カール・シュミットの友敵理論にまつわるいろいろ

ところで、東浩紀先生の『一般意志2.0』について、非常に「単純」に批判するとするなら、以下に関係して行われることになるであろう。

すでにおわかりのように、この枠組みにおいては、本論がいま模索しているような、コミュニケーションなしに「均されたみんなの望み」を数理的に導きだすような過程はそもそも政治や公共の名に値しないことになる。

つまり、東浩紀先生の考える「一般意志」は、ビッグデータから

  • 計算<できる>

というところにポイントがあって、だから、「民主主義は<いらない>」という構造になっているわけであるが、カール・シュミットをもちだすまでもないが、政治のポイントは「決断」にあるのだから、決断したから、その決断した人には「責任」が生まれるし、それによる「賞罰」への忍従を関係者に認めさせられる、という構造になっていたわけなのだから、その「決断」の契機の<ない>ものを、私たちは

  • エリート独裁

として、民主主義と非なるものとして斥けたわけで、改めてそれをもちだされているという意味で、復古主義保守主義として認められない、ということになる。
しかし、これに対しては、さすがに東浩紀先生を一定の反論を行っていて、問題はそれが一定の説得力をもっているのか、ということになる(みなさんで、解釈してみてください)。

特殊意志と一般意志が相反するように見えるときは、じつは市民は自分の本当の望みに気がついていないだけだ、というのがルソーの主張である(「人はつねに自分の幸福を望むが、かならずしもつねに、何が幸福であるかがわかっているわけではない」」)。人民が自分の本当の欲望に気がついていない、というこの構図がすでに精神分析を予感させる。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

ロックの考えでは、市民は自らの生命と所有権を守るために社会契約を結ぶのであり、そのかぎりで自然権を政府に委託するにすぎない。したがって、市民の所有権を脅かす政府は不当であり、社会契約を破っているのだから、市民のほうとしてももはや契約を守る必要はなく、したがって国家を離脱したり政府を転覆したりしてもよい(革命権)。その行論には、人民は本当の幸福を自分ではわかっていないのでかわりに立法者がそれを実現するのだ、といったルソー的なパターナリズムはいっさい入る余地がない。ロックの社会契約の当事者は、自分がなにを望み、なにを守るべきなのか、きちんとわかっている。ところがルソーにおいては、その前提が崩れているのである。筆者はそこに、のちのフロイトを予告するものを観察し、したがってここでは「無意識」という言葉を使う。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

上記の議論が異様なのは、「特殊意志と一般意志が相反するように見えるときは、じつは市民は自分の本当の望みに気がついていないだけだ」という主張であろう。これは、ようするに、「一般意志」はその人がなにを主張していようと「正しい」ということの含意となっているわけで、ロックの社会契約と根本的に反する。ロックの社会契約は、徹底した当事者による「同意」によって成立する。つまり、大事なことは自分が「本当」はどう思っているのかに

  • 関係なく

当人が「同意」という行為をしたのかどうかによって成り立つ秩序なのであって、当人が「同意」したなら、その当人はその「責任」を一定程度感じ、その責任を引き受ける、ということが前提になっている。
しかしそのことは、「ロックの社会契約の当事者は、自分がなにを望み、なにを守るべきなのか、きちんとわかっている」ことを意味しない(というか、そんなことはロックの本のどこにも書いていない)。ロックが言っているのは、当事者の「同意」がない限り、その責任を当事者に押し付けることはできない、という原則だけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
というか、そもそもこれは、フロイトでさえそうなのである。フロイトは、自らの精神分析を患者の「反応」という相においてのみ、意味のあるものとした。フロイトは、患者が医者の診断に対して、なんらかの「拒否反応」をすることによって、その診断の「意味」が発生する、と解釈した。そうである限り、そもそも患者の「反応」なしに、一切の診断は行えないのだ。
上記のルソーは典型的な「パターナリズム」である。

  • どうもあんたはレイプされたいといった顔をしているから、レイプしてやったよ
  • どうもあんたは死にたいといった顔をしているから、殺してやったよ
  • どうもあんたは大学に行きたくないといった顔をしているから、大学入試を不合格にしてやったよ

