伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』

この本は、けっこう前の本でありながら、数ある科学哲学の本の中でも、ある点において、非常に興味深い特徴をもっている。つまり、科学を

との「差異」において考えようとしている、ということが特徴としてある。なぜ、この点が興味深いのか? それは、掲題の著者に言わせれば、この「境界線」は、そう単純に、どこかに線を引けるようなものではない、と言っているように聞こえるからである。

超能力に関する懐疑派がよく言うのは、超心理学の実験は再現性(repeatability)をもたない、ということである。

この上記の引用は、例えば、メイヤスーの『有限性の後に』がこだわっていた命題だった。つまり「奇蹟」の問題で、過去の歴史で一回「だけ」起きたこと、といったものを科学は扱えるのか、といった問題になる。
そもそも、科学の数学化とは、その「構造」のモデル化のことであって、つまり、どういったレベルであれ、ある一定の「法則性」に関係して見出される。つまり、何度も「同じ」になるから「科学」なのであって、だったら「一回だけ起きる」という表現と、相性がよくないわけである。

確かに、科学であることの必要十分条件を与えるのは無理そうだ。ということは科学も疑似科学も区別できないことになるのだろうか? それはちょっと気の早い結論である。わたしが提案したいのは、「科学と疑似科学は区別できる、しかしそれは線引きという形での区別ではない」という考え方である。

この二つの表現の違いは分かりにくいが、いずれにしろ、簡単に語ることは難しい、と言っているわけであろう。
ところで、科学哲学ということでは、つい最近、戸田山和久科学的実在論を擁護する』という本を読んだのだが、この「あとがき」を読むと、雑誌ラチオというムック本で、5回ほど、掲題の著者と、この方がメールでの往復書簡が掲載されているのだが、実際にこれを見ると、見事にこの本と扱われている主題が重なっている。ということは、逆に言えば、その本は、この往復書簡の内容を理解するための「解説本」のような感じになっている。
それで、この往復書簡であるが、最後の方で、伊勢田さんは戸田山さんに、ある「懸念」をされる場面がある。

第五信 差出人:伊勢田哲治
(中略)
さて、その論点よりも気になったのが、「問題になっているのは、科学者が主観的に重力レンズ現象の実在にコミットしているかどうかではなく、そのコミットメントが正当化できるか、あるいは合理的か、という論点だということには同意できます」と戸田山さんが言ったことです。そこをゆずってしまうと自然主義者としての立脚点がゆらいでしまうのではないかと心配です。

別冊「本」ラチオ 〇五号

別冊「本」ラチオ 〇五号

これに対する戸田山さんの応答は、確かに伊勢田さんの意図した内容ではあったわけだが、ちょっと気になる含意を含んでいるものとなっている。

第六信 差出人:戸田山和人
(中略)
伊勢田さんは、私が現場の科学者の態度を尊重すべきだと考える自然主義的立場を標榜しているので、戸田山は第一級の理論物理学者が存在論的にコミットしているんだからそれを重視すべきだと言わなくてはならない、とお考えなのでしょう。しかし、いまの時点で『異次元は存在する』というタイトルをつけたとしたら、それはいかがなものか、という判断は大方の科学者の判断と一致しているように想います。まだ、「決定的な証拠をつかんだわけではない」というのが穏当な態度でしょう。哲学者だけがそれに警告を発する立場にあるわけではないと思います。ランドールさんは少し言いすぎだ、と多くの科学者は考えていると思います。
別冊「本」ラチオ 〇五号

この戸田山さんの発言の何が気になるのか? それは、「自然主義」という立場の問題が、現場の科学者の態度の「尊重」と重ねて議論されていることで、よって、伊勢田さんは最後で次のようなコメントをせざるをえなくなる。

