例とか作るところがあってもいいんじゃない? 憲法違反とか言うやつがいそうだけど、そここそ解釈でなんとでもなるんじゃないか。
@hazuma 2014/06/22 15:56:51

同意見だけど、現実にはそうはならないじゃない? RT @sakaima:

憲法9条以外を改正すればいいじゃないか。だいたい改正した方がよいポイントは多岐にわたるのに、改正論になるとすぐ9条で話がスタックする。憲法9条はもう憲法を超えた特別な価値にして、「憲法改正」という言葉からは「9条改正」を除外してほしいくらい(苦笑)。 >RT
@sakaima 2014/10/07 12:31:55

@hazuma 2014/10/07 12:33:41

憲法9条はもう憲法を超えた特別な価値」にするということは、ようするに、9条は絶対にいじらない、ということなわけであろう。つまり、「賛成」なんだよね。また、別に「解釈」に反対しているわけでもない。
しかし、これもどこかデイヴィッド・アーヴィングを思わせる。デイヴィッド・アーヴィングは最初はホロコースト反対論者ではなかった。彼はある時期から、その色彩を極端に強めた主張を始めるわけだが、ここになにか決定的な境界があるわけでもない。それこそ、「観光客の哲学」において、ドストエフスキーの『悪霊』の主人公であるスタヴローギンの本質を

  • 無関心

にこそ求めたように、東浩紀先生自身も、そこまで「本気」で主張しているわけではない。なんとなく、いろいろななりゆきで、こんなことを主張するキャラになっちゃったけど、そこまで、憲法9条をなんとかしなければならない、といったような悲壮感もない。映画「否定と肯定」で、デイヴィッド・アーヴィングの「内面」が決して描かれなかったように、私たちは東浩紀先生が

  • 本当はどうなのか?

とか、

  • その内面(=文学的な側面)において、どんな深い心情が隠されているのか?

といったことを「問うてはならない」。むしろ、そう問うことこそ、彼が「求めているもの」なのであって、そういう意味で、まったく、デイヴィッド・アーヴィングと同型の問題なのだ...。