こういうのがパターナリズムであって、ようするに、このように扱われる当事者が実際に「同意」したのかどうかに関わらず、「強制」することには「正当性」がある(=正しい)、という考えなのだ。
そしてこの事情は、一般意志2.0 においても変わらない。ここでの「計算」がなぜ、利益相反をまぬがれていないと考えるのか? その根拠はどこにもない。つまい、この「計算機」を作る奴の、まさに「無意識」がそこに反映されている。この構造は、ルソーの一般意志が、ナチスの独裁と繋げて考察されてきた議論と通底する問題なのだ。
一般的に、ルソーの「一般意志」と言うとき、それは現代で言うところの(「法律」と区別して)「憲法」のことを言っていると解釈される(カントの「永遠平和のために」にも、そういった記述があったが)。つまり、憲法は「社会契約」という、自分が生まれる「以前」の原始として仮構される「契約」が、そこに反映される、と考えるからだ。
しかし、そう考えると、こういった「憲法」をもたないイギリスのような国家が、ジョン・ロックの活躍した場所だったということは示唆的なようにも思われる。憲法はよく考えてみると「危険」だ。なぜなら、そこに、危険な思想がもしも書き込まれた場合、それを修正することが、著しく困難だからなのだ。こういった憲法をもつ近代国家は、この憲法に、危険な「思想」が書かれる「不安」に常に悩まなければならなくなっている。
そのように考えた場合、多くの先進国において、ほとんど憲法が変更されることがないことは多くのことを示唆している。その憲法の作成段階において、その憲法をもっているという「理由」によって、それらの国家は

  • 国際社会の一員として迎えられる

という経緯を経ているため、大幅な改変は警戒されるわけだ。憲法は「変えられる」のではなく、作成当初のものを「変えない」ということによって、その国家がほとんど、イギリスのような「非憲法国家」と始めて同列になる。つまり、イギリス以外の非近代的だった後進国が、このような国際社会の国家連合に参加する「登竜門」として、基本的に変更されることのない憲法を作成することが、一つの慣習となった、と考えることもできるのではないか。
ところで、東浩紀先生の『一般意志2.0』について、私は今さらながら、この本が、シャンタル・ムフの『政治的なものついて』を、かなりの割合で

  • パクっている

ということに、あらためて『政治的なものについて』を読み直して気付かされた。例えば、『一般意志2.0』の最初で、ハーバーマスの言う熟議による民主主義を上記の引用にもあるように、「コミュニケーションのない<政治>」なるものによって、代替することを提案しているわけだが、おもしろいことに、シャンタル・ムフハーバーマスの言う「リベラル」な「合理主義」を以下の文脈において「批判」している。

概して、今日、リベラリズムの主要なパラダイムは二つ抽出することができる。...もう一つのパラダイムは、「討議的」なものである。これは、前述した目的 - 手段連関の道具的なパラダイムに対する批判として展開され、道徳と政治のあいだに連繋をつくりだすことを目的とする。このパラダイムの唱導者は、目的 - 手段連関の合理性を、コミュニケーション的な合理性で置き換えようとする。彼らは政治的討論を、道徳が適用される特殊な領野と捉え、また、政治の領域では合理的で道徳的な合意が、自由な討論を経ることで可能になると考えるのである。この場合、政治は経済ではなく、倫理ないしは道徳を介して理解されるのである。
討議モデルの主要な提唱者であるユルゲン・ハーバーマスは、シュミットが、合理主義者による政治的なものの理解のやりかたに対して提起した挑戦を十分に理解しているが、しかしながらそれを、次のように主張することで厄介払いしようとする。合理的合意の可能性に疑問をだき、のみならず政治について、不一致が当たりまえの領域であると断言する者は、民主主義の可能性そのものを掘り崩す、と。そして次のようにいうのである。「正義にかんする問いあ、生の相対立する諸形態についての倫理的な自己理解を超えることができず、さらに、実存的に関連している価値観、対立、敵対が、論争的な問いのすべてを貫かなければならないのだとしたら、最終的な分析においては、政治についてのカール・シュミットの理解に類似したものに帰着するだろう」。

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

こうやって見ると、東浩紀先生の『一般意志2.0』がハーバーマスの名前を挙げることで、なにを批判したかったのかが、逆に、シャンタル・ムフの本を読むことによって、つまびらかになるという体験をしているわけだが、これは一体なんなのだろう?
さらに、東浩紀先生の『一般意志2.0』の前半を特徴づけるものとして「フロイト」への言及が特徴づけられる。それは、「理性」に対する「感情」であり、「意識」に対する「無意識」を強調する文脈であったわけだが、これについても、シャンタル・ムフは「リベラル」の「合理性」を批判する文脈において、言及している。

