<同情>は道徳の基礎になりうるか?

人ならだれもが「同情」する、と言うとき、この「同情」という人間の機能さえ

  • なんとかすれば

理想の「ユートピア」社会が実現できるのではないか、といった空想を行う人たちが現れてくる。
しかし、こういった主張は古くは、ルソーから、ショーペンハウワーから、アダム・スミスから、リチャード・ローティから、東浩紀先生の『観光客の哲学』まで、途切れることなく続いて、現れる。
こういった人たちがそろいもそろって、「仮想敵」にしたのがカントなわけだが、そのロジックは以下になり、しかもほとんど同じようなことを言っていることも興味深い。

ショーペンハウワー以来、次のような批判が、カント主義に向けられてきた。意図が善であるためには、意志を規定するいかなる対象(質料)も介入するべきではない。しかし、その際、純粋な形式(法の普遍的な形式)では意志を十全に規定できない。そうすると、この法の起源そのものが問われることになる。いったいどこから、「それが道徳律であるかどうかを問う観念」が、人間の頭に目覚めたのか(別の言い方をすれば、どこから人は「道徳律を探し求めるという観念を突然」手に入れたのか)。こうした考えは、人間の本性に属すものでも、ましてや経験から明らかになるものでもないために、カントはそれをどこか他の場所から持って来なければならなかった。そしてこの他の場所とは、果たして、カントが手を切ったと主張している宗教的古層にほかならない。カントは、定言命法の形式で、伝統的に神の命令であったもの----古代のモーゼの戒律(十戒)----を世俗化しただけなのだ。ショーペンハウワーの結論によれば、道徳律を考えるのに、カントは再び「神学者」にならなけなならなかったのである。
カントに二つの長所を認めることができる。一、思弁的な古代神学を決定的に破産させたこと(『純粋理性批判』によって。したがって、道徳の基礎づけの問題を提起しえた)。二、道徳性を明瞭に定義しえたこと(利他主義という規準によって。したがって、幸福という古代の関心事から道徳性を解放した)。しかし、ショーペンハウワーは、その上で「人倫の形而上学」のうちに、別の基礎を探しだそうとした。つまり、一方にある神学の落とし穴と、他方にある合理主義の落とし穴(これはそれ自身神学へ再び送り返される)を避けて、唯一可能な道徳の基礎に立ち返ろうとしたのである。この基礎は、道徳を自然的なものとする。そしてそれは、「憐れみ」以外にはありえない。それは、ルソーに立ち返ることである。

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

東浩紀先生の『観光客の哲学』では、リバタリアニズムが、それが「福祉」を拒否するという理由で、重要視されるわけだが、それは人間を

  • 動物

として扱うシステムだからだ、と言う。つまり、そこにおいては、人間の「言語」的な能力は媒介とならない。国家は、まるで動物園において、さまざまな動物を檻に入れて「管理」をするかのように、人間を「管理」する。なぜそれが「正当化」されるのかというと、もはや人間の

  • 理性

の可能性に未来を賭けることは不可能だと判断するからだ。人間は「動物」である。だから、そもそも「意志疎通」は不可能だし、言語的なコミュニケーションには限界がある。人間と人間との関係を「熟議」や「話し合い」による「合意」に見出すことはもはやできない。そんな「カント」的な「理性的存在」として人間をイメージすることは、不可能なんだ。と言うわけである。
しかし、これとほとんど同じ認識を述べていた人が、その本の第一部の最後でとりあげられている、リチャード・ローティである。彼は、人々の「連帯」の最後の可能性として

  • 同情

  • 共感

に見出す。つまりそれは、もはや「人間」でなくてもいいのだ。というか、彼もすでに、そのアイロニカルな認識において、人間を「あきらめ」ている。だからこそ、この「動物」の能力において人間を救おうとする。
例えば、ピーター・シンガーという功利主義者がいるが、彼が功利主義を主張するときの仮想敵もカントであった。カントの道徳には「同情」がない。こんな非人間的な道徳がありうるのだろうか、というわけである。まったく、上記の引用と指摘している内容が同じであることが分かるであろう。

そして道徳判断の客観性を伴う理性主義的な内在主義はいかにして可能なのかを問うことが、内在主義者にとって課題となるが、これはマイケル・スミスの「道徳の中心問題」の一つでもある。マイケル・スミスの「道徳の中心問題」とは、下記の三つはともに成立することはなく、メタ倫理学は下記のどれかを捨てなければならないという問題である。ただし以下はマイケル・スミスの問題設定の厳密な紹介ではなく、私が再構成したものである。

