東浩紀の柄谷行人からの「影響」

アラン・ソーカルの『「知」の欺瞞』を読むと、まさに、最初の一章を、まるまる「ラカン」にあてており、また、まるまる最終章を「ゲーデル不完全性定理」にあてられている。こういった議論を眺めていると、ほとんど「ゲーデル不完全性定理」は

  • トンデモ科学

と同値に扱われていて、「ゲーデル不完全性定理」について考えること自体がすでに「トンデモ」行為である、といった嘲笑の面影さえ窺えるものになっている。
私はこういった延長から、柄谷行人の一連のゲーデル不完全性定理への言及を、こういった「延長上」で考えようとする分析が今までもいろいろあったのではないか、と思っている。そして、それはある程度においては、正しいのだろう。
しかし、いずれにしろ、ここのところ、私自身が、そういった

  • 自己言及

の問題について関心をもっていることもあり、ひとまず、その中心である、柄谷の『隠喩としての建築』と『内省と遡行』を読み返してみた。
すると、『内省と遡行』のあとがきで、以下のような順序関係が記していることに気付いた。

「内省と遡行」1980『内省と遡行』所収
「隠喩としての建築」1981『隠喩としての建築』所収
「形式化の諸問題」1981-1983『隠喩としての建築』所収
「言語・数・貨幣」1983『内省と遡行』所収
「探究」1985-

私はこの順序はかなり重要なんじゃないのか、と思うようになった。つまり、この順番を意識して、これらの論文を読まなければならない。はっきり言って、これらはかなりラフなスケッチである。つまり、ここに「厳密さ」を求めることには限界がある。そうではなくて、どういった思考過程を経て、柄谷は、考えていたのか、それを読む側は意識する必要がある。
ここで、「ゲーデル不完全性定理」の議論が始めて出てくるのは、「隠喩としての建築」である。つまり、「内省と遡行」にはまだ出てこない。しかし、その文章の始まりにおいて、次のニーチェの言葉の引用によって、完全に

  • 自己言及

が問題にされている、ということが特徴的である。

「主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである」と、ニーチェはいっている。《それゆえ私たちは身体に問いたずねる》(「権力への意志」)。おのようにいうとき、彼は、意識への問い、すなわち内省からはじまった「哲学」がすでに一つの決定的な隠蔽の下にあることを告げている。《私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている》(「権力への意志」)。意識に直接に問いたずねるということにおける現前性・明証性こそ、「哲学」の盲目性を不可避的にする。だが、ニーチェは同時に「意識に直接問わない」ような方法をも斥けていることに注意すべきである。
柄谷行人「内省と遡行」)

内省と遡行 (講談社学術文庫)

内省と遡行 (講談社学術文庫)

さて。「隠喩としての建築」における、ゲーデル不完全性定理の説明の前後には、すでに、ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』の引用があることが特徴だと思っている。つまり、その文脈において、柄谷は、最初から、このヒルベルトの「有限の立場」からの不完全性定理の問題を、ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』において提示されていたポール・ド・マン独特の定義である

をかなり意識して書かれている、ということを意味している。

本書の大部分は「脱構築」が争いの種となる以前に書かれた。それゆえ、「脱構築」という用語は、ここでは論争的というよりもむしろ技術的=方法的な意味合いで用いられている。

私が初めてこの「脱構築」という用語と出会ったのはジャック・デリダの著書だったと認識している。
読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語

このように、ポール・ド・マンは確かにこの本で「脱構築」に言及はしているが、そのことは少しもこの本が「デリダ」の解釈の本であることを意味しない。
そもそもなぜ、東浩紀デリダについて、『存在論的、郵便的』で書いたのか? それは、デリダがその時にはすでに

  • 論争的

になっていたからであろう。そして、彼は実際にそれを、「ゲーデル脱構築」「デリダ脱構築」という言葉によって、さらに「論争的」に議論を繰り返してしまう。しかし、その原点である、柄谷であり、その柄谷の原点である、ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』の段階においては、そもそもこれは