フロイトは『文化への不満』で、人間存在に宿っている攻撃に向かう傾向性ゆえに、社会はいかなるときであれ分解の危機に瀕しているという見解を提示している。彼によると、「人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合にかぎって自衛本能が働く、他人の愛に飢えた柔和な動物などではなくて、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量攻撃本能もふくまれていると言っていいということである」。文明は、これらの攻撃的な本能を制御するために、さまざまな方法を練りあげねばならない。その方法の一つとしては、愛のリビドー的な本能を動員し、共通の絆をはぐくむことがあげられる。『集団心理学と自我の分析』で主張されるように、「集団はどうやら、何かある力によって一つにまとめ上げられているらしい。だがしかし、世界の中にある一切のものをまとめ上げているエロス以上の一体どんな力に、この働きを帰することができようか」。ここで目的とされるのは、共同体の構成員を強固に一つにまとめていくこと、つまり、共有されたアイデンティティへと束ねていくことである。集合的アイデンティティである「われわれ」は、リビドーが備給された帰結であるが、このことは必然的に、「彼ら」を定めることを含意する。たしかにフロイトは、対立のすべてを敵意とはみなかったとはいえ、それがつねに敵意になりうることに気づいていた。彼が示唆するように、「攻撃本能の対象になりうる他人が残存しているかぎり、かなりの数の人間を相互に愛で結びつけることはつねに可能だ」。このような場合、われわれ / 彼らの関係は敵意に満ちたもの、すなわち敵対的な関係となるのである。
フロイトによれば文明の進化の特徴をなすのは、リビドー的な衝動の二つの基本的類型間での闘争である。それは生の欲動であるエロスと、攻撃と破壊の欲動であるタナトスの闘争である。彼はさらに、「これら二種類の欲動はめったに----おそらくはけっして----単独で現れるものではなく、混合比率はさまざまでまた非常に変動が多いのではあるが、たがいにまざりあっていて、そのためになかなか見分けにくいのだということが想像できた」と主張する。攻撃的な本能を消滅させることはできないが、それを武装解除することができる。その破壊的な潜在力を、フロイトが自分の著作で検討しているようないくつかの手段を用いて弱めることが可能である。私が示唆したいのは、闘技的なやりかたで理解される民主主義制度なら、人間社会につねにあらわれている敵意に向かうリビドー的な力の武装解除に貢献するのではないか、ということだ。
政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

このように、なぜリベラル批判が「フロイト」の再発見になるのかを、かなり分かりやすく説明しているわけであるが、この関係が東浩紀先生の『一般意志2.0』では、さっぱり分からない意味不明な文章になっている。
そして、さらに興味深いのが以下のところだ。

私の理解では、シュミットの中心的な洞察の一つは、政治的アイデンティティは、特定の類型のわれわれ / 彼らの関係、すなわち、きわめて多様な社会的諸関係の形式からあらわれうる友 / 敵の関係にあるという主張である。政治的アイデンティティの本性が関係的であることを示すことで、彼はたとえばポスト構造主義----これはのちに、ありとあらゆるアイデンティティの関係的な特質を強調することになる----のような、いくつかの思考の流れを予見している。今日では、こうした理論的展開のおかげで、シュミットが力強く主張したにもかかわらず理論化しないまま放置した事柄をよりよく精緻なものにすることができる。課題は、彼の洞察を異なる方向へと展開することである。友 / 敵の区別を[シュミットとは]べつのやりかたで理解すること、すなわち民主主義的な多元主義と齟齬をきたさないやりかたでの理解が可能なことを示すことである。
政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

どうだろう。こういったシャンタル・ムフカール・シュミットを「超えた」カール・シュミットの解釈=誤読は、まさに、東浩紀先生の『一般意志2.0』において主張された、ルソーを「超えた」ルソーの解釈=誤読を思い出さないだろうか?

