城戸淳『理性の深淵』

結局のところ、カントの何が新しかったのだろう、と問いなおしてみると、なかなか難しくて、というのはカントの議論のなにが「成功」しているのか、という問いそのものが難しかったりする、という状況もあるわけで、まあ、なんと言ったらいいのかな、といった所があるわけである。
そのことは、純粋理性批判のどこの結果こそが、カントのこの本における中心的な成果なのか、なにがこの本によってなされたのか、をどこの主張に代表させればいいのかと問うことの難しさにも関係しているわけで、そう考えるとよく分からなくなってくる部分は少なからずある。
それは、第3アンチノミーの解決にこそあるのだろうか? 確かにそうであるなら、話は簡単で、第3アンチノミーの解決すっげーで、話は終わってくれるのでありがたいのだが、これが

  • 解決

である、という「解釈」自体が、一定のカントの哲学の「解釈」なしにはすまないわけで、しかも、そんな簡単な主張じゃない。まあ、分かりにくいという時点で、そういうものを主張の「中心」として考えるのは変なんじゃないのか、というのは一理あるわけである。
そう考えてみると、カント「が」新しいのではなく、デカルトから始まった近代哲学「が」新しいのであって、デカルトが『省察』において行った、「我思うゆえに我あり」についての考察から、ジョン・ロックの『人間知性論』における、自我の「同一」性の理論を、基本的には踏襲した(いや、ある意味において、それをさらに徹底させた)ところにおいてこそ、彼の「可能性の中心」がある、と考えるべきなのであろう。

だが、カントのテクストがほんとうに異様に映るのは、このような馴染みの二分法を突き崩し、超越論的統覚そのものを経験的ななにかへと直結させようとしっているからなのである。そしてこれこそが、Anmerkung B422-423 がその仄暗いことばで抉り出そうとしているものである。カントの眼差しは、cogito は sum を直接的に含み、sum xogitans と同一だという同一説の、その根拠に集中している。カントはコギト命題の推論説を却けてひとまず同一説を定式化しておいて、つぎのように続ける。

「<私は考える>という命題は、ある未規定的な経験的直観、すなわち知覚を表現している(したがってこの命題が 証示しているのは、感覚が、それゆえ感性に属するものが、すでにこの実存在命題の根底に存しているということである)。だがこの命題は経験に先行する。経験は知覚の客観をカテゴリーによって時間にかんして規定すべきものである。そして実存在はここではまだカテゴリーではない。すなわちカテゴリーが関係するのは、未規定的に与えられる客観ではなく、それについてわれわれが概念をもっていて、それがこの概念の外でも措定されるか否かをわれわれが知ろうとするような客観のみである。ある未規定的な知覚がここで意味しているのは、与えられた、しかも思考一般に対してのみ与えられた或る実在的なものにすぎない。したがってそれは、現象としてでもなく、事物自体そのもの(ムーメノン)としてでもなく、じっさいに実存在する或るものとして、そして<私は考える>という命題においてそのようなものとして表示される或るものとして、与えられた或る実在的なものである。」(B42-423 n.)

論述の糸は錯綜し、暗がりに手を伸ばすように手触りの荒いことばが並ぶ。ケンプ・スミスが指摘したように、ここでカントは「......超越論的自我を現実的なものとして措定すると同時に、この自我へのカテゴリーのいかなる適用可能性をも否定することを可能にするような定式化の様式」を探しもとめて、「通常の述語法から完全に離れて」ゆく。現象的自我を実存在として規定する手前にある、そして純粋カテゴリーによる自我存在の思考へと失われない、超越論的自我の「私はある」をめがけてカントは、いったんは完成しかけた批判哲学の形式構造をみずから破壊するのである。

私は確かに「考えている」。しかし、それは

  • どこ?