  • 論争

の問題ではなかった。というか、「まだ」そうではなかった頃に書かれていた何かであったし、しかもそれを「原点」にして、柄谷自身のこの思索が始まっているという

  • 緊張感

東浩紀の『存在論的、郵便的』にはない。東浩紀は平気で、柄谷のツール「から」デリダを読解する、という、アクロバティックを始めるわけだが、そこにはどこにも、ポール・ド・マンの影はない。おそらく、柄谷は自分が書いたこれらを、ポール・ド・マンが「読む」ことを想定した「緊張感」の中で思考をしている。ところが、東浩紀にはそういった面影が微塵も感じられない。つまり、東浩紀にとって、最初からデリダは「自明」なのだ。なぜ「デリダ」なのか、という問いはすでにそこにはない。それはすでにデリダ

  • 論争的

であることが自明となったところから始めているからなわけで、本質的に、柄谷やポール・ド・マンとは別の仕事をやっている、ということなのだ。
東浩紀の『存在論的、郵便的』は、すでにデリダが「論争的」となった「後」において

  • 発見

される何かとの戯れなのであって、そのことを特徴づけているものとして、ラカン精神分析の積極的な導入が行われているところにあるだろう。もちろん、デリダ自身がラカンと格闘をした、という意味で、そこにはなんらかの「必然性」があると言っていいのだろうが、そうであることは何度も言っているように、デリダがすでに「論争」的存在であったことと無関係ではない、ということとの緊張感がないわけである。なぜ、ラカン派なのか? それは、ラカン派がこのデリダに対する「論争」的状況に深くコミットメントをしているという事実性と無関係ではないわけで、そうである限り、そこから導かれる結果には、どこかトートロジカルな空虚さが、つきまとはざるえをえないわけである
ラカン派で説明するということは、ラカン派という「村社会」にコミットメントをする、ということを意味するわけで、すでにその時点で、柄谷やポール・ド・マンの問題意識と離れた

  • 文脈

で考えることを「強いられる」ということを意味しているわけで、そういったものに果して、日本の我々がなんらかの意味を見出すということがよく分からないわけである。
例えば、千葉雅也は最近以下のように「日本の文脈」なるものを説明している。

我々の思考=内部が、その外部、すなわち、物自体=「不可能なもの」であるXを取り込もうとしては失敗するという運動が、相関主義である。このことが、ポスト構造主義において、なかでもラカンデリダの考察によって明示された。そして日本現代思想においては、浅田彰が『構造と力』でそれを「クラインの壺」としてモデル化し、さらに東浩紀が『存在論的、郵便的』において「否定神学システム」と呼んだのだった。
(千葉雅也「ラディカルな有限性」)

現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

こうした図式はラカンの概念によって言い換えることができる。ラカン精神分析理論においては、いわゆる「現実界」が相関主義的外部に当たる。それは、「想像界」(イメージ)と「象徴界」(言語・記号)が構成する認識の平面に取り込まれ損ない続ける「何か」である。これに対し、SRは「現実界の外部」を問題にしていることになるだろう。ラカンの三項図式の外、第四の次元が、SR的外部なのである。
(千葉雅也「ラディカルな有限性」)
現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

もうこの段階になると、きれいに柄谷という「ノイズ」は除去されている。問題は最初から「ラカン」なのであって、ラカンさえあればいいし、それ以外はどうでもいい。しかしそのことは、東浩紀自身がことに「ゲーデル」問題において、最初から、そうだったのではないか?

「真理の配達人」で問題とされているのは、「不可能なもの」をめぐるこの二つの思考法の差異、それゆえ二つの脱構築の差異である。ここでデリダラカンに、私たちが「ゲーデル脱構築」と呼ぶものの精緻化を見出している。実際ラカンゲーデルの深い関係は、デリダ(および柄谷)の文脈を参照しなくても確証される。まず彼自身によるゲーデルへの言及が存在する。それに加え多くのラカン派研究者が示唆するように、「主体」の構成をめぐるラカンの理論的パースケクティヴ、発話がオブジェクトレベルとメタレヴェルとにつねに二重化されることが主体の根源的分裂(Spaltung)を引き起こし、その分裂から享楽(jouissance)の審級が開けるという主張そのものが、形式体系のゲーデル的不完全性を強く意識して立てられている。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

固有名は確定記述の束に還元されない。つまりそこでは、象徴界を特徴づけるシニフィアンの送付運動が機能しない。幾度も繰り返すようにそこで問題は、この機能不全、「穴」をどのように基礎づけるかである。前述するようにジジェクはそれを、象徴界が抱えるゲーデル的決定不可能性の顕れとして、つまり象徴界の全体構造によって説明した。一方にひとつの主体があり、他方にそれと面したひとつの世界(象徴界)がある。そのあいだの自己言及的な入れ子構造が「剰余」を生み出す(私たちはのち第四章で、同じ構造をハイデガーに確認することになるだろう)。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ラカン派の「ゲーデル」解釈はすでに、東浩紀の段階では、当たり前のこととして扱われている。つまり、それが柄谷がゲーデル不完全性定理に言及を始めたことと、なんの関係があるのかは、ここではすでに問われない。そんなことは、