だから、一般意志とはデータベースのことなのだという本書の主張は、実証的な意味でのルソー解釈として決して成り立たない。つまり、筆者はここでルソーの文章を「深読み」あるいは「拡大解釈」している。しかし、ではこれは学問的に無意味かといえば、人文科学はおしなべて古典をその時代時代に合わせて拡大解釈することで進展するので、これはこれで正統な方法と言えないこともない(理系の読者のみなさんには不審を抱かせるかもしれないが、こればかりは「文系とはそういうものだ」と納得してもらうほかない)。いずれにせよ、ここで重要なのは、二世紀半前に現実のルソーがどう考えていたか、その実証的な探究さえ横に措きさえすれば(そもそもそのようなことは実証できるわけがないのだから、横に措いたとしても実質的な被害はない)、彼のテキストの一部はまさにグーグルやツイッターについて語っているように読むことができるし、そしてそれは、彼が近代民主主義の起源にいる思想家である以上、いま民主主義の革新に際して利用可能なはずだ、ということである。思想の古典は、現代社会の革新のために読まれてはじめて生き返る。本書は、ルソーを生き返らせるためにグーグルやツイッターを召喚する、そのような本なのだ。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

おそらく、東浩紀先生は、『一般意志2.0』を書く前に、シャンタル・ムフの『政治的なものについて』を読んでいる。というか、基本的にこの本の文脈で、

  • 反民主主義本

を書ける、と思って書き始めたのではないか? しかし、露骨にシャンタル・ムフのこの本に言及すると、自分のアイデアがあまりにもこの本に似ていることを読者に意識させることになってしいまうため、徹底的に、シャンタル・ムフの名前を隠したのではないか?
もちろん、そうは言っても、この二つの本は

  • 結論部分

ということでは、大きく違っている。それは、シャンタル・ムフがエルネスト・ラクラウに大きく影響を受けた「左翼」であるのに対して、東浩紀先生は「反左翼」を自称していることからも分かるわけだが、シャンタル・ムフカール・シュミットの言う「政治的なもの(the plitical)」としての、「敵対性(antagonism)」に対して、それと「闘技性(agonism)」を区別することによって、いわば、カール・シュミットの議論を「ずらす」ことによって、別の含意に導くことを目的としているわけだが(シャンタル・ムフは、「対抗者(adversary)」と「敵(enemy)」を区別する)、対する、東浩紀先生は

  • 反民主主義

であり、『観光客の哲学』において明確に立場表明をしているように、

であり、

を明確に表明している。しかし、それに対しては、シャンタル・ムフは次のような形によって、こういった「カール・シュミットの<敵対性>の超克」に対して批判的に斥けている。

政治的なものはリベラリズムの合理主義では把握不可能だが、それは、あらゆる一貫した合理主義が、敵対性の抹消が不可能であることを否認するという単純な理由によるのだ。リベラリズムは敵対性を否認しなければならない。なぜなら敵対性は、決断という逃れようのない瞬間----決定不可能な地勢で決断しなければならないという強い意味合いで----を全面に押し出すことにより、あらゆる合理的合意の限界をあきらかにするからだ。だからこそ、リベラルな思考が個人主義および合理主義に固着するかぎりで、敵対的な次元における政治的なものに対するその盲目性はたんなる経験的な見落としではなく、むしろ構成的な見落としなのである。
政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

東浩紀先生の「友敵の超克」の意図は、このグローバリズムにおける、資本主義経済における、お金持ちと貧乏人の「貧富の格差」を貧乏人に

  • 肯定

させることを含意していると解釈できる。貧乏人はお金持ちのお金の「格差」を近づけなければならないと考えてはならない、と。なぜなら、お金持ちと貧乏人は「友敵ではない」から。友敵ではないのだから、貧乏人はお金持ちのお金を奪おうとしてはならない。つまり、東浩紀先生にとって

という形でリンクしている。しかし、その「友敵の超克」が、たとえルソー的な意味での「理性の否定=感情の肯定」という反転させた形になっていたとしても、シャンタル・ムフに言わせれば、それは「敵対性の否定」を帰結しているという意味で、絶対に認めるわけにはいかない。そのことは、東浩紀先生の「友敵の超克」が、本人のリテラルな意味で「言っている」ことに反して、結局は、

