視差の哲学

「AはXの性格である」という文があるとき、この文を「発言」したBという人間の存在が前提とされている。では、このAが「性格X」である、という主張は「正しい」のだろうか? もしこれが「客観的」に「正しい」とするなら、それはだれの主張かを問わなければならなくなる。それは神であるとするなら、話は早いのだが、そうでないとすると、これが「正しい」と判断する規準がある、ということを「前提」していることになる。
これが「道徳」である。道徳は「ルール」である。つまり、この「ゲーム」に参加している人たちで合意していることが前提となっている。
しかし、そもそもこの世の中に「まだ」ルールのないことなんていくらでもある。つまり、「ルールを作るためのルール」がどこかになければならないわけだが、この議論は無限遡行してしまうわけで、どこかで「ルールではないけど、私たちは基本的には仲良くしている」みたいなベースがないとなにも成立しない、という所にまで辿り着く(まあ、仲良くなければ、人間はさっさと滅んでいただろうしねw)。
ある意味で、これが「倫理(=道徳以前的)」なのだ。
(こういったアイデアを、ダーウォルの「二人称的観点」からの発想だと言うこともできる。)
このような地平にまで後退して、上記の「AはXの性格である」を考えたとき、これはあくまでも「Bの行動の指針」くらいの意味しかない、ということが分かるわけである。Bはなにかの行動を行うとき、このAに対する「命題」を使って行動するわけだが、この「具体的な意味」はなんなのか、ということに答える必要はない。それがなんであろうが、B自体が、さまざまな行動において、これを使って、迷わずに「行動」できていればそれで十分だからだ。
同じことは今度はAについても言える。Aが「AはXの性格である」と言った場合、それは、そう言うことによって、そのメッセージを受けとることになる、だれかに、なんらかの「影響」を与えようとしていると考えられる。それによって、なんらかの「脅し」なり「配慮」なりを、相手に「求めている」というわけである。
そもそもAが「AはXの性格である」と思うことはできない。なぜなら、そう思った時点で、Aはそれに対する「反作用」を始めるからであって、そう思われることが嫌だったら、それを直そうとするし、そうでなかったら、より「強調」した、過激化(という、別のもの)を目指して変化していくであろう。つまり、自分の「性格」なるものは、あくまでも

  • 他人

が勝手に言っていることなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。それを「本人」が言っている時点で疑わしいわけである(なんらかの、隠微な野心を隠している)。
フロイトが医者と患者の「非対称性」を強調するとき、それは

  • 視線:医者 --> 患者

による

  • 対象:患者

の「十全」な記述は必然的に医者の「視差」において、分別されたなにかでしかない、ということを意味している。つまり、それは結局は、医者に「とって」、始めて、なんらかの意味をなしている、という程度に過ぎない

  • 意味

だ、ということになる(まあ、古典的なフッサール現象学への批判だと言ってもいい)。これに対して、いや、フッサール現象学から言えば、うんぬん、みたいな反論は、そもそもここで問題にしていることの反論になっていない(つまりは、お前は、フッサール現象学「主義者」だ、と告白しているくらいの意味しかない)。
こういった事情は、マルクス資本論にも貫かれているわけで、経営者(=資本家)が労働者を、まさにフロイトが医者が患者を「診察」するように判断をするとき、

  • 視線:経営者 --> 労働者

による

  • 対象:労働者

とは、すでにその経営者の「視差」によって「濾過」された後の、なれの果てのような、煎じ粕(=記号)としての何かを意味しているに過ぎない、ということを意味しているのであって、本質ではないのだ。
このことは、シャンタル・ムフカール・シュミットの「政治的なもの」の定義に対応して、「友敵」のない世界を目指そうとする「ユートピア」主義者は必ず「ディストピア」を呼び寄せると主張していることにも対応しているわけで、例えば、日本の国会の政治状況は、小池ゆり子の希望の党の登場によって、自民党と「第二自民党」しか存在しないディストピアが実現しようとしていたわけであって、このことを戦前では「大政翼賛会」と言ったわけであるw
もしも国会が、与党と野党で「対立」していなければ、国会の論戦は成立していなかったであろうし、ある意味で国家の「見える化」は、こういった「対抗」勢力の圧力によって始めて成立した、とも言えるわけである。
カントの純粋理性批判が、裁判の「比喩」として書かれていることはそういうことで、原告と被告の「対立」がなければ、そもそも「理性」すら成立しないわけである。
こういった「対立」は、よく考えると、今の人間社会を構成する、さまざまなところに見うけられるように思われる。上記の医者や経営者にとっての「対象」としても、患者や労働者は、いわば

の視点から見られた何か、という構造をしている。つまり、絶対的な、超越的な視点からもしもだれかが「眺めて」いれば、そのように見えるだろう。なぜなら、それが「正しい」から、という形になっている。しかしいまさら言うまでもなく、相対性理論ではないが、この世の中に絶対的な「中心」はない。
では、こういった「困難」に対する、一般的な「対抗」はどのように行われているのかということになるが、それが

である。それは、患者であれば「被害者の会」であるし、労働者であれば「労働組合」ということになるであろう。さて。なぜ、こういった組織は、常に必要とされるのだろうか?
こういった状況は、大学における学生による「自治会」、中学校や高校における「生徒会」においても考えられる。学校における校則、つまり、生徒手帳は、学校側、つまり、教師側が生徒に押し付ける「強制」である。しかし、これに「対抗」する唯一の方法は、生徒たちが「みんな」で学校に立ち向かうこと、つまり

  • 団交

によるしかない。そもそも、教師側と生徒側は「視差」が違うのであって、同じ学校という校舎に通いながら、見ているものが違うのだから、生徒が教師に

  • きっと分かってくれるはず

と思うことも、教師が生徒を

  • きっと理解できる

と思うことも「傲慢」なのだ。私たちはせいぜい、相手を必要以上に「分かったふり(=共感)」をすることを「あきらめる」ことから始めるしかない。私たちにとって、「対抗」する相手は、その「視差」が違うのだから、本質的に「理解できない」と考えるべきなのであって、たとえ自分が理解できなかったとしても、相手には相手の「事情」があるのだから、それを「尊重=リスペクト」するという、まさに、カントの言う、

  • 人間の尊厳

において、その「倫理」的な態度において、この「二人称的」世界はなんとか回りうるわけである...。