と名付けられた時点で「自明」なのだ。しかし、柄谷において、最初にゲーデル不完全性定理に言及した段階では、確かに、ホフシュタッターの比喩的な説明に影響をされてはいるが、ほとんど、数学基礎論の記述を丸写しにしたような説明を繰り返しているだけであり、柄谷自身がそのことになんの違和感も感じていない。つまり、柄谷にとっては最初から、ゲーデル不完全性定理とは

  • 数学

の問題だったわけであるし、そこから離れたことは一度もないわけである。柄谷にとって、ゲーデル不完全性定理は数学的に定義されたなにかであって、そこから離れることはなかった。つまり、ゲーデル不完全性定理は「比喩」ではなかった。たんに数学の一定理にすぎなかったし、それで彼の考えたいことは尽きていた。そこには、ラカンのような、なんらかの

  • 自分の言いたいこと

不完全性定理を比喩として代替させることで、なんからの「メッセージ」性を秘教的に折り込もうといった、隠微な戦略のようなものは感じられない。そういう意味で、柄谷には、ソーカルの『「知」の欺瞞』のような文脈は、あまり相性がよくない。
対して、東浩紀の場合の深刻さはその比ではないと思う。
東浩紀はなんと言っているのか?
それを、彼は三つの「転回」によって、代表しようとする:

ようするに、難しそうに書いてあるが、言っていることは、オースティンの行為遂行論における、コンスタティヴからパフォーマティヴへの「転回」だ、と言っているだけで、つまりは、「形式化の諸問題」のヘーゲル

だと言っていい。

柄谷は八五年に「探究」シリーズを始めた。彼自身がしばしば「転回」と呼ぶその態度変更においては、すでに引用したように、デリダは「内省」、つまりひとつの形式体系から出発する思考の一例として名指され批判されている。しかし、そこから柄谷とデリダの対立を単純に結論づけることはできない。当時の柄谷が参照したのは『声と現象』『グラマトロジーについて』の時期の、しかもきわめて教科書的に要約されたデリダでしかなかったと思われるからだ。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

私たちの考えでは、『探究1』の柄谷もまたまさに同じ方向にクリプキの議論を先鋭化させている。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

この認識は、私たちがいままで論じてきた後期デリダの理論的射程と深く呼応している。
七〇年代のデリダと八〇年代の柄谷はともに、ゲーデル脱構築否定神学)への抵抗を、誤配可能性に満ちたコミュニケーションに注目することで組織した。ここには見逃せない平行性がある。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

東浩紀は、結局のところ、デリダと柄谷はこういった意味で「同じ」ことを行っていた、といった整理になってしまう。しかし、これでいいのだろうか? そのことは、さらにこれを「ハイデガー」にまで当て嵌めてしまう時点で、なんらかの

  • うさんくささ

を感じざるをえないわけである。
東浩紀の『存在論的、郵便的』は後半、ハイデガー論になるわけだが、なぜハイデガーなのかについては、デリダでありラカン派が深くハイデガーにコミットメントしてきたことから、もはや、そういった扱いを行うことは「自明」といった形で、議論は進む。

さらに加えてラカンの理論的パースペクティヴ一般が、アラン・ジュランヴィルが示したように多くの点でハイデガーを継承している。したがって、「真理の配達人」の批判は諸状況から考えて、実はラカンに潜むハイデガー的諸前提に向けられていたと考えてよい。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

すでに前二章の記述からも明らかなように、のちラカン精神分析はこの両者を組み合わせ、より洗練された理論的図式を完成させている。『存在と時間』は上述のように、特異点(現存在)の持つ二重性を実体的に、人間という事物の性質から導き出した。しかしラカン派は、その種の実体論すら完全に破棄している。そこでは思考の限界(現実界)は思考対象の集積(象徴界)の真ん中に空いた亀裂、「欠如」として示されている。そしてその欠如の存在は、ゲーデル不完全性定理により保証される(14)。存在者の総体は決してひとつのレヴェル(平面)に閉じえない。ハイデガーが「現存在」と呼んだ亀裂、つまり「ファルス」は、その数学的不可能性の構造的表現として規定される。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