  • お金持ちと貧乏人の<敵対性>

を現出していることに注目しなければならない。東浩紀先生は貧乏人はお金持ちのお金を「否定してはならない」という

  • もう一つの<道徳>

をここでは語っているわけであって、そのこと自体が、シャンタル・ムフでありカール・シュミットに言わせれば、もう一つの

  • 新たな敵対性

を現出させていることに無意識なわけであろう(あるいは、そういった陰謀を心のどこかに隠しているのかもしれないw)。
さて。こういったわけで、まあ、どっちの議論に「説得力」があるのかなw、といった軽い気持ちで、私も改めて、何年ぶりかで、カール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んでみたのだが、私にとってその読書の感想が意外だったのは、

という印象だったことである。もちろん、シャンタル・ムフの解釈が変なら、そのパクリでしかない東浩紀先生のカール・シュミット解釈が変になるのは当然なのではあるがw、つまり、なんでこんなことになっているのかな、ということなのである。

もちろんシュミットがナチズムに加担したという事実ゆえに、このような選択が敵意を招きうることは十二分に自覚したうえでのことた。
政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

ようするに、シャンタル・ムフ東浩紀先生も、なんらかの意味で、カール・シュミットを肯定的にとりあげた時点で、世の中の「リベラル」から袋叩きにされることを「覚悟」しているためか、

  • どうせ自分の主張なんて、まともに相手にされるわけがない

として、まともに人々の批評に向き合おうとしていないことが態度から分かっている、ということなのであろう。しかし、そういうことではないわけである。この二人は、もっと根本的なところで、カール・シュミットの主張を

  • 読んでいない

と私には思われるわけである。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。この区別は、標識という意味での概念規定を提供するものであって、あますところのない定義ないしは内容を示すものとしての概念規定ではない。それが他の諸標識から導きだされるものではないというかぎりにおいて、政治的なものにとって、この区別は、道徳的なものにおける善と悪、美的なものにおける美と醜など、他の対立にみられる、相対的に独立した諸標識に対応するものなのである。

政治的なものの概念

政治的なものの概念

政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利あと思われることさえ、おそらくはありうる。
政治的なものの概念

ここの部分で注目すべきなのは、カール・シュミットが「友と敵」の区別を、善悪や美醜と「同列」に考えていることであり、つまりは、言うまでもなく、ここでカール・シュミットは、「友と敵」の区別は、カント敵な意味での

  • カテゴリー

だと言っているわけである。つまり、私たちはここで「友」や「敵」という

  • 言葉

  • 本質は何か?

と<問うてはならない>わけである。なぜなら、友と敵は、善悪や美醜と同じように、カント的な意味でのカテゴリーなのだから、ある種の「無定義述語」だと解釈しなければならないわけである。
しかし、そうは言っても、カール・シュミットはここで友と敵という言葉を使うことで、

  • 何か

を言おうとしている。つまり、カール・シュミットは何かを言おうとして、この用語を今ここで使っている。それがなんなのか、こそが重要なわけである。

したがって、敵とは、競争相手とか相手一般ではない。また反感をいだき、にくんでいる私的な相手でもない。敵とはたふぁ少なくとも、ときとして、すなわち現実的可能性として、抗争している人間の総体----他の同類の総体と対立している----なのである。敵には、公的な敵しかいない。なぜなら、このような人間の総体に、とくに全国民に関係するものはすべて、公的になるからである。敵とは公敵であって、ひろい意味における私仇ではない。
政治的なものの概念

シュミットの言う、友と敵は一般的な意味でのそれではない。つまりここでの「敵」は、私仇ではない、と言うのである。「敵」はあくまでも

  • 公的

なものであって、これは「個人の感情」のようなものではない。じゃあ、カール・シュミットは何がそうなのだと言いたいのだろうか? 私はこの本の最も重要な個所は以下であると考える。

