戸田山和久「カントを自然化する」

さて。掲題の著者については、前回、『科学的実在論を擁護する』において、その科学論を「実在論」として「経験論」と敵対する論陣として、その論争を整理する立場の最新の著作について言及したわけだが、今回のこの論文ではなぜか

  • カント

について言及している。しかしそれは、経験論者としてのカントではない。つまり、なぜ、わざわざ掲題の著者は、このオールドファッションとなったカントに今さらながら言及しているのか、ということになるわけだが、そこについてはまあ、業界的な

  • 再評価

が次々と論文化されている「流行」に感化されて、ということになるようだw

認知科学のいくつかの基本的なテーゼがカントにまで遡ることは、認知科学のフィールドで仕事をしてきた哲学者によって古くから指摘されてきた。たとえばデネットは、およそ何ものかが経験することができるのはいかにしてか、というカントの問いを、システムがどのようにしたらXを成し遂げることができるのか、という工学的問題の極限に位置づけている[Dennett 1978:111]し、ポトリシア・チャーチランドも、神経哲学の前史について述べる章で、カントを内省的方法を心の研究から排除した先駆者として位置づけている[Churchland 1986:248]。
近年になって、アンドリュー・ブルック、パトリシア・キッチャーらによって、『純粋理性批判』を心の哲学として読み直す試みが行われ、そこに潜在している独自な心の理論(超越論的心理学)が再構成された[Brook 1994, Kitcher 1990]。彼らの試みによって再構成された心のモデルは、それだけをとっても十分に魅力的であり、しかも、これまで思われてきた以上に、認知科学フレームワークと親和性の高いものだった。こうして、カントは現代認知科学の「知的祖父(the intellectual grandfather)と呼ばれることになる[Brook 2007:117]。

しかし、認知科学によってカントを再評価するとは、具体的にはなんのことを言っているのだろうか? それを、ひとまずは掲題の論文から追ってみたい。

知識の可能性の条件はどのように問われるべきか。ブルックをはじめとする多くの論者は、カントの方法論上の革命である超越論的議論が、まさに認知科学の方法論をなしていると指摘している。ここでは[Brook 2007:123]に倣って、超越論的議論を「ある現象が生じうるための必要条件を推論する」試みとしておこう。知識なり、経験なりが現にあるような仕方で成り立っている。このとき、その可能性の条件を、そうした知識・経験を生じるためには、心はどうなっていなければならないか、われわれが現にもっているような表象をもちうるためには心はどのような能力を備えていなければならないかを推論する。このような超越論的議論によっておよそ心として機能することのできるものが満たすべき最も一般的な制約を明らかにしている営みが超越論的心理学である。

こうした方法は認知科学では普通に使われ、タクスアナリシスとも呼ばれている。つまり、一定の課題を果たしているシステムについて、その課題を果たすためには何がなされねばならないかという具合にタスクを分解していくという作業だ。重要なのは、ここで使われている推論方法である。われわれの心が成し遂げている機能に着目し、それが果たされるためにはどのようなサブタスクがなされなければならないか、そしてそのサブタスクがなされるためには......、という具合に、ある機能が実現されるための必要条件を求めていく推論、すなわち超越論的議論である。

このほうに、ブルックは認知科学的な観点から、カントの超越論的議論を整理するわけだが、さて。ブルックはなぜ、そうまでカントにコミットメントをするのか? それは、今の認知科学

  • まだ取り込んでいないカントのアイデアがある

という解釈に関係している。

ブルックは、認知科学がまだ取り入れていないカントのアイディアとして、1自己意識についての洞察、2意識の統一性が認知の核心にあり、それには特殊な綜合が必要だという洞察を挙げている[Brook 2004:2、2007:126-131]。

ブルックは、カントの何が認知科学に引き継がれ、何が引き継がれていないかを知るためには、概念における再認の綜合(Synthesis der Recognition im Begriffe)」がたどった運命を見ればよいとする。彼によれば概念における再認の綜合は次の二つに分けられる[Brook 2004:5-6]。1感覚の多様の対象(の表象)への綜合、2これらの個々の表象を結びつけて、「すべての可能的経験の客観」としての統一的な自然を与える綜合[KdrV:A114]。ブルックは2の綜合によって生み出される表象を「大域的表象(grobal epresentation)」と名づけている。大域的表象とは、個々の表象を互いに結びつけ、そのように結びつけられたどの一つのものを意識することも、すなわち他のものを意識することになるようにすることで成立する表象である。彼によれば、カントは大域的表象がわれわれが現にもっているような認知や意識には不可欠だと考えていた[Brook 2004:6]。
このうち第一の綜合は認知科学においては「結びつけ(Binding)」と呼ばれており、盛んに研究されてきた。それぞれ脳の異なる箇所で処理されているはずの色、線、形などを統合して、どのようにして一つの対象として表象できるのかという問題である。ところが、現代の認知科学は、大域的表象を生み出す2の綜合について無視し続けている。ブルックはこれは驚くべきことだと言う。表象された対象同士を関係づける能力は、比較や関係づけにとって基礎的なものであるはずだからだ[Brook 2004:14]。

