西尾維新『悲終伝』

一方において、物語シリースは、あれほど「終わり」を何度も繰り返しながら続いているのにも関わらず、この伝説シリーズは、あとがきで作者が宣言しているように、どうもこの物語は、これで終わり、といった印象が強いわけで、その差異とはなんなのだろう、というのは読んですぐの感想であった。
それは、おそらくは伝説シリーズが、物語シリーズのように、たんに個人的なモノローグであるだけではい続けられなかった、つまり、最初から、ある

  • テーマ

に関係して書き始められたことに関係している、という印象を受ける。
言うまでもなく、この作品における「大いなる悲鳴」とは、3・11の地震津波のことである。つまり、この作品はあれを

  • 地球

による、人間への「攻撃」として解釈して、どこまで進めるかを試した作品である。しかし、もしもそれだけであるなら、この問題はそこまで深刻ではなかった。というのは、ああいった大津波は、そもそも、地球の歴史をさかのぼれば、今までに何度もあったからなのだ。では、なぜそれがここで改めて「問題」となったのかは、人間。というか、人間が生み出した

  • 文明(=科学)

が問題となったから、ということになり、言うまでもなく、福島第一原子力発電所の過酷事故を「どのように考えるか」に関係して、物語は進行した。
掲題の著者の、さまざまな作品を私もいろいろ読んできたが、これらの作品全体を一貫して貫いている主題は、

  • ビルドゥングス・ロマン

だと言っていいが、そう言った場合に、たんにそれはそれ「そのまま」に提示されることはない。つまり、それは「アイロニー」という様相を示す。
一番分かりやすい例は、貴志祐介の『悪の教典』の主人公の高校教師ハスミンであろう。彼は作品の最後で、自らが担当するクラスの生徒

  • 全員

を猟銃で一人一人、ぶち殺していくわけだが、その惨劇が終わった後で、彼は警察を前にして、まるで自分は無関係であるかのように

をつき続ける(この「醜い」姿を私たちは今、国会の森友問題で見せつけられているのではないか)。つまり、彼は最近のはやりの言葉で「サイコパス」として解釈される。ところが、この『悪の教典』の文庫版の解説で、この作品を映画化した監督は、このハスミンが

  • 新しい時代の「ヒーロー」

なのだ、として礼賛するわけであるw
こういった傾向が何を意味していたのか? それを同じ貴志祐介の作品の『新世界より』と比較してみることは重要かもしれない。
上記の映画監督が言いたかったことは、例えば、そのハスミンに虐殺される高校生たちの「生態」の醜さにも関係していたのであろう。さまざまな「いじめ」を繰り返し、生徒とは言っても、まったく清廉潔白な奴など一人もいない。みんなどこか「へたれ」で、自分かわいさに、自己保身にしか興味がない。こういった

  • 構造

の問題への「いらだち」を、そういった「サイコパス」によって、

  • 時代の閉塞感をぶち破ってくれる「悪」のヒーロー

といった表象で語ることが、一つの彼らの「カタルシス」だったわけである。
こういった傾向の作品は、90年代の世紀末の日本において一定のステータスを築いていた。それは、吉本隆明がさかんにオウム真理教を礼賛したことに始まり、なんらかの「合理性」が、近代の「啓蒙」思想などの「行きづまり」を打破するような可能性が模索されるような傾向と平行して語られた。それは、例えば、

が、決定的にカントの義務論と戦ったことに現れているように、近代の人間主義、人間の尊厳といったものに対して、「合理性」によって、その「規範」的な価値を突き破ろうといった運動だったと言うこともできる。そして、それはある意味で、ナチス優生学を再評価するような傾向すら示す。人間の本質が「遺伝子」にあるのなら、そこには「優秀」な遺伝子と「劣等」な遺伝子が

となり、人間の「選別」は、むしろ「科学」の「結果」という形で、カント的な「義務」による規範的価値を攻撃する。
そして、こういった傾向は、西尾維新を始めとした、日本のミステリー小説においても、徹底される。探偵による「推理」は、一つの「合理性」であって、ここに「正義」は関係ない。それが正義だろうが不正義だろうが、「推理」という「合理性」は貫徹される。あるのは「合理性」だけなのであって、探偵はすでに、近代の「人間の尊厳」に関係した「規範」を内面化しているかどうかを、その