「主権」という語は、「単位」という語と同様に、ここでは深い意味をもつ。両方とも、ある政治的単位に属する各人の生活のすべてが、政治的なものによって規定され、その命令をうけなければならないとか、あるいは、ある中央集権的組織が、あらゆる他の組織ないし団体を絶滅しなければならないとかを、意味するものでは決してない。経済的な考慮が、経済的に中立を標榜する国の政府の欲するすべてのことよりもなお強力である、ということもありうるし、同様にまた、宗派的に中立を標榜する国の権力が、宗教的確信のために頭を押さえられる、ということもけっこうありうる。問題となるのは、つねにただ葛藤事例なのである。経済的・文化的ないし宗教的な対抗勢力が、重大事態についての判定を主体的に定めうるほど強力であるばあいには、それら勢力はまさに、政治的単位の新しい実体と化しているのである。その勢力がもし、みずからの利益や原理に反し決意された戦争を阻止できるほどに強力でないとするならば、それは、政治的なものとしての決定的段階に到達していない、ということを示すものである。みずからの利益や原理に反する戦争を、たとえ国家の指導部が行なおうとしても、それを阻止するだけの力はあるけれども、他方みずから主体的に、みずからの決定によって、戦争をきめられるほどには強力ではない、とするならば、そこには、もはや統一的な政治勢力は存在しないのである。
政治的なものの概念

カール・シュミットはここで、非常に重要なことを言っている(このあたりの記述は後の『パルチザンの理論』にもつながるような分析に思われる)。彼の言う「敵」は、絶対的に

  • 絶滅しなければならない

といったような性質のものではない、と言う。つまり、「敵」とはそういったところにポイントがあるわけではない(つまり、上記の引用にもあるような、フロイトのような個人的な心理や感情のようなものに「起源」がある性格のものではない)。政治的なものとしての、「友」と「敵」の区別において、最も重要なポイントは、なんらかの

  • 強制性

においてある、と言っているのだ。それは、ある「葛藤」を通して現れるわけだが、例えば、国家がどこかの国に向かって

  • 宣戦布告(=侵略開始=戦争開始)

を行ったとき、あなたはそれに「抵抗」するのかどうか、が問われることになる。もしも、国家のその命令に従わないとした場合には、もしかしたら、国家によって「死刑」にされるかもしれない。しかし、そうでないとした場合に今度は、自ら「戦場」に連れて行かれ、一人の兵士として、上官の命令によって「人殺し」が強制されるであろう。ここにおいて、その国家の命令に従わないという「選択」は、

  • 国を守らない(=侵略相手国を利する行為)

として解釈されるわけだが、問題はそういった、さまざまな「プレッシャー」において、それでもなお「国家に対する抵抗運動」を続けるのか、が問われているわけである。

すなわち、対外政治上のではなく、国内的な友・敵結束が、武装対決にとってのきめ手となる。こと政治であるかぎりは、つねに存在せざるをえない闘争の現実的可能性が、このような「国内政治優位」のばあいには、論理必然的に、もはや組織化された諸国民単位(国家ないし帝国)間の戦争ではなく、内乱となってあらわれるのである。
政治的なものの概念

カール・シュミットの言う友敵における「敵対性」は、私仇ではない。つまり、自らの怨念のようなものではない。そうではなく、それは、ある

  • 間接性

に関係している。つまり、自らと「疎遠」な何か、自らの「外」にある何かが、そうではありながら、ほとんど抵抗することすら難しいような様相を示しながら、自らに「強いて」くる、その強度の強さについて言っているわけである。
こういったレベルにおいて、シャンタル・ムフ東浩紀先生も、その思想のラディカルさにおいて、まったく、カール・シュミットの議論の「可能性の中心」に迫れていない、という印象を受けざるをえない。
東浩紀先生の言いたいことは、ようするに「経営者」による「労働者」の奴隷化を「労働者」は忍従すべき、というか、それを「強制」することを「労働者」に受け入れさせる、というところにポイントがある。このことは、「経営者」は無限のお金を自分一人のものにして、雀の涙のお金しか労働者に与えない、ということを「労働者」に受け入れさせる、ということを

  • 野望

している。しかし、そうした場合、どういったことになるのか?

Aさんや、過去につくばエクスプレスで働いていた元職員によると、会社から「労働組合は作らないでくださいね」と言われた中途入社の人がいたという。また、組合を立ち上げようと動いていた職員が、異動後1年も経たないうちに突然現場から外され、現場と接触の少ない場所へ異動したこともあると話している。
つくばエクスプレスで「トラブル多発」大丈夫か⁉(田中 圭太郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

このつくばエクスプレスの例は非常に示唆的だ。もしも、経営者と労働者が「蜜月」なら、必然的に、労働者は「奴隷」になる。つまり、シャンタル・ムフが言うように、労働者は経営者に「対抗」しなければならない。その最も合理的な手段は

