十字静『図書迷宮』

最近のアニメなどの、サブカル作品を見ていると、ある「特徴」があることに気付く。それは、基本的に主人公の男の子の性格が

  • 不分明

な場合が多い、ということなのだ。それは、例えば、今期のアニメで言えば、「ダーリン・イン・ザ・フランキス」のヒロであり、「Fate/EXTRA」の主人公の岸浪ハクノ(きしなみはくの)や、「BEATLESS」の遠藤アラト(えんどうあらと)が分かりやすい。FATEの場合、(これは一種の二次創作なのだろうが)、「FATE/Stay Night」の主人公の衛宮士郎(えみやしろう)は、まあ、熱血漢で正義感で分かりやすかった。ところが、岸浪ハクノは、そういった分かりやすさがない。それは、見た目の描写にも現れていて、実に、

  • どこにでもいる

ような風体でしか描かれない。もちろん、こういった描写は、ある意味での「かっこいい」主人公の定型的な描き方ではあるのだろうが、それはいわゆる「キャラ」ではない。というか、キャラを「拒否」した先にある、なんらかの無著名な存在としか呼びようのない描き方になっている(まさに「なにものでもない」なにかを描こうとしている、制作側の「意志」が反映している)。
こういった傾向は、おそらくは、エロゲーなどのPCゲームの影響もあると思っている。こういったゲームでは、主人公は基本的に作品に登場しない。つまり、画面上、主人公は

  • 登場しない(=描かれない)

わけで(つまり、ずっと主人公目線で描かれる)、逆にその主人公の「性格」はプレーをする人間が「それそのもの」として実体化するという前提があるので、必然的に作品の最初で明確な何かを色付けすることが難しいわけだ。
(こういった特徴を、ロラン・バルトの言う「ゼロ記号」としての「無の中心」の役割に見出すこともできるのだろう。)
そして、その代わりと言ってはなんだが、画面に次々と出てくるのは、この主人公とイチャラブをする、ヒロイン「たち」であり、そういったヒロインは、これでもかというくらいに

  • キャラ付け

がされれいる。分かりやすすぎるくらいに、分かりやすく、だれがだれなのかを、これでもかというくらいに、その「差異」を強調してくる。
例えば、アニメ「エヴァンゲリオン」の主人公の碇シンジは、まだ分かりやすかった。つまり、その弱虫の性格ははっきりしていたから。ある意味で、それが「性格」だったから。ところが、それ以降の、こういった作品では、そもそも、そういった主人公を「性格」として色を付けることに、極端に

  • 警戒的

になっていく。
しかし、こういった「傾向」の萌芽を、エヴァはすでに包含していた、と言ってもいい。それは、第3話でエヴァに乗ったシンジが使徒

  • ナイフ

を思わせる武器でメッタ刺しをする場面で、ここの光景には、その当時の社会問題化されていた

  • キレる少年

の実像を描こうといった制作側の意図が感じられる。つまり、この当時、少年の

  • ロボット

に搭乗して戦う姿は、こういった「キレる」少年にオーバーラップして、神聖化させた。ここには、どこか、WW2における、カミカゼ特攻隊の「少年」たちを思わせる「神聖」化のアナロジーがある。この社会をなんらかの意味で、

  • 活性化

し、浮遊させる「トリガー」として、そういった「少年」の「内面」が、なんらかの意味で「神聖」視させる、といった傾向があった。
同じような傾向を感じさせる場面が、「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の第4話「フラップ・フラップ」における、主人公のヒロが、叫竜(きょりゅう)の血を引いたヒロインのゼロツーがヒロのチームを離れることが分かったところで行われる

  • 告白

の場面だろう。この場面での「内面」の告白は、どこか、夏目漱石の『こころ』における、Kの手紙を思わせるものがある。これを受けて、ヒロインのゼロツーは

  • こんなに「恥かしい」ことを言われたのは生まれて始めて

と応答するわけだが、ようするに、この一言こそが極めて重要に示唆的なのであって、ようするに、だれもがこの主人公を「なんの感情ももっていない」なにも考えていない、モブキャラのように思っていたら、急に、