  • 資格

において問われることはなくなったわけである。
(この「サイコパス」性が、西尾作品で最も問われた典型は、戯言シリーズにおける零崎人識であることは論をまたないと思うが、彼は、作品の最初の登場段階から、まったくわるびれることなく、「殺人」を趣味として行うような存在として描かれる。ただ、それ以降は、さまざまに何度も何度も描かれるわけだが、その「反復」には、やはりビルドゥングス・ロマンス性を感じさせる。ようするに、この少年も「幼ない」わけである...。)
対して、『新世界より』が描く世界観は、そういった「能力」が少しも「ヒーロー」性を帯びていない、というところに特徴がある。つまり、自らが宿すことになる「パワー」は、たんに

  • 暴走

するかしないか、といった様相においてしか観察されない。それは「村の滅び」であるわけだが、これはもはや、そういった個人の「個性」のような範囲で語ることを許さない(このことは、日本社会のヒエラルキー、東大の出身者だから「才能」があるから、彼らには「権威」がある、といったような解釈がハスミンだとするなら、これに対するアンチテーゼこそが、『新世界より』が示した世界観だったと言えるだろう。東大に入った、「だから」彼らは、ある意味で「危険」だと考えられるわけである...)。
さて。この伝説シリーズも、こうして最終回を迎えて、よりはっきりと、この作品が『新世界より』側ではなく、『悪の教典』寄りの「サイコパス」礼賛作品であったことが分かるであろう。事実、作品の最後は、空々空という主人公が

  • 人類を救う

様相を示すわけで、そう言ってしまえば、いつもの「ご都合主義」だと言わざるをえないだろう。まさに、人類を救ったヒーローだというわけだが、問題はなぜ作者はそういう終わり方をしなければならなかったか、にあるわけであろう。
なぜ、空々空という主人公を「ヒーロー」という形で描かなければならないのか? それは、作品の「構造」に関係している。

「規準はいろいろあるが、空々空、きみの場合は、『地球を擬人化して見ることができない奴』って規準に引っかかったんだよ。灯籠木四子もそうだな」
と、それでもタイミングがよかったのか、真偽はともかく、すんなり答えてくれた。
「要は、感情移入が不得意な奴だ。そういう奴は、天体なんて漠然としたものを敵視できないからね----個別に危機感と敵愾心を煽ってやる必要があった」
擬人化できないきみのために、擬人としれ登場してあげただけのことだよ----実例として。

この作品の最大の問題は、なぜ「地球」は主人公の空々空の前に「だけ」現れたのか、というところにあった。それが説明されたのが、この最後の場面であるが、ようするに空々空と灯籠木四子は

だったから、と言いたいわけであろう。つまり、サイコパスは、まさに東大生が東大に「選ばれる」ように

  • エリート

だから、彼らが人類を「救う」という構造になっているわけだが、作者もそう、あまりにも直截に描いてしまうと、あの3・11の悲惨な人の死を、まさに当事者性として受け止められていない、といった批判を受けることに、どうしても答えなければならなくなる。
つまり、「なぜ」空々空と灯籠木四子は、こういったサイコパスになってしまったのか、といった彼らの「おいたち」を一方において意識しながら、彼らをたんにサイコパスとして、その範囲においてだけで描こうとすることに、最後の最後で「ためらい」を示さざるをえない。

これが、感情か。
ようやく感情が----英雄少年に追いついた。
「こんなときに何をふざけているんですか。地球さん----僕は真面目に話しているのに」
自分の声に怒気がこもるのがわかる。
これが、『怒り』。
けれど空々空は、バニーガールのおどけたポーズに怒ったわけではなかった......。そうではなく、発された言葉のほうが、震えるほどに許せなかったのである。
参ったよ。きみの勝ちだ?
だって?
「戦争に勝者なんていません。敗者と死者がいるだけです」

この「怒り」は、3・11の死者の「怒り」なのであろう。ようするに、作品としては、これは「科学=人類」の「自然=地球」に対する勝利という構造になっている。空々空は、もう一つの地球を作り、人類をそちらに移住させることで、「地球との戦い」を

