偶像崇拝は「幼児虐待」か?

この前紹介した、北原さんと香山さんの『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』は、北原さんのフェミニストとしての、かなり攻撃的なオタク否定の姿勢もあり、いろいろと考えさせられるものがある。
この本は、確かに、ここでの主張の「オタク」は、必ずしも、漫画やアニメを中心とした、いわゆる「二次元」にあるわけではない。しかし、その

  • 視線

の範囲においては、むしろ、その「差異」はまったく想定されていない、と考えるべきだ、と思われる。つまり、「三次元」の、この現実において行われている、さまざまな「性差別」や「幼児虐待」の延長にそういった「二次元」があるのであって、この二つを分けるという作法を疑っているわけである。

北原 (中略)たとえば「129センチ、37キロ」といった女の子のサイズがAVのタイトルになり、ランドセルを背負った裸の女性のセックスシーンが娯楽として流通する現実があります。そのような欲望を社会が「表現の自由」一点で肯定することで、損なわれる。、または犠牲になっているものは何かを考えているのがフェミニストだと思いたいんですよね。
「129センチ、37キロ」の下に何が書いてあるかというと、「18歳」とか年齢が書いてあるんですよね。つまり、「これは合法ですよ」という暗号として、ファンタジーとしてのロリコン。もちろん、129センチ、37キロの小学生が実際にAVに出ているわけではありません。こういう作品が秋葉原行くと、1階でアイドルグッズ売っているような普通に入れる路面店で売られていたりする。

その通りだと思います。当時フィリピンで売春していた女性たちがどういう背景で暮らしていたのかとか、今アニメの被害者はいないと言われていますが、一方で幼女に扮した18歳以上の女の子のAVとか、少し前まで秋葉原で行われていたような大人の男たちに囲まれる幼女の着エロの撮影会とか。
性暴力は、その時は言葉にできない。だけれど、忘れられない。将来、女の子たちが「あの撮影会は何だったんだろう」と考えた時の気持ち悪さとか、その時の体験をどう言語化するのかといった、声なき声に耳を澄まさなければならない。経済発展とかクールジャパンとかお墨付きを与えるものの対象が、既に男側の欲望なんですよね。
それに対して、いい加減にしてくれよという、それこそカウンターカルチャーであり、フェミニズムなんです。
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する

北原さんは基本的に性の問題は「個人」の問題であり、他人がどうこう言うべき話ではないとしながら、こと

  • 幼児虐待

に対しては、その差異を乗り越える。これだけは「絶対悪」であって、その延長において、漫画やアニメといった「二次元」も当然、その非難をまぬがれない。

北原 嬉しい傾向ですよね。男のズリネタとかを後世大事に皆が守る時代なんてムンザリです。私の姪っ子が7歳なんですが、コンビニに一緒に行ってあのエロ本売り場の前を通らなくちゃいけない状況って辛いんです。自分も通ってきた道なんですが、でもやっぱり嫌だったし、嫌だって言うのにずいぶん時間がかかりました。
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する

子どもの心が「傷つく」のである限り、なぜそのようなものが「放置」されているのか、そのことが「許せない」と言っているわけである。

北原 ふるさと納税PR動画で話題になった「うな子」は衝撃でした。スクール水着姿の女性をプールの中で「育てる」物語で、彼女はウナギ。ナレーションでしか登場しない男の視線の中、ぬるぬるとペットボトルを上下にさすったり、無邪気にフラフープをして腰を回したりと性的に見られる振る舞いを繰り返す。そして成長したうな子はウナギの姿になって飛び出していくのだけど、その後すぐに「養って」と新しいスクール水着を着た女の子がプールに登場するというストーリー。
でも、うな子を性差別だと捉えない人も少なくありませんでしたね。
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する

北原 中村うさぎさんが「うな子が男だったらフェミニストはどう反応するんだ」というようなこと行ってましたね。そういうこと言われる人いますが、あまり意味のない議論だと思いました。「少女の水着姿」という記号がさんざんエロとして消費されていて、女の子が実際に拉致や暴力の被害者となっている現実を踏まえた上での公儀だから。こういう時、自分が感じられない痛みならスルーすればいいだけなのに、「うな子が男でも同じように怒るのか」と、怒る人を嘲笑し挑発せずにはいられない人が多いことにも驚きます。叩く相手が女でフェミだと、、はりきる人も多いし。
そもそも、差別問題って、加害者と被害者を単純に入れ替えられないからこそ問題なんですけどね。
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する