(1) 道徳の客観性あるいは道徳的実在論(道徳的事実の存在)
(2) 道徳の実践性 / 規範性(道徳判断のもつ動機づけの力、つまり内在主義)
(3) 信念と欲求を区別し、動機づけを与えるのは欲求のみであり、信念のみでは動機づけの力を持たないと考える立場

(蔵田伸雄「カント倫理学の動機内在主義」)

一方現代のカント主義の主流の論者は、道徳的価値や道徳的事実について堅牢な(robust)実在性を認めるわけではないが、「カント的構成主義」(ロールズやコースガード)をとることで実質的には実在論的な立場をとっている。そのためカント主義者は(1)の道徳実在論を捨てることはない。またカント主義者は当然(2)の道徳の実践性と規範性も捨てることはできない。カント主義者に残された選択肢は(3)のヒューム主義を捨てることだけである。確かに信念と欲求の区別の放棄がカント倫理学の中で明確に示されているわけではない。だが信念と同様に知性的・命題的で、さらに欲求と同様に動機づけの力をもつ原理としてカントは「格率」という概念を導入している。この格率概念を導入することによって(3)の立場をカントは捨てていると言うことができる。
さらにカントは道徳法則に対する尊敬感情という理性的な感情による道徳的行為の必然的な動機づけを認めている。
(蔵田伸雄「カント倫理学の動機内在主義」)
カントと現代哲学 (現代カント研究13)

まあ、早い話がカントは、ヒューム主義と戦っていたわけで、その「ネタ元」がカントを批判するために、さまざまな口パク野郎たちによって、拡大再生産されてきた、というわけなのだw
ヒュームの主張は一見すると正しいように思われる。つまり、私たちは人間である前に「動物」なのであって、私たちの行動の一切は、結局のところは「感情」に左右されているのではないか。そして、そこから人間は逃れられないのではないか。人は、他人にバカにされるのが嫌だから、簡単に嘘をつくし、しらばっくれる。しかし、人間とは、そういうものなのだから、そういった人間の「感情=傾向性」からどうやったて逃げることはできないのではないか?
こうして、カントとヒュームの、何世紀も前から続く「神学論争」は終わることもなく今にまで続いているわけであるがw、しかしその前に少し待ってもらいたいわけである。

第三アンチノミ解決の「悪意ある嘘」の例でも、悪意ある嘘をついた行為者の経験的性格を遡れば、その生来の素質や悪い教育や社会状況などが見出され、その行為が経験的に決定されていたことがわかるのに、なぜわれわれはその行為者を非難するのか、という問いに対してカントはつぎのように答える。

「というのは、それまでの人生の営みがどのようなものであったかは完全に脇に置くことができ、そして諸条件の流れさった系列は生起しなかったものとみなしてよく、あたかも行為者がこの行ないによって帰結の系列をまったく自分から始めたかのように、この行ないは以前の状態にかんしてはしかしまったく無制約的なものであるとみなしうる、ということが前提されているからである。」(A 555 / B 583)

性格形成の過程を遡源していけば、ついにアポリアに陥る。われわれはそれゆえ、その性格形成の「流れさった系列」はなかったものとして、その行為によって系列が開始されるかのように考えるのである。ここで「かのように(als ob)」は、行為による系列の開始はあくまで行為者の実践的な観点から正当化されるにすぎず、そのように理論的に構成されうるわけではないことを示している。「流れあった系列(verflossene Reihe)」という言いかたは、第一アンチノミーの定立証明の「無限に流れさった世界系列」(A 426 / B 454)を想起させる。第一アンチノミーが流れさた系列を無際限の遡源とすることを指示するのに対して、第三アンチノミーは流れさった系列を背にして、無制約者からの開始へと転回する。
このような無制約的な開始は、性格と行為の経験的な連鎖系列に対して、叡知的な原因性として効力を及ぼす。すなわち性格と行為の現象は、時間に即して因果的に連鎖して経過するにもかかわらず、理性の「持続的な(beharrlich)条件」(A 553 / B 581)のもとに立ち、「純粋理性の叡知的性格の直接的な作用」(ibid.)に支配される。いいかえれば、水平的に流れていく行為の現象系列は、垂直方向からの「叡知的な原因性」によって根拠づけら、その「根源的行為」(A 544 / B 572)によって持続的に決定されるのである。
第一アンチノミーでは斥けられた、「永遠から」の世界創造という伝統的な神学思想は[第六章第3節・第5節]、こうして、いわば「永遠の現在」に立って自己決定する人間の叡知的原因性として取り戻されることになる。ただし、この「永遠の現在」をウッドのように額面どおりの神学的な無時間性として受けとる必要はない。すでにみたように、現象の時間的な流れに垂直的に対峙する超時間的な超越論的人格という思想は、第三誤謬推理の解決において示唆されていたものであり[第四章第3節]、それはさらに演繹論の<自己意識の総合モデル>においける統覚の分析的統一[第三章第4節]に呼応している。このような理論的な場面での考察がこの自由論においては、人格が持続的な原因性として現象系列の帰趨を叡知的に決定している、という思想へと拡張されると考えればよい。