  • 終わらせる

わけであり、そのことが示唆していることは、ようするに、原発「礼賛」だと言ってもいいだろう。
そういった意味においては、この作品は、最初から、結論が決まっていた。それは、作者が3・11を

  • 自らへの「挑戦」

と受けとったところから始まっている。自らの「ミステリ」小説が採用している「手法」。つまり、「合理性」の哲学。非人間性の哲学が、なぜか今世紀に入って、3・11という形で、もう一度、自らに挑戦してきた、と受けとった、これを「危機」と受けとったからこそ、この作品は書き始められなければならなかった。
しかし書き始めてみると、一つだけはっきりしたことは、「時間」の経過、が大きかったのではないか。3・11から、どんどん時間は過ぎて、東京では、その頃の報道は下火になり、安倍政権の下で、次々と原発は再稼動をされ、原子力規制委員会は昔ながらの御用学者の集団になっている。そういう意味では、一方において、

  • なにも変わらなかった

といった総括を、もしもこの作品の「結論」とするなら、この作品が今もって完結していないことは、たんに「蛇足」にすぎない、ということになるであろう。実際、

  • 科学の勝利

を物語の最終結論として示すことが宿命づけられていたことを考えても、この作品の、ある意味における、尻切れトンボな感じの「打ち切り」の印象は、どうしても避けられない。
しかし、他方において、世界的な自然エネルギー市場の拡大が示しているような、明らかな、原発の市場競争力の低下が示している様相は、そもそもの、こういった

  • 対立軸

がミスリーディングだったことを示していたのではないか、といった疑いを、どうしても、この作品自体に残さぜるをえない。

科学が発達し、魔法の域に達したから、人類に『大いなる悲鳴』が通じるようになっただけだったのだ----他の生物には通じない『大いなる悲鳴』が。同時に『小さき悲鳴』で、剣藤犬个が例外的に生き残った理由も、それで説明がつく。
空々から見ても、彼女は機械に強いほうじゃなかった......。その程度の取るに足らない理由だ、だまたま生き残れたのは。

つまり、どういうことだろう? この作品は、やはり一つの「アイロニー」となっていると言わざるをえない。作者はこの作品の結論として、「人類の勝利」、「地球の制圧」のようなサクセスストーリーを描く一方で、そもそもこの悪夢のような状況を生み出している根幹に、こういった人類の「科学」文明の暴走を示唆せざるをえない。そしてこの「二面性」を、主人公の少年の初期設定にあった「サイコパス」性に対して、ビルデゥングス・ロマンス的な、「時間の経過」がもたらす、人間的な成長(=怒りの感情の獲得)といったものを、最後の最後に置いてくることで、こういった二つの方向性の「クロス」した極点において、読者に深く考えることを求める構造となっているわけである...。
(まあ、いろいろと言いたいことはあるわけだが、この作品については、どうしても触れないわけにいかないのが、地濃鑿と手袋鵬喜だと思っている。まあ、地濃鑿については、なぜこんな性格だったのか、という「フラグ」は最後まで回収されなかったわけで、ひどい放り投げっぷりだな、と思ってはいて、まあ、こっちはどうでもいいかで済ませられるがw、手袋鵬喜の方については、ほんとに「どうでもいい」モブキャラ扱いでしたね、最後は。これ、あまりにひどくない? 四国ゲームの間は、いかに手袋鵬喜の「才能」が、これから重要になってくるか、といった「フラグ」がたてられて、だからこそ、こうやって最後まで登場したのだと思っていたわけだけど、なんでこの「フラグ」について、なんとかしようと思わなかったのだろう? 手袋鵬喜はどこか、空々空との対照性において語られていたはずで、なぜ作者はこのモチーフを途中で放棄したのだろう? むしろ、この最終巻では、作品のコアとしては、杵槻鋼矢に移っている。まあ、その辺りを丁寧に描こうというモチベーションを、どこかで失ったんだということだと思うけれど、残念ではある。もしかしたら、その「いきさつ」としては、四国ゲームにおける、子どもたちの「処女」性に、そのパワーの源泉を見ようとしていたテーマの消失とも関係しているのかもしれない...。)

悲終伝 (講談社ノベルス)

悲終伝 (講談社ノベルス)