(14)ラカン精神分析ゲーデル的整理は六〇年代にすでに確立している。例えば cfr. Alain Badiou, "Marque et Manque: propos du zero", in Les cahiers pour l'analyse, no.10, Seuil, 1969.
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ようするに、ラカン派がハイデガーを論じることは「当たり前」

  • だから

ハイデガーを論じる。もはやそこには、なぜラカンハイデガーが語られなければならないのか、といった緊張感はない。
ところで、上記では、アラン・バティウの論文がラカン派のゲーデル解釈の「定番」のようにして、紹介されているわけだが、彼こそ、ソーカルの『「知」の欺瞞』における、ゲーデル不完全性定理の章において、徹底して叩かれている、その人なわけであろう。

これはパロディーの中でも最も露骨に無茶苦茶をやっているところなので、哲学者アラン・バディウがいたって真面目に、あるいは真面目に見える様子で、同じような考えを表明していたのはかなり驚きであった。(ただしこのテクストは相当古いことを強調しておこう。)バディウの「主体の理論」(1982)という本の中には、政治とラカン流の精神分析学と数学の集合論がまとめて放り込んである。

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

興味深いことが、この「主体の理論」がバディウの「主著」であるとされていながら、一向に誰も翻訳しないし、上記の論文にしても、一体どこに翻訳があるのだろう?

ハイデガーは思考対象とその条件との関係を、クラインの壺的な歪みのなかで捉えた。彼が「論理学」の有効性を断固拒否したのは、その学が「歪み」を消去すると考えられたからである。しかしその拒否にもかかわらず、ハイデガーのこの着想はまさに論理学的に厳密だったとも言える。何故ならそれは内容的にも時期的にも明らかに、数学史においてプリンキピア・マテマティカ体系(論理実証主義の数学的対応物)の内在的批判として登場した、三一年のゲーデル不完全性定理に対応していたからである。ハイデガーゲーデルもともに、メタ / オブジェクトのレヴェル分け、いわゆる「ロジカル・タイピング」の無矛盾性(consistency)を破る構造を発見した。その構造は前者では「実存論的構造」と、後者では「ゲーデル数」と呼ばれている。

では前期ハイデガーはどうか。前述したように、彼のシステムは二レヴェルの短絡から成立している。その短絡の回路を以下「クラインの管」と呼ぶことにしよう。その存在は声(フォネー)の機能、メタとオブジェクトの峻別を犯す。第三章でも触れたように、『存在と時間』はこの機能侵犯に「呼び声 Ruf」という音声的隠喩を当てている。呼び声(ルフ)は私の外から到来するものではない。それは「私の中からしかも私を超えて aus mir und doch uber mich」響く。そしれその声こそが「現存在の本来的な存在可能」を、つまり「客体的存在者の『事実性』からは本質的に区別されるべき」「実存性」を開示する(第五四 - 五七節)。呼び声(ルフ)が実存論的構造を可能にする。私たちはこのハイデガーの主張を、今度はクラインの壺の安定化装置について語られたものと解釈できるだろう。呼び声(ルフ)は管と円錐部分を循環し、底面=世界のゲーデル的亀裂をより高次で「縫合する suturer」(22)。その縫合作用がなければ世界は開かれたまま放置されてしまう。言い換えれば、象徴界シニフィアンの単なる集積に散逸してしまう[図2 - 2]。現存在の統一性、底面に空いた穴とその縫合作用、すなわち「現 Da」の開放性とそれを閉じる呼び声(ルフ)の循環構造で維持されるのだ。私たちは以下このシステムを、やはり前二章にしたがい「否定神学システム」と呼ぶことにしよう。そこでは「不可能なもの」は世界内にただ一つ現れる。ゲーデル的亀裂を縫合する呼び声(ルフ)とは第二章のパースペクティブで言えば、システムを不完全性において完全にする逆説的 - 超越論的シニフィアンラカンの言う "必ず届く手紙" のことである。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