第七信 差出人:伊勢田哲治
しかしたしかに、大筋では戸田山さんの言うとおり、物理学者コミュニティ全体としてはそういう行き過ぎに対して否定的だと思います。わたしも物理学のコミュニティが何と言っているかということは当然尊重すべきだと思います(物理学については素人ですから彼らの判断ぬきに自分だけで判断を下すということはありえません)。ただ、与えられた情報の範囲で、哲学者としての自分の判断規準はそれとは別にとっておきたいし、その結果として、場合によっては「経験論的哲学の好みに合わせて科学者の判断の方を裁断する」場合や、「大方の科学者」の判断に異議を唱える場合もありうるだろう、と考えています。
別冊「本」ラチオ 〇五号

ようするに、戸田山さんの言う「科学哲学」は、一種の「神学」または「御用学者」なんじゃないのか、といった印象を受けてしまう。科学とはなんなのか、といった「問い」が、科学コミュニティ全体の「判断」に、いわば

  • よりそって

語るという態度を「自然主義」と言うなら、それは本当に科学を「対象」化できているのか、がよく分からなくなってしまう。つまり、なぜ伊勢田さんが過剰なまでに

  • 合理化

という言葉にこだわったのかが、あまり真剣に受けとめられていない。
科学というのは、経済における「イノベーション」に似ていて、イノベーションは「今」はないわけで、それは「未来」に実現されるのだから、そのイノベーションとはなにかと問うことが、あまり意味がないわけである。それがなにになるのかは今は分からないのに、それがなんなのか(科学とはなにか)を語ることができるのか、といったパラドックスがある。
そうした場合に、科学コミュニティに「よりそう」と言ってしまうと、結局のところ、機会原因論的に今ある「現実」を「合理化」するだけにならないのか、といった疑問から、伊勢田さんはその「外」から批判できる「規範」を自らの哲学というフィールドに見出そうとする。
例えば、複素平面を考えてみるよう。言うまでもなく、私たちが今いる世界は三次元の実空間なのだから、複素数で現される「場所」をもたない。しかし、いざこの自然界を数式で現そうとすると、当たり前のように複素数表示が利用されるわけで、ということは、この自然界の現象は、この複素平面と実線との「境界線」が現れるのだろうということになり、事実、その数学表現に従うと、なにもないところから突然、なにかが現れる(複素平面と実線が交叉する)というふうに見えたりする。
ここで問題にしている「異次元」もそうで、なんらかの物理理論を「統合」しようとするとき、それを高次の次元の現象の特殊化として、つまり、その両方が矛盾なく共存可能な高次の次元での現象として、正当化しようといった態度は数学ではいかにも「自然」なわけだが、そこでの問題が、「決定的な証拠」というのは、実際にこういった数学理論が仮説として提案されていく科学の営みにおいて、その一つ一つの理論が結局のところなんなのかを、この科学の営みの中でしか判断できない、と言っているようにも聞こえるわけで、もっと言えば、科学者たちの「権威」に依存してしか、なにがしかの結果を導けないというのは、どこか宗教における教義の「権威」化と、どこまで違うのだろう、といった印象を受けなくもない。
私が言いたかったのは、ここでの「決定的な証拠」という表現が、なぜ、その数学理論「そのもの」として理解されないのか、というところだったわけで、その数学理論が、ある意味での、この世界の提示そのものを意味しているとも受け取られるわけで、なぜそれだけでは十分ではない、と言うのか。そのことは、量子力学において、数式化された予言があたること、そのものが、その世界そのものと、なぜ受けとってはならないのか、ということにも関係している。
この往復書簡は、戸田山さんの『科学哲学という冒険』という本に、伊勢田さんがもの申すという形で始まっていると思うのだが、こうやって、掲題の本を読んだ後に見てみると、勝手に、伊勢田さんの姿勢の中に、「疑似科学」との自らの格闘の痕跡を含んでいるんじゃないのか、と読み込んでしまう。つまり、戸田山さんがここで「科学」と言うときに、どこまで、この「疑似科学」の問題が意識されていたのか。ただ、『科学的実在論を擁護する』を読むと、それなりに「論争」的になっていて、これを書かれる段階では、この差異に、ある程度の配慮が必要だ、といった意識はあったのではないだろうか。
私が掲題の本を読んで、少し気になったのは、以下のような表現があることであった。