認知科学がカントから学び損なったもう一つのアイディアとして、ブルックは自己意識の問題を挙げている。ところで、「自己意識」という語は二つの全く異なる意味で使われている。自分の内部状態についてのモニタリングという意味での自己意識と、それらの内部状態すべてが内属する主体としての自己自身としての自分自身についての意識、という意味での自己意識である。ブルックは後者に注目する。たしかに、認知科学は前者については研究してきたが、後者についてはほとんど何もやってこなかった。

ようするに、ブルックがこだわっているのは、伊藤計劃の言うところの

  • 意識

であり、カントの言うところの

  • 超越論的自我

の問題を、なぜか認知科学は今に至るまで、徹底して無視(=シカト)している、と言って、不満を抱いている、というわけである。
さて。なぜなのだろう?
それは、掲題の著者がこの論文でも認めているように、現在の認知科学の到達地点が、まだまだ、初歩的な段階の域を抜け出していない、というところにもあるし、もっと単刀直入に言うなら、ようするに、認知科学が主張している

とは、脳のどこの領域が活発に活動しているか(脳の断面図のどこが「真っ赤」になっているか)といった知見でやりあっている「なにか」である限り、そもそもそんな「高度」な問題を考える以前の、初等的なメカニズムでさえ、複雑すぎて手におえていない、といった所が正直なところなのだろう(いい加減、脳のどっかの部分が赤くなった青くなったで一喜一憂している域から抜け出さないと、どうしようもないわけでw)。
しかし、私のような人間からすると、問題はそういったところにあるわけじゃないように思えてくる。
というのは、私が気になるのは、上記の「超越論的」議論の定義なのだ。この定義から考えるなら、そもそもこれは「科学」である必要はない。というか、宇宙紐理論にしても、ビッグバン理論にしても、量子の多世界解釈にしても、まったく、カール・ポパー反証可能性を満たしていない。しかし、それがなぜ「科学」の名において語られるのかといえば、大きく言えば、そういった「問題系」に対して、なんらかの意味で「救いだし」ていると解釈される部分を含んでいるかいないか、という違いでしかなく、大まかにみればこれこそが、前近代において言われた

そのものなわけだ。つまり、科学の本質は、すでに「実証」ではなく、「形而上学」に移っている、ということを、なぜか掲題の著者は認識しない。ずっと

  • 曖昧

な、どっちつかずの議論を繰り返している。その自らの「理論的」な不徹底に、あまりにも無自覚であることこそが、ことの本質であるように私にはどうしても思えてならない。
そのことは、以下の、近年におけるカントの認知科学分析哲学との「平行性」を論じた、以下の本における基本的な姿勢の、この論文との差異に現れているように、私には思われる。

カントは、超越論的心理学の第三誤謬推理批判によって内的感官の超越論的対象の客観的恒常性を否定し、超越論的主観の論理的同一性のみを認めている。これに対してベネットは、外的観察者という他者の観点から人格同一性の経験的規準の可謬性を明らかにする議論として、第三誤謬推理批判の議論を解釈する。これに対してストローソンは、ベネットの解釈を退け、あくまで思考する主観の実体化を否定する点に外的観察者を想定するカントの狙いがあり、人格同一性の経験的規準には関係しないとする。しかし、外的観察者を全時間が属する自己、あるいは規定する自己と解釈し、自我の内の全時間で同一的な私を規定されうる自己とするならば、カントは、ロックとライプニッツが主張した人格同一性お規準について、その客観性を問い直していることになる。要するにカントは、魂の人格性の証明が媒概念曖昧の虚偽を犯しており、内的感官の超越論的対象の客観的恒常性が認識されるのは他者の観点であると考えているのである。カントによれば、経験の主観の人格同一性は、超越論的主観として意識される自己の統一のもとでのみ可能であり、それゆえに人格同一性の経験的規準には客観性が要求される。
したがって、統一のもとで自己が超越論的主観として意識されるというカントの主張は、人格同一性に関する現代的論争のなかでは、人格同一性が自己意識の通時的かつ共時的な統一的関係であると説明するシューメイカーの中立的見解との間に一致点を指摘することができおる。換言するならば、シューメイカーが主張する通時的かつ共時的な統一的関係のもとで意識される自己は、カントの超越論的心理学における超越論的主観でなければならない。ただし、シューメイカーによれば、自己意識の通時的かつ共時的な統一的関係は心的状態の機能的な特徴を通じて決定されるが、カントの主張から統一的関係には客観性が要求されると言わなければならない。経験の主観のあり方を自己意識の共時的な統一としてのみ理解する点でブルックの解釈は不十分であり、経験の主観のあり方に自己意識の通時的な統一のみを認める点でキャッチャーの解釈は誤っている。アメリクスの解釈では、超越論的主観と経験との連関が見落とされており、超越論的主観の形式的な論理的同一性と不可知の実質的な人格同一性とが区別されていない。また、カントの立場では、経験の主観は人格同一性の経験的規準が客観的に満たされたとしても、それのみでは行為に対する責任の帰属先にはならない。過去から現在へと至る自己の心理的連続性の客観的認識は、法的にも道徳的にも責任を帰す根拠としれは不十分である。これに対してパーフィットとスウィンバーンいずれの見解でも、人格同一性と行為の帰責可能性を区別することができないという問題が残る。
以上の考察によって筆者は、カントの超越論的心理学の立場から、人格同一性に関する現代的論争における中立的見解では経験的人格の同一性に客観性が要求されることを明らかにした。今の私からそれ以前の私へと記憶を遡ることを通じて、私は自分が同一人物であることを知る。しかし、それは他人が見る私とは異なる。このようにしてカントはロックを批判する。カントによれば、私は、他人と同じあり方でみずからを意識するが、私自身でみずからを認識することはできない。カントの主張には、理性的存在者としての人格がまさに理性的と言われる所以を自己認識に求める。その徹底性が示されているのである。