ヒューム主義とは上記の引用にあるように、カントの立場から言えば、それは「理論」理性の範囲にとどまっているなにかにすぎず、「実践」理性の域にまで達していない。つまり、カントはどうしてもヒューム主義にとどまることができなかった。ではなぜそうなのか、が本当は問われなければならない。
それは、今さらのようにヒュームをもちだして、カントを馬鹿にしていればすむような話ではなく、まさに、現代社会に「基礎」に関わるような、ある基本的なもの、つまり

  • 自由

に関して、どうしても譲れない線があったからであろう。そういう意味では、上記のようなカントを批判している連中は、ある「矛盾」を自らに抱えながら、それに答えようとしない。つまり、彼らはこの

  • 自由

の問題を一瞬であれ「忘れる」ことによってしか、カントを批判できない。そういう意味で、彼らは理論的に「不徹底」なのだ。

したがって、羞恥や憐れみの反応は、自然的な性向として体験できるとはいえ、感覚能力をつかさどる性情に還元されない。したがって、こうした反応は、「理性」か「感情」かという伝統的な対立を免れている。自然的な反応は、経験的に規定され、そして結果として、個人的な利害関心に結びつく動機ではなく、わたしたちの中にある責務のしるしなのだ。その責務は、他人との根本的な絆として、あらゆる経験の手前にある。羞恥や憐れみの感情を通じて、わたしが自分の意に反してでも反応し、心揺さぶられるのは、わたしが諸存在の共同体に根ざしているからである。結局のところ、カントが、道徳を経験によって条件づけることをあらゆる面で拒否し、道徳性を人間の本性に属させることを断固として禁じたのも、正しかったのだ。
道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

フランソワ・ジュリアンは『道徳を基礎づける』において、最初の引用にあったように、一方でカントをルソーを使って批判しておきながら、ここの引用にあるように、孟子の「四端」の考えを敷衍する形で、結局はカントを肯定する。
ここにあるのは、かなり重要な問題で、そもそもそうでなければ、道徳理論は成り立ちえない、という認識に関係しているわけであろう。よく考えてみてほしい。「羞恥」や「憐れみ」は、そもそも人間が自由にコントロールでもるものではない。それは、ある

  • シチュエーション

に関係して、まるで自らが「自動機械」のように「反応」してしまうなにかにすぎないわけで、利己的な人間が考えるのは、

  • どうやってそういったシチュエーションに自らを置かないか?

といった「合理性」なのだ。もしもこれが、「人間の本能」だとするなら、国家はその人間の「本能」を利用して、国民を支配しようとするわけであろう。それは、明治政府が、

  • 家族

を利用して、国民を<支配>しようとしたように、国民を国家の命令に従わせるために「家族」を利用する。人間は家族のために死ねるのではなく、国家が国民を国家のために死なせようとするために、「国民は家族のために死ねる」存在である、というイデオロギーをマインドコントロールする(=刷り込む)わけである。

革命には、多くの人びとの心をひきつけるスローガンが必要です。「一部の人間の平等」と書かれた旗のもとに血を流す人びとを集めることはほとんどできないでしょう。このため、革命のイデオロギーとスローガンは、現実を追いこしてしまいます。ブルジョア革命によって作りだされた社会を調べれば、人びと、男女、人種、国のあいだに、冨と権力の非常に大きな不平等を見いだせます。

遺伝子という神話

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なぜ人は「なにかのために死ねる」のか? それは、その「なにか」が目指している社会が自分が属している人間関係にとって理想的だからなわけであろう。自分にとっての「みんな」が、その「革命」によって、「自由」や「平等」を獲得できると思うから、自らの命をたとえ失うことになったとしても戦おうと思えるわけであろう。
カントが「実践」と言っているのは、この「自由」な社会を実現するための実践のことなのであって、そのための一歩一歩の営みのことに過ぎない。どうやれば、そういった社会が実現するのか。どうやれば、それに一歩でも近づけるのか。つまりはそうやって「考え」続けなければいけないのだから、それが

  • 本能

という自動機械に任せれば済むわけはないわけである...。