カントの純粋理性批判において、この「私は考える」をどこに置けばいいのかが分からない。つまり、この<場所>がまったくよく分からないのだ! ジョン・ロックが指摘するように、私は昨日も一昨日も「私」としていた。というか、そうとしか、まったく私には思われない。そうでなかったといったことを考えすらおよばない。そして、一年前も、二年前も、たしかにそうだったとしか思えない。この

  • 同一性

とは一体なんなのか? そもそも、この世界は自然界の物理法則によって「変化」し続けているなにかでしかなく、ここで言っている「同一」というものが実現していると考えることこそ、欺瞞的にしか思われない。なぜ、「同じ」なのだろう? なにが私を「同じ」と思わせているのだろう? 私は変わっている。それなのに、なにが私を「同じ」と思わせているのか?
ようするに、カントの哲学においても、この<場所>がよく分からなく、不分明なのだ。うまく、<ここ>を論理化できないのだ。

自由の根拠の不可知性をめぐるカントの洞察は、トマス・ネーゲルのいう「盲点(blind spot)」の構造によってさらに解明できるかもしれない。ネーゲルによれば、われわれは自己を適切にコントロールするために、みずからの行為とその理由をいわば「自分自身の肩越しに見ている」わけだが、しかしこの自己監視はけっして完全なものにならない。「そしなにかが知られうるのなか、なんらかの知る者がレンズの後ろに残っていなければならない」のだから、自己監視の目の後ろ、あるいはその中心には、かならず盲点がある。そしてこの盲点のなかに、「われわれが行為するときに考慮のなかに入れえない或るもの----なぜならそれこそが行為するものだから----が隠されている」。自己の背後をどこまでも厳密に監視しようとすると、世界のなかへと行為することが不可能になるだろう。行為するとは、不可視の盲点を顧みず、あるいはそれこそが自己自身だと信じて、前に踏みだすことである。これはいわば、実践というパースペクティヴはその「虚焦点(focus imaginarius)」(A644 / B672)を現象の向こうがわにではなく、現象の手前がわにもつ、ということである。自由という超越論的理念を客観的に観察することができないのは、あまりに遠い彼岸にあって見られないからではなく、近すぎるところに隠れてひたすら見ているからなのである。

こういった視点は、マルクス資本論にも似ているし、ゲーデル不完全性定理にも似ている。なんらかの

  • ロジカル

なものを究極的につきつめていくと、常にこういった隘路にぶつかるように思われるわけで、言ってみれば、その「観念」において、デカルトジョン・ロック、カントに共有されていて、それ以降の近代を規正し続けている、なんらかの表象だ、ということなのであろう。
もちろんそうは言っても、カントがなにも「新しい」ことがない、ということではない。

最後に逆向きに視点をとって、ロックからカントに対する批判を想像してみよう。カントにおいては、客観的な現象認識と自己同一性の意識とが超越論的に制約しあう。この共犯的な相関性こそ、カントの超越論的な探究の鋤がついにそこで反りかえる岩盤である。だがロックはこの岩盤を割って進む。すなわちロックは、意識の転移や錯誤の可能性を認めたうえで、すべてを「神の善性」に委ねてしまうのである。これは逆にいうなら、たとえ私と世界を包括する整合的なひとつの経験が成立しても、その全体が神の欺きかもしれない、ということであろう。これは道徳哲学の場面でもいえることである。カントの倫理学が理性の自律によって自足的に基礎づけられるのに対して、一ノ瀬正樹が指摘するように、ロックは『統治論』において「戦争状態においては天に訴える(appeal [...] to heaven)ほかに途はない」と述べて、自然状態の保全を究極的には神に委ねてしまう。このロックからみればカントの超越論的な議論は、一定の真なる経験や理性の道徳性という事実を想定する。いわば緩い議論にすぎない。全世界的な虚偽やまったき戦争状態は、カントの真実とその超越論的前提をまとめて破壊しつくしてしまうであろう。だが啓蒙の世紀をへてカントには、神に訴えて後ろ楯を得るという手段はもはや許されていない。

デカルトジョン・ロックと、カントを分かつものは、なんらかの

  • 近代性

だと言うしかないわけであろう。その「時代」を分かつものに、もはや

の観念に理論を逃れればすむ時代は過ぎ去っていた、という事実がある。それは、ある意味でカントこそが、つき進めた理念ではあるのだが、逆に言えば、その「時代」が彼にそうであることを強いていた、そういう時代であった、ということは言えるのだろう...。