カントの主張をその「全体」として眺めるなら、これは一つの「形而上学」と言わざるをえないし、もっと言えば、古くからある、プラトンイデア論にも通じるような、そういった形而上学だと言わざるをえないのだろうが、しかし、その局所的な主張の場面場面において考えたとき、そういった様相をあまり意識させられない。
おそらく、カントの姿勢はどこかアイロニカルなのだ。一方において、経験的実在論、つまり、近代科学を「救う」ことを目指しながら、他方において、

  • そのため

に、アプリオリといった、どこか経験的実在論を「超えた」、「形而上学」的な議論を行うことを「ためらわない」わけで、カントはそういった「猥雑」な位置に自らを置くことを甘んじて受け入れるわけである。彼は分かっていてやっている。彼は自分を「安全」な場所に置くことを「あきらめる」ことを、ためらわない。カントはそれを「批判」と言っているが、つまりは「批評」ということになる。カントは、それぞれの主張の場面においては、常に、ある

  • 論敵

と戦っているのであって、つまり、その論敵の視点から見るなら、「そこ」での主張は、非常に真剣に受け取らなければならない、厳しい理論対決の議論として受け取らざるをえないものとなっていると、どうしても考えざるをえない。しかし、他方において、カントそのものが、翻って、自らの「理論」といったものを振り返ったとき、彼はその体系的な普遍性に、そこまでのコミットメントをしなかったのではないだろうか。つまり、彼はあくまでも、

  • 同時代

の論敵たちとの対決を重要視したのであって、そういった時代超越的な場所に自らを置くことに、それほどのこだわりがなかった。
そのことは、上記の引用における、カントの使う「客観」という言葉の位置づけが、著しく「批評」的な文脈において使われていることを示唆している。
上記の引用の著者と、掲題の論文の著者の視点の違いは、後者がたんに「科学的実在論」という非常に

  • 狭い

イデオロギー」の範囲で、規範的に行動することに「こだわっている」なにかだとするなら、前者は、もっとカントが「言っている」ことを「そのまま」聞こう、とする態度であり、それと近年の認知科学や、分析哲学がカントに接近してくる交差点を、フェアに評価しようという姿勢だと言えると思うわけで、この差異において、大きな態度の違いを象徴しているように思われる。
ようするに、掲題の著者の立場は、自らが言っているほどには、カントと向き合えていない。もっと言えばカントを「怖がっている」わけで、カントの視点から見れば、その態度はあまりに、不徹底なのだ。それは、「形而上学」なのか、「経験論」なのか。掲題の著者は、

  • 科学

という言葉で、その「間」にある

  • 正しい

態度に自らを留まらせることにばかり気を使っていて、とにかく「間違えない」ことばかりを気にして、びくびくしている。カントを評価するなら、どうどうと形而上学をやればいいのであって、徹底的に「自由」にやればいいのであって、それが「科学」かどうかなんて、どうでもいいのだ。あるのはその「批評」性なのであって、たとえその断片であっても、後世に評価されるクリティカルなものは残っていくわけで、どうでもいい凡庸な

  • 正しさ

を死ぬまで守り通す「退屈」なポジションの中にい続けることだけに安穏とした生きがいを見出すのか、そうでないきわどい「ラディカル」な境界で考えることにこそ「倫理的=生きること」の意味を見出すのか...。

日本カント研究〈8〉カントと心の哲学

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