なぜ無印ラブライブが重要なのか?

今週の日曜に、渋谷で映画「ジェイン・ジェイコブズ」を見て、昨日、岩波ホールで映画「マルクス・エンゲルス」を見たのだが、両方について思ったことは、男女を問わず、比較的若い人たちが見に来ていたことだ。
映画「ジェイン・ジェイコブズ」は、言わずと知れた、彼女の都市開発に反対する彼女の市民運動が、最終的には成功してきた歴史を描くもので、たんに痛快せあるだけでなく、彼女の主張には一定の理があったことが、映画を見る人に伝わるように作られていた。
映画でだれかが、彼女がもしもいなかったら、ニューヨークは「退屈」な街になっていただろう、とつぶやいていたが、都市の自然成長性がいかに重要であるか、こういったものを破壊し、人工的な都市設計が都市の命を奪うのかを、見る人によく分かるように描かれている。
大事なことは、多くの人々がストリートにあふれ出し、それにあふれた形で、「みんな」が人々と

  • 近い

状態にあることが、この関係が重要であることが、映像を眺めることによって分かるようになっていたことであろう。
近年、日本においても、80年代に大量に作られた、ニュータウンの廃墟化が問題になっているが、ああいった

  • 人と人の距離を広げてしまう

都市設計は、人間の生活する空間を奪って、疎外してしまう。そう考えれば、ジェイン・ジェイコブズが「ニュータウン」的なものと戦っていたことが、なぜか日本の知識人においては無視されてきたことの異常さが、よく示されていたのではないか。
他方、映画「マルクス・エンゲルス」は二人の「若い」頃の姿がとても生き生きと描かれていて、大きな刺激を受けた。
この二つの高尚な映画の後に、無印ラブライブなどという日本の萌えアニメについて語ることは、少し気が引けるわけだが、私はアニメ「無印ラブライブ」は、上記の二つにも通じるような、ある種の

  • 左翼運動

を描いていた、と考えるわけであるから、まあ、まったく関係ないと私が考えているわけではない、ということはご理解いただけるのではないか。
ただし、ここで、ラブライブについて説明していくにあたって、少し、この関係を整理していかないと、なかなかその全貌を理解いただけない、という問題があることを断っておかなければならない。
ウィキペディアでも注意されているように、幾つかのカテゴリーを知っておく必要がある:

  • 第1期シリーズ ... 無印ラブライヴ
  • 第2期シリーズ ... ラブライヴ・サンシャイン

そして、もう一つ理解しておく必要のあるカテゴリーが、これが「オールメディア・プロジェクト」と呼ばれていたことである:

  • 原作(小説・漫画版)
  • ボイスドラマ
  • テレビアニメ・映画
  • スクフェス
  • ぷちぐる

また、これをユニット単位で整理すると:

  • ミューズ
  • アクア
  • 虹ヵ咲スクールアイドル同好会

無印ラブライヴを中心にとして、オールメディア・プロジェクトを分析すると:

この諸関係を考える上で、一番の基本になるのは、この無印ラブライヴというプロジェクトが発表になってから、テレビアニメが始まるまでに、2年近くの「黎明期」とよばれる時期があることである。
つまり、最初に発表されたのは、ミューズの9人のメンバーの、アニメで言うところの「キャラクターデザイン」であり、そのすぐ後に、その9人の「声優」が発表され、最初のシングルCDが発売されるわけだが、そこから2年後に放送されるテレビアニメのストーリーとまったく別物の、漫画や小説がいわば平行的に発表されるし、ドラマCDでのショートストーリーも数々作られるが、それも、2年後のテレビ版との同期はとられていない。
つまり、大事なポイントはこの無印の黎明期においては、そもそもこのプロジェクトが、この先どういったものにしていこうか、といった青写真が最初からあったわけではない、というところにある。それを最もよく表しているのが、ミューズの9人の声優のオーディションの段階では、まだ、「ダンス」が要求されていなかったことで、ところが、彼女たちの活動の中心は、ライブでのアイドル・パフォーマンスとなっていったことにあるわけで、この「無茶ぶり」感が無印の印象を決定的にしている(この事情は、例えば、WEBラジオ「にこりんぱな」がCDとして発売されているが、その中で、その3人が、いかにライブのためのダンス・レッスンが当時の活動の「中心」だったのかを、何度も苦労も合わせながら語っていることが象徴している)。
(サンシャインのオーディションでは、千人から行われたそうであるが、言うまでもなく「ダンス」が必須となっている。)
あと、もう一つ余談をはさませてもらうと、アニメ「サンシャイン」の評価についてである。私が、こちらはあまりうまくいっていないと思う理由は、一つは、ストーリー展開上の関係で、無印ラブライブでのミューズを、ラブライブという高校生アイドルの競技会の「先輩」としてしまったために、絶えず、その「比較」につきまとわれてしまったことにあるように思われる。もう一つは、テレビ2期の前半で、学校の廃校(つまり、統廃合されること)が決まってしまうわけだが、しかし、その直後からアクアのアイドル活動は「前向き」に描かれる。しかし、普通に見ている人は、だったら彼女たちは、そこまでしてアイドル活動にこだわる理由があったのか、といった疑問が浮かんだはずであろう。大事なポイントは、サンシャインの舞台は東京ではなく、「地方」色を濃くしたことによって、「地方の事情」という別のファクターが関係してしまったことで、単純な無印との比較ができなくなっていたことに関係している。ようするに、地方の学校のクラスの減少や統廃合は、少子化も関係した、地方独特の傾向性があるわけで、ある意味、それによって一つのクラスの人数が20人近くの「理想的」な状態になっている、といったこともあるわけで一概に語れないわけである。
さて、ここからなぜアニメ「無印ラブライブ」が、ある意味における「左翼運動」なのか、ということなのだが、それは第一話で穂乃果がアイドル活動を決意するまでの描かれ方において、母親が同じ学校の卒業生であり、その卒業アルバムを見ていた場面が象徴していたように(母親はどうも生徒会長だったようで、2期で穂乃果が生徒会長になる伏線にもなっている)、これは