(22)ジャック=アラン・ミレールの隠喩を借りた。cf. Jacques-Alain Miller, "La suture", in Les cahiers pour l'analyse no.1,1966. ミレールはこの論文でラカン精神分析の中心概念をフレーゲの算術論を援用して説明し、そのなかで「縫合」という語を用いる。ここで彼の議論の詳しい紹介はできないが、ただひとつ、そこですでに「論理的縫合作用 suturation logique」が水平 / 司直の「二つの軸」に関わるとされれいることには注意を促しておく(p.46ff)。水平でバラバラなものをゼロ記号が垂直に縫合するというミレールの考えは、そのまま私たちの図に採用された。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

前期ハイデガーは主に否定神学システムの構造、つまり現存在の実存的構造の分析に携わった。対して後期ハイデガーは、そのシステム自体の成立根拠、超越論的シニフィアンの由来(Woher)へと遡行する。前期ハイデガーは形式化の限界を見出し、後期ハイデガーはそこから差異空間へと遡行する。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ようするに私が何を言いたかったのかというと、上記のハイデガー解釈にしても、完全に、ラカン派の文脈に、そのままのっかった、ラカン派の「党派的レジュメ」を読まされているだけで、ここには、なんの例えば、柄谷やポール・ド・マンとの理論的な対決や緊張関係もない。完全に、ラカン派内の「村社会」のジャーゴンでしかない。
まあ、ある意味で、柄谷は

  • 数学

として、ゲーデル不完全性定理というか、ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』における「修辞」の問題に、かなり誠実に取り組んだのだと思うわけである。対して、ラカン派にまで行くと、ほとんど、柄谷と関係ないでしょ。彼らの饒舌は。それなのに、なぜそういった議論を、ごちゃまぜにするの? まさに、現代思想は学問に対する「冒涜」のようにも思えてくるんですよね。
柄谷を「ラカン」で説明して、「So what?」。だからなんなの?
しかし、ここまで読んできて、逆に気付かざるをえないことが、ようするに、東浩紀はかなり柄谷に「影響」されている、ということなのではないか。ほとんど、東浩紀が言っていることは、柄谷のどっかの発言の

  • パクり

なんじゃないのか、と思えてくるわけですね。いろいろと、断片を拾い上げて、日々の飯の種にしている、といったような。

このようにみるとき、デリダがいう "差延" の隠蔽は、ハイデッガーがいう「存在者の存在」の "差異" の隠蔽とどう異なるだろうか。あるいは、デリダハイデッガーに対して何をつけ加えたといえるだろうか。本質的には何もない。むしろ、デリダに独自性があるとすれば、"本質的な何か" に至ることを拒絶したところにこそある。ハイデッガーは「哲学の終り」を認知しながら、「いかなる使命が思惟のためになお保存されて残っているか」と問うのに対して、いわばデリダは「哲学」がいかに執拗に生きのびるか、したがって「哲学」の解体はいかに戦略的且つ終りのないものであらざるをえないかという認識から出発している。そこからくる身軽さとレトリカルな舞いが、ハイデッガー、というよりハイデッガリアンの「哲学」的な鈍重さと区別されるのである。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

ここにおける、ハイデガーに比べての、デリダの「そこからくる身軽さとレトリカルな舞い」といった発言は、近年の東浩紀

  • ふまじめ思想

への影響をどこか感じさせるものがある。

ハイデッガーフッサール批判・プラトニズム批判は、そのようにいうことで片づけられるわけではない。そこには、すくなくとも、フッサールフレーゲラッセルのような「論理主義」への批判がある。ただし、それはハイデッガーの特権的な用語にコミットすることによってではなく、彼のいわんとすることを "形式化" してみることによってのみとりだされる。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

この文脈こそ、上記の引用がそうだったように、ハイデガーに「形式化の諸問題」批判のような文脈を読み込もうとする(もっと言えば、ゲーデル問題を読もうとする)原点のような記述になっているわけであろう。

この文から判断するかぎり、ハイデッガーサイバネティックスの意義、「二十世紀の知的革命」(ベートソン)というべき意義を充分に理解しているようにはみえない。それはたんにテクノロジー・工学として考えられえているようにみえる。しかし、いうまでもなく、サイバネティックスは、すべてを差異=情報という観点でみることによって、物質と生命、動物と人間といった伝統的な二項対立を無効化するものなのだ。そこで、もはや「精神」や「人間」をアプリオリに特権的にもちだすことは許されていない。そのようなものをもちだすことで成立するような「哲学」(実存主義の如き)は、ハイデッガーのいうように、「終りをつげている」のである。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