ようするに、日本の男向けの漫画やアニメの「二次元」は、本質的に、

  • 幼児虐待

を内包している、と主張している。それは、ストーリーの「設定」上の「年齢」に関係なく、登場人物が「幼女」化されており、そしてその「幼女」は、

  • 性的対象

として、男たちが「愛でる」対象として、描かれている、と。
しかし、である。
もしもそう言うのなら、私などは思うわけである。それを免れたものなど、ありうるのだろうか、と。男が描いた「絵」には、本質的に「幼女」を性的対象として愛でようとすることを「意図」した、なんらかの「イコン」を含んでいるはずだ、と言うわけであるから、この「フレーム」をまぬがれたコンテンツというのは、そもそものその

  • 定義上

ありえないのではないか、と思われるわけである。
北原さんは、たんにこの日本の幼児虐待を必然的に包含する、オタク・コンテンツを

  • 少なく

することを「目標」にしているわけではない。それだけではなく、その結果であれなんであれ、

  • 男の「性欲」を少なくする

ことこそを「最終目標」とする。男の「性欲」が必然的に、幼女虐待という「人権問題」を招来するのなら、これを、この社会から

  • なくさなければならない

なくさなければ、この問題は決して終わることはない、となるわけである。
こういった姿勢で、私に非常に馴染みに思われるものこそ、

である。この未来を舞台にした作品において、日本人の「家畜人」は、成長のかなり早い段階で、「脳の手術」を受け、

  • バカ

になる。この作品を読む私たちは、「なんて未来は残酷なのだ」と思うかもしれない。しかし、これを主張しているのこそ、フェミニストなのではないか? 男の「幼女虐待」を「欲望」する業は、そんなに簡単に取り払えるわけがない。だったら、

  • 脳の手術

をして、その機能を「破壊」するしかないのではないか? そうしなければ、「女性たちとの<共存>」は難しいのではないか?
しかし、それはいわゆる「奴隷」を意味しない。なぜなら、その手術は男が「主体的」に

  • 選択

する、という形で進むからだ。男は自らの肉体的な「限界」に気付くことで、そういった「制約」を受け入れることになる。女が「受容可能」な存在となるために、自らに「十字架」を化すのだ。
さて。これはどういったものであろう? 北原さんも「セックスは楽しいもの」と言っているように、彼女たちフェミニストは必ずしも、「性欲」のない世界を夢見ているわけではない。男たちは、その女が、その男を「愛している」限りにおいて、全身全霊の奉仕を行う。それは、その男が「そうしたい」と選ぶ「自由」だ、と言うわけである。
男は、その自らが「愛した」パートナーにしか見向きもしない。ところが、その自らが「愛した」パートナーに対して「だけ」は、もんもんとした性欲を常にたぎらしていて、その女にとっての「セックスは楽しいもの」に

  • 相応わしい

「活躍」を前時代の「英雄」たちのように繰り広げる。私にはそれは、なんらかの意味の「去勢」にしか見えないとしても、とにかくもそれを、その男が「選ぶ(=自由)」という形で行われる。
それは、一昔前には、子どもはだれもが「通過儀礼」を経て、一人前の社会人として社会に迎えられたように、

  • バカになる手術

を自らの「意志」で選択するという形によって、その「男」を社会が「受け入れる」というわけである。
例えば、このイメージは私には、伊藤計劃の『ハーモニー』を思い出させる。この作品の最後において、私たち人間は「意識」のない世界へと移行する。しかし、それはなんだったのか? ミャハが夢見た「世界」は、当然において、彼女が幼少の頃に受けた

  • 幼児虐待

への「復讐」を包含したものでなければならなかった。つまり、そのことは、

  • 男の性欲が「去勢」された世界

のことを言っていたのではないのか? 「意識」を失った人間とは、そもそも「性欲」を「去勢」された「男」を意味していたのではないのか?
少し話がそれてしまった。漫画やアニメといった「オタク・コンテンツ」が示しているものが、幼児性愛といった「幼児虐待」だというなら、そもそも、私たち大人が想像する人間関係は、こういった