に関係して描かれたことにある。そもそも学校が子どもたちが教育を受ける「権利」に関係している。よって、簡単に学校が廃校にさせられるなどという暴挙を許してはいけないわけである。学校はたんに、所有者たちの「金儲け」のためだけの組織ではない。これは「公共」の存在であり、すでに、子どもたちは

  • 当事者

なのだ。よって、この学校を廃校にするかどうかも、子どもたちの「選択」に関係して行われなければならない。この状況は、上記で紹介した、映画「ジェイン・ジェイコブズ」で彼女が、身近な公園の真ん中を高速道路が通ることで、地域社会が破壊されることに「戦った」ことと、まったく同じ「左翼運動」の動機づけが見られるわけである。
そして、この「左翼運動」を非常に印象的にしているものに、第三話での最初の彼女たちのライブが、「まったく観客が集まわなかった」ことから始まっていることが、そもそもの「左翼運動」の本質をあらわしている。なぜなら、左翼運動は「正義」の運動なのだから、そもそも最初から人々がその意味を理解していたなら、こんな問題にはなっていないわけである。

  • だれもその意味を分かっていない

から、今ここまで問題は深刻化している。つまり、本質的に左翼運動はその黎明期においては、認知度が低いのだ。
では、次のような問題をどう考えたらいいだろう? 確かに、アニメ「無印ラブライブ」は、廃校をめぐる戦いのストーリーだった。しかし、だとするなら、シリーズ1期の後半には、廃校は回避されることが決定したわけで、その後のラブライブに出場するというくだりは蛇足ではないのか、と。
こいうった意図で説明するなら、それを象徴しているのは3年生の卒業と共に、ミューズの解散が決まり、事実上のアニメシリーズが終わった、というところが象徴している。対して、上記の蛇足問題は、シリーズ2期の第一話で、また穂乃果がラブライブ出場を目指すことを決意する経緯がよく表している。つまり、必ずしも穂乃果はラブライブにこだわっていなかった。それがなぜ変わったのかといえば、3年組の卒業が意識されたから、ということになる。つまり、この9人がそろって学園活動を行えるモラトリアムの終わりが意識されたことで、彼女の視線が社会問題から、身近な自分たちの「倫理」に変わったことを意味している。
確かにシリーズ2期は、どこか「目標」が見出しづらいストーリーが続くわけで、評価が難しい印象を受ける。しかし、そもそもこれは、描かれなければならなかった「サイドストーリー」と考えれば、その意義は十分に思える。実際、シリーズ1期は、メンバー集めから、かけ足で、廃校阻止までが描かれることで、この戦いに関わってくれた

  • 個々のメンバー

への視線が弱い印象を受ける。左翼運動は確かに社会運動だが、そこには血の通った一人一人の人間がいるのであって、彼女たちには彼女たちのストーリーがあるわけである。社会問題と実存問題は、二つが常に重なって人間社会を形成する。そのどちらか一つを軽視することもできないのだ(例えば、矢沢にこの家族関係が描かれるのも、シリーズ2期なのであって、これは必要なくだりだったわけである)。
最後に、どうしても言っておかなければならないと思うのが、WEBラジオ「にこりんぱな」の存在ではないか、と思っている。
これは、ミューズのメンバーの三人である、矢澤にこ星空凛小泉花陽の、それぞれの声優が、まあ、一応はラブライブの「広報」的な意味での宣伝ということで、WEBラジオを隔週で30分くらい行うというものなわけだが、まあ、よくありがちなラジオ番組といった感じで、話す内容は、ずっと他愛のない、まったりとした内容という感じで進む。
この番組の刮目すべき特徴は、まあ、CDとして発売されているが、全98回にもおよぶ、というところにあるわけで、とにかく

  • 長い

わけである。ようするに、これだけ長くなると、言うまでもなく「ハイコンテクスト」な、まったり系を地で行くものとなるわけで、これこそ、いわゆる

  • 日常系

とアニメで呼ばれてきたような、例えば、アニメ「ゆゆ式」のような、独特の

  • 空間

が描かれることになる。というか、このラジオ「にこりんぱな」を「アニメ」にしてしまえば、立派な「日常系アニメ」なわけだw まあ、これでいいんだよな。
まあ、左翼的な闘争というのは、こういった「平和」な世界を実現するためのプラットフォームをめぐる闘争なのだから、まあ、その闘争で獲得した「平和」の暁には、こういった「まったり」した日常が獲得される、ということなんだと思うんですけどね...。