ここなんか、東浩紀の言う「動物化」そのものの主張でしょう。啓蒙主義という「人間主義」の終わり、みたいな。

われわれは、ニーチェのように非凡に語ることができないがゆえに、積極的に凡庸さを選ぶ。いいかえれば、ニーチェを模倣して結局プロヴィンシャルな言葉遊びに堕していったハイデッガーデリダのかわりに、「厳密な学」をめざしたフッサールフレーゲの道を選ぶ。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

柄谷は繰り返し、「形式化の徹底」について発言しているわけで、そういう意味では、数学に最後まで拘泥したフッサールの立場にたち続けたわけで、その点で、明確にデリダハイデガーと対立しているわけなのだが、おそらくは、東浩紀の解釈においては、このデリダハイデガーの「パフォーマティヴ=詩的」な立場に、彼は

  • 後退

することこそ「進歩」だと「悟った」んだと思うんですね。だから、この引用からすると、東浩紀は柄谷と対決している。それは、探究1の「教える立場」に徹底して留まり続けることが「正しい」という

  • 答え

が最初からあって、それを必死で守り続けようとする「優等生」の姿になっている。

たとえば、ベートソンは、非言語的コミュニケーションと言語的コミュニケーションについて、あるいはアナログ的なものとデジタル的なものについて常識的に想定されているような差異をしりぞけるところからはじめている。サイバネティックスにもとづいている以上、彼が基本的にはすべてをデジタル化(形式化)しうると考えるのは当然である。その上で、彼が見出すそれらの差異は、一言でいえば、ロジカル・タイプが可能であるか否かにある。彼の考えでは、非言語的コミュニケーションの特徴は、形象的であるとか連続的であるとかいうことにあるのではなく、「メタコミュイニカティヴな枠組みの欠如」にある。(メタコミュニケーションとは、コミュニケーションについてのコミュニケーションのことである。)彼は、夢を例にとって、次のようにいう。

メタコミュニカティヴな枠組の欠如によって課せられた限界のもとで、夢が、肯定的であれ、否定的であれインディカティヴな言明をなすことは明らかに不可能である。内容を "メタフォリック" とみなす枠組がありえないので、その内容を "リテラル" とみなす枠組もありえない。夢は雨や旱魃を想像することはできるが、"雨が降っている" とか "雨が降っていない" と主張することはできない。(「精神のエコロジーへのステップ」)

ベートソンは、有名なダブル・バインド論において、分裂病を「メタコミュニカティヴなシステム」の障害としてとらえている。ダブル・バインドとは、コミュニケーションにおいて、相手が二つの異なるレベル(ロジカル・タイプ)のメッセージを発し、且つそれらが互いに矛盾しあうときに生じる「決定不能性」の状態である。いいかえれば、「メタコミュニカティヴな枠組の欠如」は、ロジカルテイプがうしなわれざるをえないような状態をさしている。そこでは、排中律(あれかこれか)が成立しない。フロイトの言葉でいえば、「無意識には否定がない」。《判断の働きを遂行するには、否定の象徴の創出をとおしてのみ可能である》(「否定」)。
しかし、われわれは、無意識あるいはアナログ的・形象的なものを、発生論的に先行させるべきではない。フロイト自身もこういっている。《「私はそんなことは考えたことがありません」とか「そういうことは思ってもみませんでした」、被分析者がこういう言葉で反応したときほど無意識の発見に成功したという強い証拠が存在することはない》(「否定」)。それは、患者がコンシステンシーを保とうとして、言明の一義性に固執するかぎり、且つそのかぎりにおいてのみ、「無意識」の存在が証明されるということである。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

この辺りは、一般意志2.0でも語られていた、ビッグ・データの「無意識」においては、肯定と否定の区別に意味がない、といった説明の文脈と非常に近い感じがしますね。
(いずれにしろ、夢には「メタ」がない、といった指摘は興味深いですね。)

ところで、バルトは、シニフィアンの窮極のシニフィエから解放させるために、空虚な記号(ゼロ記号)をおくという考え方を提出している。おそらくバルトは、ゼロでも超越でもないような何か、いわば空=間について語っているのだ。、それは、差異体系の自己差異性----したがって差異体系の無根拠性----にほかならないといってよい。シニフィアンの連鎖関係の基底に空虚な記号をおくということは、基底をもたないということである。バルトは、自己差異的な差異体系、つまりたえまなく横断的に交叉し拡散する連鎖的な多様体を、閉じることによって根拠をもつのではなく、それをそのまま肯定するようなヴィジョンについて、あるいは、意味が固定的に定着してしまう瞬間をたえず廃棄して行くような思考の可能性について、告ぎたいのだといってよい。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

