八木雄二『カントが中世から学んだ直観認識』

カントの純粋理性批判は、まあ、いろいろと書いてあるのだが、その

  • 中心

は最初にある、空間・時間の、アプリオリな純粋直観形式の議論と、第一アンチノミーにおける、空間・時間の無限性の「矛盾」の議論にあると思われる。
しかし、このことはよく考えてみると、なんというか、そりゃあ、そうだよな、という印象を受けるわけで、つまり、最初で空間・時間を「こういうものだ」と決めたのだから、第一アンチノミーの結論がそうなるのは、まあ、そうだって言ったんだからそうだよな、とも言いたくなるところがあるわけである。
これに対して、ヘーゲルはその根本的なところに異論を唱えたわけである。

そもそも、カントのアンチノミー論は「超越論的弁証論」において「純粋理性の本性的で不可避の弁証性」(B344)を暴露することに目的があり、その弁証性は、経験的な知覚などの錯誤や判断力の誤りとしてのカテゴリーの超越論的使用とは異なり、理性を超越的に使用することの誤りとしてのカテゴリーの超越論的使用とは異なり、理性を超越的に使用することの誤り、超越的判断による誤り(超越論的仮象)を暴露することにある。その限り、そこに感性的表象を滑り込ませてしまっては、それが本当に理性に基づく過誤か否か判定できないであろう。この点をヘーゲルは指摘しているのである。ヘーゲルは、世界はそれ自体自己矛盾的ではなく、意識が直観の悟性と理性とに対する関係において自己矛盾的である、と論じる(5.276)。つまり、直観が関与することで矛盾(アンチノミー)が意識に生み出されるということなのである。だから、ヘーゲルは直観を排して、理性や悟性が生じる対象を概念把握しようとするのである。

そういう意味で、カントの純粋理性批判はどこか「トートロジー」の色彩をもっている。カントは最初に、空間・時間が「どういうものか」を与えた。それをもって、第一アンチノミーが解決できる、というのは都合がよすぎないのか、というわけである。
しかし、このことは言ってみれば、ヘーゲルは昔からある「問題」を今さらのようにもちだすことで、カントを批判した、というところに本質がある。つまり、

  • 普遍論争

である。

ところで、「抽象」は学問的認識(名辞)の認識であるから、その認識の完全性は疑いようもない。これはアリストテレスの哲学における常識である。
問題は、感覚認識における完全性である。というのも、当時はまだ、プラトン以来の感覚不信がヨーロッパに伝えられたアリストテレス哲学の伝統においても根強かったからである。その一方で、ストア哲学(紀元前三世紀 -- 紀元後三世紀)の伝統がアウグスティヌスから聖アンセルムス(一〇三三 -- 一一〇九)を通じて、アリストテレス流入以前からフランシスコ会神学者たちの間にあった。そしてストア哲学は感覚不信をもたない。感覚に対しても一定の信頼を置いていた。
読者は、アリストテレスが経験論の立場を取りながらプラトン哲学のもつ感覚不信を引き継いでいたということに、矛盾を感じるかもしれない。経験論は感覚経験の重視抜きには成立しないからである。しかしアリストテレスは、よく知られているように、プラトンの弟子であり、本質形相重視の立場を引き継いでいる。そしてそれゆに彼の経験主義は、経験と論理によって専門家となったものの意見の重視であって、一般人の経験の重視ではない。したがってアリストテレスが知性重視(専門家)の立場に立つことは必然であり、それと対になっているのが感覚の軽視ないし不信なのである。
他方、ストア哲学プラトンアリストテレスをまったく前提していない。むしろソクラテスがもっていた一般的常識感覚を基盤にしていた。人間はふつう、自分が感覚しているものは、その通りに存在していると思っている。不信感を日常的に自分の感覚に対してもつことはない。もっていたら、生活できなくなるだろう。つまり感覚が疑わしくなるのは、日常的な状況ではなく、夜目が利かないとか、森の中とか、不慣れな場所であるとか、特別な状況である。ごく一般的な常識を基盤に人生や世界を考察するのなら、感覚に不信を懐く理由はない。感覚は感覚で、その能力範囲において、わたしたちが日常を生きていく上で十分に正確な、きわめて多くの情報を伝えてくれている。

哲学の歴史には、上記で指摘があるように二つの流れがある。ところが、多くの人はあまりこの二つの「分断」について意識していない。なぜなのか、ということにあるが、一つには現代というか、カント以降の「啓蒙」の時代に、「近代」においては、

  • 自然科学

の手法があまりにも常識的になってしまったから、ということがある。つまり、「経験」的でなければ「真実」でない、ということは今では、だれも疑っていない。もちろん、だから科学者は実験を行うのであって、むしろ、なんでそんなことを疑わなければならないのかが理解できない。
しかし、上記にあるようにプラトンから始まる、今、いわゆる「哲学」と呼ばれているものの始まりは、「経験」に対する強烈な

