ネット上の「ゲーデル警察」さんたち

ネット上で、ゲーデル不完全性定理を検索していると、いろいろとヒットするわけだがw、最近は、仲正昌樹先生の2006年の

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

が槍玉にあげられているようだ。

なお、ここで引用した文章は、柄谷行人が「形式化の諸問題」などでゲーデルを持ち出した、という歴史を解説しているところである。柄谷が色々と間違いを犯していることは多くの識者たちによって指摘されてきたし、仲正もそれを認知しているわけだが、残念ながら、この日本の現代思想の解説書では、間違いは適切に修正されることなく再演されたか、あるいはさらに増えてしまったようだ。日本の現代思想がいかにユルいかがよく分かる。
ゲーデルの定理(2) - Skinerrian's blog

しかし上記の仲正先生の本は、そんな程度では済まない、ほとんど駄文が続く、酔っ払いのホラ吹きみたいな本であろう。そもそも彼は、何世紀も前のドイツロマン派の詩とかを翻訳することを生業としているような、古典学者ですよね。その彼が、日本のマスコミで便利な感じで使われて、自分が学会で発表している論文と関係ない、マスコミ受けしそうな文章を書くときは、こういった適当な駄文をたれ流して、小銭を稼いでいるわけで、もしも上記の個所を

  • このレベルで

問題にされるのであれば、全ページの品質を云々すべきだと思いますよ。
ようするにここがなぜ見逃されたのかといえば、過去の柄谷の「引用」(とか、まとめ)レベルと出版社の編集者に判断されたからなんでしょうね。それが、

  • 今だにこのレベル(というか、それ以上にヒドイかもw)

ということで、「ゲーデル警察」さんの目にとまられた、と。
じゃあ、なんでこんなゲーデル解釈wが、柄谷「ゲーデル」騒動から何十年も経ってるのに、繰り返されるのかといえば、ようするに、出版社の編集者のレベルがその程度なんでしょ(それは柄谷「ゲーデル」騒動の時も同じ)。それを「問題」だと考えられることは立派だと思うけど、だったら、日本の出版社の編集のレベルを上げるにはどうしたらいいか、って考えないと絶望的だわね。というか、出版社は、自社にこういった文章の「妥当性」を判断できる人がいないと判断したら、専門家に監修を依頼すればいいのにね。そうしないから、恥をかくんだよ。
(おそらく、こういった現代思想系の人たちの編集者って、ほとんど、大先生の原稿をそのまま、編集なしで、印刷しちゃってるんじゃないですかね。大先生がそんな初歩的なミスをするはずがない、とかってw)
ただ、こういったネット上での活動って、どこか、物理学者の菊池誠大先生の「ニセ科学批判」の臭いがするんですよねw ようするに、明らかに、自明なまでに「間違っている」ものについては、つまり、

  • シロート

の駄文については、容赦なきまでに完璧に論破し尽して、出版停止まで追い込むのに、いわゆる「専門家」が書いたものには、なにも言わないんですよね。
だから、ぜひともこの大先生には、

ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド

ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド

を隅々まで読まれて、「まったく仰る通りでございます」なのか、そうでないのか、とか言ってほしいんですけど。でも、こういった大先生はそういった「仕事」はされないんですよね(この本、翻訳は2011年なんですね)。だって、もしもそんなことをしたら、まさに、「学会」に「論文」をだして、「論争」をされる、ということですから。まあ、そこまでの「コミットメント」をされようとまでは思ってないので、柄谷行人仲正昌樹先生

  • レベル

のシロートをいじって、溜飲を下げて終わる、と(まあ、それなりに社会的な「害悪」はあるでしょうから、一定の「正義感」がそうさせるのでしょうが)。
例えば、上記の本で、一カ所私が納得できないところがあるんですよね(翻訳の108ページ)。

これらはどれも、不完全性定理における体系はある程度の算術を含んでいなければならないという本質的な条件を落とすことで、定理を誤用している。この条件を満たさずに済むなら、完全で無矛盾な形式体系はたくさんある。また、もしこの条件を念頭においていれば、上の例のような不完全性定理の間違った応用は、そう安易に思い浮ぶこともないだろう。聖書も、合衆国憲法も、またアイン・ランドの哲学も、そこから算術の定理が湧き出るとは自然には考えられないからだ。
ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド

こういった指摘は、そもそも、ヒルベルトの「有限の立場」から、ゲーデルの不完全定理の発表までの歴史的な経緯を軽視した指摘のように私には思われる。
つまり、なぜゲーデル不完全性定理が一定の社会的なインパクトをもったのかといえば、これが、いわゆる

  • 文系

の「非形式」な学問。政治学社会学、心理学、哲学。こういったものに対して、一定の問題提起をしたのではないか、と思われたからであろう。なぜ、「ある程度の算術を含んでいなければならない」が省略されるのか? それは、その程度のものを含んでいないような(つまり、普通の「算数が<できない>」ような、文系の理論を考える方が

  • どうかしている

という「常識」があったからでしょう。こんなものは入っているにきまっている。できるにきまっている。つまり、上記の指摘はニーチェ的に言えば、「遠近法的倒錯」なんじゃないですかね。違いますかね?
(もちろん、このブログの方の指摘は、今の到達点から見れば、「じゃあ、<ある程度の算術>って何?」という「問題」を実は内在させているわけで、私はこのブログの方の指摘が「間違っている」と言いたいわけじゃなくて、あくまで、上記のフランセーンの指摘が歴史的な文脈を考慮していないように読めて気になった、というレベルなんですけど...。)