河野裕『夜空の呪いに色はない』

私が「身体論」を疑うようになったのは、それを一見

  • 理論の<外>

であるかのように語る「しぐさ」が疑わしいと思うようになったから、と言ってもいいだろう。つまり、これは一種の「ロマン主義」なのだ、と考えるようになった。このことは、今の歴史修正主義者が「江戸しぐさ」なるものを捏造するのと、まったく同じ意味で、

が捏造されたのだと思っている。それは、「根拠の不在を根拠にする」という「思弁」性が

  • 無敵

だ(まあ、厨二病的な意味で「ボクノサイキョウノぽすともだん」)になっちゃうんだよね。このことは、ドナルド・デイヴィドソンの』合理性の問題』のメインテーマだと言ってもいいのかもしれない。つまり、そんなに簡単に

  • 理論の<外>

なんて考えちゃいけないわけだ。だって「合理性」とは、そういうことなのだから。ある「理論」は、そもそも、さまざまな「合理性」が強いる試行錯誤(=プラグマティズム)が「生成」する何かに過ぎず、たとえその萌芽的な段階のものが、ベイズ統計学的な意味で「頼りない」曖昧さでしかないとしても、この「継続」性は、結局はあなどれない、ということなんだよね。
理論はアプリオリに理論なのではなく、経験的に理論に「なっていく」のであって、そうであるなら、簡単に「理論の外」とか言ってはならない。私たちが、なんとなく身の回りの「身体論」的な題材に対して、「理論の外」という直観を感じたとしても、なぜそれが自分には、理論の外に「感じ」られるのかを問うた方がいい。そうした場合、それを理論化することの

にこそ、本質がある、ということは往々にしてあるわけで、つまりは、そんなものを理論とすることに、それほどの有益性がないから、多くの場合、取り組まれていない、と考える方が本質的だ、というわけである(この辺りは、文系のロマンティシズムに強くその影響が遺っている印象を受ける)。

「堀さんはどうして、向こうを現実って呼ぶの?」
堀は足を止めて、振り返った。え? と小さな声を漏らす。
それに合わせて、真辺も立ち止まる。
「みんな、ここが現実ではない場所みたいに扱う。私もずっと、そんな風に思い込んでいた。でも、それって変じゃない? 階段島が現実ではない理由はなに?」

この「現実」という言葉もそうだ。現実とは、ようするに「実存主義」のことだ。実存主義が寄って立つ基盤のことだ。しかし、現実とはようするに

  • 理論の外

を言っているにすぎない。理論の網をすりぬける、自らが抗いがたく実感せずにいられないリアリティを言っているに過ぎず、ようするにそれは、理論との「差分」を、私たちはわざわざ

  • 現実

という便利な言葉で指示しているに過ぎないのだ。そりゃあ、どんなにドナルド・デイヴィッドソン的な意味での「合理性」を徹底しても、この「差異」が完全に埋まることはないでしょうけど、そのことと、個々具体的な違和感が理論に包含されるかどうかは、まったく別の話なわけである。

「どうして、変えられないの?」
自分の一部を捨てているのに。
そんな、あからさまな変化があるのに、どうして。
「ただ手放しているから」
彼女は言った。
「本当に変わりたければ、捨てちゃいけないんだよ。重たいものの中身をきちんと理解して、はっきり否定しないといけないんだよ。でも魔法は、その手順を飛ばす。魔法は私たちを変えるんじゃなくて、むしろ反対で、変わる機会を奪ってるんだよ」

今回のこの巻における、真辺の主張は、どこかヘーゲル的な弁証法を思わせる。自分が変わるとは、ヘーゲルで言えば、アウフヘーベンのことであって、そこには「否定」の契機がなければならない。つまり、たんに「捨てる」ことは、自らが変わることとは本質的に異なる性質のものなのだ、と言っている。つまり、人間は「捨てる」ことでは

  • 変わらない

と言っているわけである。

「それを勝手だって言うのも、勝手だよ」
と彼女は言った。
「同じ場所で一緒に生きているのに、なのになんの影響も受けたくないなんて言うのも、充分に勝手だよ。独りきりで幸せになれるつもりなの? 誰にも頼らず、なんでも解決できると重ってるの? もし本当にそうだたとしても、それを信じていることがもう、けっきょく身勝手なんだよ」

ポストモダンしぐさ」はよく「共感」という言葉を使う。しかし、この言葉に本質的に欠けているのは「コミットメント」だ。浅田彰は、逃走論で、その表象をひたすら「戯れ」て、ただただ、知の隙間を次々と往還していくだけの、そういった「倫理」を主張したわけだが、これを「ポストモダンしぐさ」は応用する。つまり、ここで言う「共感」は、まさに、テレビの向こうの、飢えて死にそうなアフリカの子どもに「共感」すると言っている、といった態度に似ているわけで、しかし、そう思うことと、実際に、そのテレビの向こうにいる、アフリカの子どもたちの実際の生活にコミットメントをすることとは、意味が違うわけである。
大事なことは、そこに「共感」をしようが、しなかろうが、実際に「コミットメント」をする、ということにある。そして、コミットメントをするには、言うまでもなく、その戦略、つまり、理論を伴わなければ実効的な効果は得られない。もちろん、そうしたからといって、常に状況は良くなるとは限らない。むしろ、その程度のコミットメントは雀の涙程度なのであろう。しかし、このことは反語的に語ることができる。いや、今、この同じ世界に生きているということ、そのこと自体において、すでに、なんらかの「コミットメント」をしているんじゃないのか。まったく無関係だとは言えないんじゃないのか。そうであるなら、なぜ「関係ない」などと思えるだろうか。このことは、もっと一般化できて、どんな身の回りの人にだって言える。少なからず、なんらかの迷惑をかけているし、なんらかの利益を受けている。もうその時点で、

  • 他人とは関係のない孤立ポイント

として自分を考えるということ自体が、どこか傲慢なのだろう...。

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

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