このことは、なんで、上記の引用の、『存在論的、郵便的』のハイデガーの文脈で「縫合」とかいう、ラカン派の「ゼロ記号」解釈がいきなり、使われてんのか、になんか、影響がありそうですよね(柄谷のこの「ゼロ記号」の肯定的解釈を、この文脈に合わせてきた、みたいな)。

アレグザンダーがとらえる「自然都市」は、どんなに複雑であっても、すでに閉じられ透過されるシステムである。いいかえれば、「自然都市」はすでに人工的なものである。実際、アレグザンダーは、「自然都市」を人工的に設計しようとするプランナーなのだ。われわれが見出そうとする自然成長性(分裂生成)が、そのような自然 / 人工という二分法のなかで不可避的に消されてしまうほかないことは明瞭である。だが、自然成長性(分裂生成)にかんして、それが形式化しえず形式化をこえたものであるというようなことを百万遍となえたとしても、何一つ明らかにはならないだろう。われわれは逆にまず形式化からはじめなければならない。
柄谷行人「言語・数・貨幣」)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

この辺りは、「観光客の哲学」における、唐突な「自然」というキーワードの重要化に、どこか影響関係があるように思えてならない。
ここまで読んできて、私にも柄谷には一つ不満がある。
それは、柄谷が「探究3」で書いていたような「数学」の問題が、この段階では意識されていない、ということである。
そのことは、なぜ柄谷が、「探究2」以降に、

  • カント

に戻って考え始めたのかに関係があると思っている。
柄谷はゲーデル問題として、クローズドな理論体系「について」の理論体系といった、自己言及的な問題から、形式体系は結局はクローズドな「意味」として、最初から失敗する運命にある、といった議論を繰り返しているわけであるが、そこには、なぜ

  • 数学

が私たちの社会の認識として「成功」するのか、といった話がそこからはもれてしまっているんですよね。つまり、そういった、啓蒙の時代の問題を改めてやろうとして、カントを論じ始めたんだと思うんですよね。
カントが考えたのも、基本的には当時の科学であった。これ、というか、この「体系」を保存しながら、ありえるような社会システムを構想したわけで、カントには科学を包含することは自明なものとしてあった。
例えば、一つの例として、量子力学というものがある。これは、コペンハーゲン解釈と呼ばれているものによって、とりあえずの一定の「意味」が与えられているわけだが、早い話が、普通に考える限り、これは私たちの普通の感覚だと

  • つじつまが合わない

ようにしか思えない。そして、この「曖昧」さに我慢ができない連中が飛び付くのが「多世界宇宙論解釈」なわけだけれど、私にはこれは、非常に問題だと思っている。多世界解釈は、ようするに、SF(=文学)なのであって、別にこの解釈を「証明」するようなアイデアが提示されているわけでもない。
そんなことより重要なのは、量子力学が、たとえ、私たち人間にとっての「意味」に解釈できなくても、勝手に、「形式体系」が成立してしまっている、というところにポイントがある。つまり、なぜだかは分からないけど、そうなっている、わけである。
事実、量子力学の理論の応用は、スマホの部品に始まって、現代社会の多くのところで「応用」されているわけで、もはや、そこには、人間にとっての「意味」を離れて、成立してしまっているわけであろう。
ようするに、言葉っていうのは

  • 全て

「比喩」なのだ。なぜ量子力学がうまく「意味」化できないか。それは、私たちが当然のように、こういった微小世界にまで、私たちの「巨視的世界」においては「常識」のものを、「投影」してしまうから、それと整合性が合わないわけであろう。原子モデルは「比喩」である。原子の回りを量子が回っている

  • わけがない

のであって、それは一見そう見える「モデル」をこしらえて、模型で見せているにすぎない。しかし、なんだかわからないけど、数学的な「モデル」による計算だけは、成立してしまう。
ようするに、人間にとっての「意味」がなくても、自然は勝手に、なんらかの「秩序」を見せるわけだけど、たとえそうなったとしても、それを意味化できない。やっても、完全な意味化にはならない。ならなくても、そこには、なんらかの(数学的)秩序だけは現れるのだけれど、それが一体なんなのかを「指示」できない。この事態を一体なんと呼べばいいのであろう...。