「疑似」という言葉はそれ自体で否定的な評価を含むし、「疑似科学」という言葉が喧嘩を売るために使われることも多い。しかし本書の目的はある種の分野の実践について否定的評価を行うこと自体にあるわけではない。

つまり、この本はどこか、例えば、物理学者の菊池誠が言っていたような「ニセ科学批判」に対して批判的な視点を含んでいるのではないのか、といった印象を受けるわけである。ここのところの、週刊文春の記事から、荻上チキがシノドスの編集を辞めたり、「fact check 福島」での謝罪文との関連で、こういった問題の本質は、すでに、この「エセ科学批判」なるものが、3・11以前から内包していた問題だったのではないのか、というクリエネさんの指摘は私には、上記の文脈にも関連して思うわけである。

ポスト311の「ニセ科学批判」をそれ以前の従来の擬似科学批判と切断するのには違和感を覚える。菊池誠教授はつなぎ目なしにやっているつもりだろうし、従来の擬似科学批判(少なくともと学会の流れをくむ日本のニセ科学批判)にも権威におもねる性質はあった。

ポスト311の「ニセ科学批判」というのは、従来の疑似科学批判とはまったく異なるもので、科学技術への違和感という分散したナニカたちから「(言説としての)ファクト=ニセ科学」なる「叩き先」をくくり だして、それを一斉に叩く(チェックする)というヴィジランテ(自警団)型運動です。
@sakinotk 2018/04/06 03:52

@morecleanenergy 2018/04/06 23:11

(Fact Check福島や開沼への批判が広がっているようだが、きっかけのひとつに文春の不倫記事あるらしく、微妙な気持ちになっている)
@morecleanenergy 2018/04/07 09:20

菊池誠教授の「福島差別」なる言動がめちゃくちゃだったのは「フクシマ」表記への嫌悪や自主避難者への中傷から始まっているので、五年前には顕著になっていたのに、辛氏への中傷があってやっと可視化されたというのも微妙な気持ちになる)
@morecleanenergy 2018/04/07 09:23

例えば、掲題の本では以下のようなコメントがある。

これは結局、われわれは科学とは何かをなぜ知りたいのか、という非常に根本的な問題に関わってくる。

これは、「疑似科学」と「科学」の差異と言うときに、そもそも、なぜ私たちは科学とは何かを「知りたいのか」、つまり、なぜ「科学とは何か」と問うのか、ということの

  • 動機

が問われないことこそが不思議に思えてくるわけである。なぜ、そんな「問い」を行うのか? このことは、戸田山さんのような立場からは、「科学」という、あまりにも自明なものが「ある」ことは当たり前なものとしてとらえられるわけだが、伊勢田さんの視点からすると、この問いは「疑似科学」との緊張関係において「科学」が意識されるため、そんなに自明として軽視できない。
私が、菊池誠教授の「ニセ科学批判」という表現に違和感を覚えたのは、むしろ、3・11以前からの、水俣病問題などにおける彼の、どこか被害者に対する嘲笑にも似た国側の姿勢を擁護するかのような発言に、3・11以降につながる問題の萌芽を感じたからなわけであるが、上記の問題とまったく同じような文脈を感じるわけで、

  • ニセ科学批判」と、最初から「ニセ」という形で侮蔑的なレッテルを貼って「喧嘩を売って」いる
  • 戸田山さんの姿勢と似てくるわけで、結局、科学コミュニティの「権威」を重視するということは、3・11で言えば、御用学者の「権威」を重視した形で、彼らの姿勢を「合理化」し、それを「権威」としてふりかざす

という形になるわけで、そもそもなぜ「科学」を定義したがるのか(「ニセ科学」を定義したがるのか)といった「動機」自体のいかがわしさが、どうしても気になってくるわけである...。

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学