  • 嫌悪感

から始まっている。これは、エリート主義と言ってもいいが、大衆の「知識」をいかに「馬鹿」にするのか、にこそ哲学の「本質」があったのであって、じゃあ、彼らは

  • どこから

哲学なるものを見つけてきたのだろうということになるが、彼らがどこまでそのことに自覚的だったのかはともかくとして、それは

  • 外部(=外国)

から、ということになるのであろう。
古くはプラトンが自らの対話篇の主人公にソクラテスをすえながら、基本的に彼はソクラテス派に属すことなく、終生、ピタゴラス学派に親和的であったことが知られているが、そのピタゴラス学派のいわゆる「ネタ元」が、インド哲学だったのだろう、ということは知られている。同じように、ヘーゲルは晩年、ヴァガヴァッドギータを始めとしたインド哲学にかなり興味もっていたことが知られているし、ハイデッガーが日本からの留学生を通して、日本の禅に興味をもっていたことが知られている(この事情は、日本の明治以降の哲学についても言えるわけで、基本的にそれは、欧米からの「輸入品」にすぎなかったわけで、そこにおいて、なにが「正しい」かという場合、それは「欧米の本になんと書かれているか」の範囲でしか問われるものではなかった、という意味では事情はまったく同じだったと言いたくなるわけである)。
ことほどさように、哲学者は自らの「アイデア」のネタ元に、海外の思想を使う。こういった思想の特徴は、それらが

  • 指示

しているものがなんなのかは分かりかねるが、妙な

  • 整合性

がある論理「体系」となっていることがあって、へたに素人はそれを「否定」できない、という特徴があるわけである。

ヘーゲルの論じる概念そのものは、カントのカテゴリーが直接的ではあるが、カントのカテゴリーもそうであったように、古来の名辞論理学に基づくいわゆる内包的立場に含まれる。したがって、その概念も、概念に付けられた名前から一定程度推測できるように、概念自体に(各々の哲学者による定義は別として)ある意味を、一定程度付与しうる。だが、今日の命題論理、述語論理のように、完全な外延的視点に基づく論理計算の中では、。内包的な意味付与が徹底して排される。その視点にまで至るなら、ヘーゲルがカントを批判した問題がヘーゲル自らに戻ってくることになろう。つまり我々は感性的な表象を外した記号操作によって、どこまでこの現実世界を語りうるか、という問題である。
時間の思想史―双対性としてのフィジカ・メタフィジカ (龍谷叢書)

概念間の操作は一体何をやっていることになるのか。論理世界はどのような存在論的位置付けが与えられるのか。あるいは世界の根源的な実装を見通せる、という主張については、我々は、懐疑的だろう。
時間の思想史―双対性としてのフィジカ・メタフィジカ (龍谷叢書)

ヘーゲルの哲学体系は、一見すると、公理的集合論などの、いわゆる、数学基礎論に似ている。多くの「無定義述語」を作って、そこに、暗黙の「公理系」を作って、それらの再生産をひたすら行っている、というふうに見えて、結局これがなんなのか、は容易に分からない。つまり、こんなことをやってなにになるのだろう、という素朴な疑問を与えて、放り出す。
しかし、この「普遍論争」に後期のスコラ哲学において、ある決定的な成果が現れることになる。それが、スコトゥスの神学であって、カントどころか、カントと同世代の哲学者も、そこにおける「直観」という言葉について、ほとんどなんの説明もなしに使用しているという事態をもたらしている、と掲題の著者は推測する。

カントの十八世紀の著作『純粋理性批判』を読むと、第一章の第一部、感性論のなかで「直観」が種々述べられている。その記述を読むと、カントは個別の直観が知性の総合的判断を構成することができることについては、とくに問題を感じていない。また、それを常識と見なしているようである。しかし、じつは中世では、知性は「普遍」にかかわり、他方、感覚は「個別」にかかわることが哲学の常識であった。それが、まさに感覚と知性の区別っであった。すなわち、知性と感覚は、その認識対象において峻別されちた。言い換えると、一方が他方の要素になることは絶対にないと見なされていた。したがって、個別にかかわる直観が、どのようにして感覚を超えて普遍者をとらえる知性の領域に入り、その判断を構成する要素となるかについては、本来なら、詳細な検討が必要なのだ。しかし、カントは、それをしているようすはない。
ヨーロッパの近代哲学者がどんなに中世の哲学を否定しているとしても、本人たちは大学では唯一権威のある哲学として「スコラ哲学」を学んでいる。そしてヨーロッパの大学では、十八世紀の終わりまで、まさに何世紀もの間、スコトゥスの神学は「代表的スコラ哲学」として知られていた。

ところでこの「直観」という言葉に似た、昔から日本語にある言葉に「直感」がある。ちょうど、同じ読み方になっていることもあり、混乱の元なのだが、直感というのは、なんというか日本語で「勘」に近いもので、本質的には「直観」とは違う。直観は、なんといったらいいのか、スコトゥスが自らの「神学」を展開するために作った「用語」といった色彩があって、基本的には「哲学用語」ということなのだと思う。