を作ることである(まあ、東浩紀先生のゲンロンとかいう会社にそんなものがあるといった話は聞いたことはありませんがw)。例えば、国家の補助金が入る保育所経営において、市営の保育所では、そこの社長が、莫大な「給料」を自分だけ、がめついて、一人一人の保育員には雀の涙ほどのお金しか残らない、というわけであろう。だったら、市営の保育所を「禁止」すればいいんじゃないのか、と思うわけである。基本的に保育所はすべて、「公営」にすればいい。

革命には、多くの人びとの心をひきつけるスローガンが必要です。「一部の人間の平等」と書かれた旗のもとに血を流す人びとを集めることはほとんどできないでしょう。このため、革命のイデオロギーとスローガンは、現実を追いこしてしまいます。ブルジョア革命によって作りだされた社会を調べれば、人びと、男女、人種、国のあいだに、冨と権力の非常に大きな不平等を見いだせます。

遺伝子という神話

遺伝子という神話

  • 作者: リチャード・C.レウォンティン,Richard C. Lewontin,川口啓朗,菊地昌子
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 1998/06/01
  • メディア: 単行本
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カール・シュミットも上記の引用において言及していたように、国家内の「対立」は、結果として「内乱」という形になる、これがいわゆる「革命」というわけであるが、ではなぜ、国民の一人一人は、こういった「革命」に命を捨てるのか? さきほども言ったように、国家は国民に向けて

を宣言するが、そのとき、それに「対抗」することは、国家への敵対行為とみなされ、死刑とされる。軍隊であれば、簡易な軍法会議で、処刑をされる。しかし、「革命」においては、そうやって国民は次々と殺されることになっても、いっこうにこの「抵抗」が止むことはない。なぜなら、「革命」の結果、それが「成功」するなら、

  • 国民の<平等>

を獲得できるからなのだ。もちろん、そんなものを獲得しても、自分が死んでしまったら意味がない、と考えるかもしれない。しかし、「革命」に命を捧げる人たちというのは、生まれたときから、周囲の

  • 差別

に心を痛めてきた人なのだ。たとえ、自らの命がそれによって失くなることになったとしても、

  • みんなの<差別>

の撲滅する「社会」を実現できることに比べたなら、自分一人の命など安い、と考えるわけである。カール・シュミットが彼の言う「敵対性」に言及するとき、彼はその「政治的なもの」において、こういった側面(=内乱という構造)すらも、考慮に入れている。
カール・シュミットの友敵理論の特徴は、その一冊のほとんどを使って、「敵」のカテゴリーの分析にあてられていて、「友」の側はほぼ自明なものとして、まったく言及がないことになる。つまりどういうことかというと、これは

  • 敵とは何か

という問題設定が無意味だということを意味している。それは「敵」ではない。そうではなく、

  • 自分たち<でない>

という「否定」によって定義されるものにすぎなく、もっと言えば、

  • 知らない(=会ったこともないし、実際にそういった人がいるのかを確かめたことすらない)

という、「地球の裏側の人」程度の「無関心」さにこそ本質があるわけで、ようするに、そのなかの誰が「敵」なのかどうかは、どうでもいいことなのである。敵とは、「友=国家」が

  • 名指す

ものにすぎず、なぜそれが「敵」なのかとか、なぜ「彼ら」なのかと問うてはいけない。そういう意味では、「敵」とはただの「記号」であるわけだが、「友」が戦争しろ(=こいつらを殺せ)と言ったなら、その記号でしかない「向こう側」にいる生身の人間を殺害するわけだが、ことここに至っても、それが「記号」でしかないことには変わらない。
「敵」とは<外部>なのだから、「友」という「日常空間」においては、それらは都合が悪くなる度に、自然にタブーとなり無視される。そもそも、そんなものにだれも「関心」がないのだから、すべての人の記憶から忘れられる。
しかし、人はあるとき、こういった「自明性」を疑い始める。つまり、「革命」である。カール・シュミットも言うように、人はあるときを境にして、「抵抗」を始めることがある、と説明する。つまり、「内乱」なわけで、国家の戦争への「命令」に「対抗」する力となりうる。こういった可能性の余地すらも認めようとしない

  • 友敵の超克

は「別の友敵」を裏から呼び出そうとしている、隠微な野望だ、というわけである...。