にすでに「汚染」されている、となぜ言えないだろう? お前が好きになるボーイフレンドは、なぜだか、目ん玉が丸っとして、二重で、口元がすぼまっていて、それこそ「子ども」の特徴だったのではないのか?
学校のクラスで一番のハンサムや美人は、そもそも「子ども」の特徴を多分に帯びた姿態を見せていなかったか? もっと言えば、アメリカの在野の評論家であった、エリック・ホッファーがそうであったように、一切の

を忌避する「生き方」以外のそういった「醜さ」を免れる手段はないわけである(彼は本の挿絵でさえ、一切の絵を嫌ったわけで、そのことも、彼が幼少時代に目が見えなかった、ということが関係していたのであろうが)。このように考えたとき、おそらく未来の人間は

  • 目が見えなくなる

のではないだろうか。それは、上記の文脈を考えてみても、一切の「幼児虐待」は、視覚に関係して行われているわけで、家畜人ヤプーがそうであったように、伊藤計劃の『ハーモニー』の示した「意識」のない社会がそうであったように、男たちは、その女への「欲望」の忌避を

  • 視覚を捨てる

ことによって実現する。しかし、その場合に、男はいわば「なにも見えなくなる」わけではない。なんらかの「三次元的情報」は「見る」わけで、それが今までの男たちが「表象」として「欲望」してきた「コンテンツ」とは似ても似つかない「数学的情報」でしかなくなる、ということを意味する。
しかし、このように考えてきたとき、河野裕の<階段>シリーズにおける「階段島」とは、このような「なにか」を捨てた人間の、その捨てた側の「人格」が生きる場所であったことが、多くを示唆しているように思われる。
真辺がそこで言っていたように、「捨てる」ことは変わることではない。なぜなら、捨てるとは「先延ばしにする」ことを意味しているにすぎないのであり、変わるにはどうしても

  • 否定

という契機を経る必要がある。つまり、私はここまで議論をしてきて、また、議論を振り出しにしてしまうことを言っている。例えば、脳の出血による病気を考えてみよう。蜘蛛膜下出血を始めとして、若い人においても、決して他人事とは言えないくらいに、一般的な病気となった。脳の血管がやぶれ、脳の中に血があふれ、脳を破壊していく。ここにおいて、多くの脳の細胞は破壊され、二度と戻ることはない。人々は、この段階において、二度と以前のような生活を送ることはできない。意識を戻すことも、往々に難しく、はて。その人は、それでも生きている、と言えるのだろうか? 確かに生きている。心臓が動いているとか、そういう意味でなら。しかし、すでに、体のさまざな器官は、その脳の破壊によって、うまく動かず、おそらくは食事も、自分ではできないであろう。それどころか、病気の初期の段階においては、ただひたすら、献血によって命を繋ぐことしかできない。より重症であれば、酸素マスクなしでは命をつなげない体になる。さて。こんな状態で、私たちは「生きている」と言っていいのだろうか?
生前の「常識」においては、生きるとは、自らで箸をもち、食料を口からかきこみ、トイレに排泄に行き、そうすることと「区別」をすることの難しい「所作」と区別のできないものとして「生きる」ということが考えられていた。しかし、こういった病気にひとたび見舞われるやいなや、こういった一切の「常識」は成立しなくなる。人間は「人間でない」なにかになりながら、さらにその先に「生きよう」とする。なんのために? なにを求めて?
しかし、これこそまさに、伊藤計劃が『ハーモニー』で描いた「意識」のない社会なのではないか? ということは、これこそ、家畜人ヤプーの、手術によって、頭を悪くした、家畜人としての「日本人」であり、上記の文脈における、フェミニストによって去勢させられた男たちの「未来」の姿なわけであろう。彼らは「捨てる」。しかし、それは結局は「変わる」ということではない。変わるというには、あまりに不十分であるというなら、では、真辺の言うこの場合の

  • 否定

とはなにになるのだろうか? 私はもう少し、こういったものの「オールタナティブ」、というか、その中間のあたりについてもう少し考えてみらいわけである...。