日本語には、「直感」ということばがある。その漢字表記と「直観」との同音から、誤解が生じやすい。言うまでもなく、「直感」は個別感覚(五官)にしかない。五官が、直接に対象を感覚認識する意味をもつ。それに対して、「直感」という名辞は、感覚のみに特有ではない認識の意味で用いられる。何かしら外部のものの経験において「直接に」という意味は、「直感」と共通であるが、「直観」ということばは、その認識を受け取る能力に関して感覚に限らず、知性にも適用できる名辞である。
しかしこのように詳細に見ていくと、個別感覚とは区別して述べられる「感覚表象」はどうなのか、という疑問にぶつかる。というのも、具体的に見ていくと、感覚表象に映る像、「可感的形象」と、知性に初めに入る像、「可知的形象」は、理屈(ことば)の上でのみ区別が可能な二つの像になるからである。言うまでもなく、一方は感覚性を保ち、他方はそれをもたない。たとえば「馬」であれば、その姿(視覚像)を思い浮かべれば、それが馬の絵であって、特定の個別の馬であると指摘はできなくとも、やはり感覚の像(可感的形象)である。他方、「馬」ということばで表現されるイメージ「四つ足の動物で、人を乗せて走ることができる......」ということなら、それは知性がもつ像(可知的形象)である。
実際、ことばの形をとることが、「知性認識のかたち」である。ギリシア語の「ロゴス」は、「ことば」を意味するが、それがいつしか哲学において「理性」を意味することになった。つまり「ことば」による認識をもつものが、「理性」であり、「知性」なのである。そして「ことば」の理屈(「論理」)に従うことが「合理」である。そしてまた、「論理」に従って考えを進めることが「推理」である。
「ことば」は、コミュニケーション(人と人の間で共有される情報)を支えることからもわかるように、「ことば」は、人間社会がもつ共通認識を表すものである。それゆえ、「ことば」が作る理性は、同時にその「社会の真理」を、「ことば」を通じで、つまり「ことば」を使って、受け止めている。
したがって、感覚認識とは、人間の認識において、ことばが成り立つ以前の認識を指す。それはまさに「ことばでは完全には表せない」直接的な感覚である。そこから生まれる感情ないし感動は、「うまい」とか「きれい」とか、ことばで表現されるが、その直接感覚の像は、そのときの感覚がもつだけで、他者に伝えることができない。

最初の引用でヘーゲルがカントを全否定したのも、ヘーゲルは「直観」という言葉を基本的に自らの哲学体系で使っていないわけで、じゃあ、なんでなのかというところに、「普遍論争」の残滓がある。つまり、人間の、というか、大衆の「感覚」といったものは、懐疑論的に

  • 疑わしい

という認識があって、「そこから」始めている限り、どんなものも「まともじゃない」といった、まあ、いわゆる「エリート主義」が隠されている。つまり、そういった、いいかげんなものを離れたところで「ちゃんとした」ものの中だけで、安全なユートピアを考えたい、といった姿勢がある。
しかし、こういった態度は、まあ、デカルトの近代以降、というか、ニュートン物理学以降の

  • 科学

においては、どこか意味不明なところがある。なぜなら、科学とは「実験」なしには考えられないものになったわけであるし、それは現代にまで通じる、ほとんど変わらない普遍性をもつようになった。

身体から離れた霊魂と天使が、身体性をもたないことによって類似の状態にあることはすでに指摘した。それゆえ、天使の認識においても、直観の認識様式が論じられる。

318 問題に対して、したがってわたしは別の仕方で答える。第一に、わたしは、二様の知性認識を区別する。すなわち、或る認識は、あらゆる実際的実存から抽象する仕方である認識であり、或る認識は、或る実際的実存において実存し、かつ現前する仕方である認識である。

スコトゥスは、ここで抽象と直観を簡便に定義している。
抽象は、実存とその現前から対象を抽象した、つまり「今、目前に、現に在る」という個別的状況を捨象した対象の認識であり、直観は、その実際的実存と現前を捨象しない、そのままの対象の認識である。
一方は個別的状況を捨象しているが、他方は、捨象していない。

これがスコトゥスの「直観」の定義であるが、カントがどのように科学を正当化しようとしたのかを、ある意味うかがわせる。直観は、まさに

  • 言語

に「汚染」される前の、ある感覚的ななにかであるわけだが、カントの本質的なところは、「これら」が、さまざまな人間の中の「能力」との相互作用によって、科学と言ってもいいが、つまりは、「理性」によって、なんらかの学問的な成果を残していく、ということなのであって、もっと言えば「直観」から始まっている、ということなのであって、このベースをはっきりさせようとした、というところに、プラトンでありヘーゲルとの違いがある、ということなのであろう...。