  • こんなこと

を言い始める、まさに、エヴァ碇シンジが「キレて」何度も何度も、使徒をナイフで突き刺し続ける「ように」、突然、だれも思ってもいないような、突拍子もない行動を行う、というところに「特徴」があるわけで、ここには明確に、

  • ヒロインたちの「露骨なキャラ化」

との「対称」性が意識されている、ということに注意がいる。
(こういった近年の特徴を感じさせる、別のサブカルチャーとして、「BUMP OF CHICKEN」という日本の音楽バンドの作品があるかもしれない。)
これらを一貫して特徴づけるのは、その主人公の

  • 内面(=内省)

を、実は作品のキーポイントとして使っている、というところにあるように思われる。
さて。掲題のラノベであるが、私はこの作品も、そういった系統に分類できると思っている。
主人公の、奥月綜嗣(おくつきそうし)のストーリーは、魔法学園「アレクサンドリア」に留学してくるところから始まる。その学園に向かっている途中、なぜか、「敵」に追われている。そして、ある吸血鬼の「少女」に出会う。アルテリア、という吸血鬼に。彼女に血を吸われた綜嗣は彼女の眷属となるのだが、その代償として、記憶が8時間しかもたなくなる。しかし、ある手段によって、この問題は暫定的には対処ができることが分かっている。つまり、魔導書(グリモア)という<本>に書き込んでおくことで、その8時間にあったことを、その後に引き継げる、と。しかし、その暫定対応には一つの欠点があった。それは、その<本>が、一千ページしかなかったことだ。つまり、「記憶容量」に限界がある。よって、高級対応として、このページが尽きる前に、別の手段を見付けなければならない。
作品は、いつものラノベといった感じで、ヒロインたちとのイチャラブを適当に繰り返して、なんとも見あきた感じのページが続いた後、急に、作品の雰囲気が変わってくる。

「.....僕は、信じてたんだぞ? お前の涙も笑顔も言葉も、僕は全部信じてたんだぞっ!? なのにお前は......っ、お前は全部踏みにじるんだな、裏切り者ぉっ!!!」
「ぷっはははは! 涙? 笑顔? 言葉じゃとっ? まーだ気付いておらぬのか!」
アルテリアは心底面白そうに顔を歪めると、喜びを堪えきれないように叫びました。

「その<千一頁の最後の祈り>、ほとんど妾の創作じゃぞっ☆」

さて、この物語のクライマックスが近付いてきたようです。
「くひゃひゃひゃひゃひゃ! さぁて、何ページまで書いたのかは忘れたがの!」
あなたは考えはしなかったのでしょうか?
<本(わたし)>自体が一冊の小説で、何者かの手によって書かれた空想の産物(フィクション)なのだ、とは。

この作品は確かに、奥月綜嗣が魔法学園「アレクサンドリア」に留学するために、この学校に向かうところから始まっているが、彼のそれ以前の記憶そのものが、とても曖昧であることが示唆されている。確かに、彼は父の死を契機に、父の遺志を継ごうと、この学園に留学を目指してきたはずなのだが、なぜかその父の死に関係した日の記憶が曖昧なのだ。
アルテリアの上記の言葉は、私たちの「本質」を示している、とも言える。彼は確かに、8時間で記憶を失う。そして、それを回避するために、魔導書(グリモア)という<本>に書き込む。ここまではいい。しかし、なぜ

  • この書き込んであるもの

  • <自分>

だと思えるのか? ここには、自らの「同一性」に対する「懐疑」が関係している。つまり、一体、私たちの何が私たちをそのように、あらしめていることを担保しているのか? 一体、何が

  • 信じられなくなる

とき、私たち自らを成り立たせられなくなるのか...。
(さて。最後は余談ですが、この作品にまで「ゲーデル不完全性定理」の名前がでてくるわけですがw、どーしましょうかね。)

図書迷宮 (MF文庫J)

図書迷宮 (MF文庫J)