スピノザ主義者としてのカント

岩波ホールで見た映画「マルクス・エンゲルス」は、若い頃のマルクスエンゲルスを生き生きと描いていて、非常に刺激を受ける内容であった。いわゆる、現代思想的なことに興味のある人は、ぜひ、この映画を見てもらいたいと言いたい。
じゃあ、何がこの映画を重要だと思うのか、ということになるが、この若いマルクスが、まあ、見事に

  • 生意気(なまいき)

なわけであるw まあ、なんとも、こにくらしい。ようするに、どういうことかというと、若いマルクスは、いわゆる

  • 知識人(学者)

を馬鹿にしているわけです。なぜかというと、こういった学者たちは、官憲を怖がって、オブラートに包んでしか、ものを語れない。ようするに、彼らは

  • 御用学者

だ、とマルスクは言いたいのだ。
こういった雰囲気は、少し前の知識人には「常識」だったと思うのだが、ある時期から、忘却され、健忘症になっていったように思われる。最も分かりやすい例は、若い頃の柄谷行人と、今は亡き中上健次との関係が、どこか、この若いマルクスエンゲルスを思わせる。柄谷と中上の

なところの根底には、いわゆる「学者」たちが、象牙の塔で、

  • <どうでもいい>正しいこと

を死ぬまで語り続けている、その知識人の「非倫理性」を軽蔑する、という形で示されていた。そのことは、柄谷と中上が強くこだわった、彼らの上の世代にあたる、評論家の小林秀雄がそうだったわけで、「近代の超克」座談会における、並いる帝国大学の哲学者(哲学研究者)たちを前にして、小林秀雄が、文芸評論家の

  • 優位

を語ったのには、この映画における、マルクスエンゲルスの姿がどこか、オーバーラップさせられるものがある。
ようするに、多くの人が誤解をしているのは、若いマルクスの時代において、労働者の「人権」は、今と比べても、比較にならないほど劣悪だったわけであるが、この、どうしようもない無茶苦茶な世の中に、学者はなにをやっていたのか? みんな、官憲を怖がって、象牙の塔に籠って、社会に関わろうとしなかった。その非倫理性をマルクスは糾弾したのであって、学者が象牙の塔に籠って、

  • どうでもいい

真理とかいう、枝葉末節を云々している間に、この社会の多くの労働者は悲惨な運命を辿ろうとしている状況が、今、こうやって、目の前で演じられようとしているというのに、それに対して、なんのアクションもとらない知識人ってなんなんだろうね、って、痛烈に軽蔑をした、というわけなのである。
こういった批評のクリティカルな「倫理」性というのは、つい最近の日本には、まだあったと思うのだが、いつからか、次第になくなっていったんじゃないのか、と思っている。今の日本においては、学者はいわば

  • ヒーロー=アイドル

となっている。学者は「正しい」ことを言ってくれる人となり、つまりは

  • 馬鹿な素人を、マウンティングして、けしずみになるまで、ボコボコにしてくれる

という意味で、日頃うっぷんをためているネトウヨたちのストレスを発散してくれる、ポリコレ棒のような存在となってくる。
この状況を典型的に示しているのが、3・11における、低線量放射線被曝の問題における、いわゆる「ニセ科学批判」を主張する連中による、福島からの避難家族たちを「人格」批判し続けた、その醜悪な姿が、むしろ、そういったネトウヨたちによって、市民側のサヨクの「正義」を「科学」によって、ポリコレ棒よろしく、ボコボコにしてくれる、

  • スカっとさせてくれる

ストレス発散の「真実伝導者」といった形で、あがめたてまつられっていった姿が、典型的に示している。
ようするに、学者は

  • 正しい

ことを言ってくれる、という意味で、世の中の「正義」や「道徳」といった、「うさんくさい」ことを言ってくる連中を、僕たちのヒーローである「学者」が、「真実」によって、ポリコレ棒よろしく、徹底的に粉砕してくれる、といった意味で、拍手喝采したわけである。「正義」や「道徳」なんていったものは、物理学には存在しないのだから、つまりは、この世界に「正義」も「道徳」もない。そんなことを押しつけてくる連中は、

  • 真実

の名の下に、たんに「嘘つき」といったレッテルの下に、僕たちのヒーローの「学者」がボコボコに粉砕してくれる、と。つまり、学者とは、「正義」や「道徳」といった、

を「嘘」の一言で粉砕してくれる存在として、自分をスカッとさせてくれる、ストレス発散のアイドルとして、重宝がられるようになっていったわけで、まあ、現在の「サイコパス・ブームw」なるものを(果して、そんなものが、ほんとにあるのか皆目検討もつかないがw)象徴している、というわけなのであろう。
ところで、ここのところ、何回かとりあげている、柄谷行人による雑誌「群像」での連載エッセイ「探究3」についてであるが、ここおいて、彼の解釈する「カント」が通説がどういったものであれ

としてのカントである、といったことを宣言している。

カントについて、ある哲学者はライプニッツとの関連を指摘する。しかし、私の考えでは、カント自身がどう考えていようと、物自体と現象の区別は、スピノザによる観念と表象の区別に近い。さきにのべたように、スピノザは、一方で神=自然=世界が「観念」としてのみ把握されること、他方で、そうした自然のなかで受動的にある人間が生み出すものは「表象」でしかないことを主張する。いうならば、彼は、ハイデッガーとはまったく違った意味で、人間を「世界内存在」たらしめたのだ。そこから、「表象」への批判がもたらされる。いいかえれば、彼は、われわれが「認識」できないし超越できないような「世界」を設定することで、表象を批判しようとしたのである。経験論者あるいは素朴唯物論者のように感覚をもちだすことでは、表象を批判することができない。
柄谷行人「探究3」1・4)

確かに、カントをスピノザとの関連で語る人は、おそらく少ないのであろう。しかし、以下の事情を考えたとき、なぜ柄谷がカントをスピノザ主義者として語ろうとしているのか、その事情が分かってくる。
カントは、理念は「仮象」、つまり、推理であり、つまりは担保のない仮説にすぎなくても、それが

  • 統整的

に働く限りにおいて、肯定したわけであるが、よくよく考えてみると、こういった主張はどこかスピノザを思わせる。
なぜ「正しくない」のかもしれなくても、それが認められる場合があるのか? スピノザの宗教論でいえば、人格神などというものは存在しないが、大衆に語る上での「方便」として、つまり、彼らに迂遠な議論を受け入れさせることのムチャブリ感を考えてみるなら、もしも「人格神」という表象を使って彼らに語りかけることによって、その直感的な「分かりやすさ」が、より直接的に、なんらかの彼らの「倫理的」な行動や心もちに資するなら、それは肯定しうる、といった程度の意味だったわけであろう。
まあ、せんじつめれば、この地球上に住む人間という「共同体」が彼らの不道徳性によって、「滅びる」ことを避けるために、人々が助け合って、なんとかして生き続けさせることこそが、窮極の「目的」だと言ってしまうなら、なにが「真実」なのか、といった

  • 衒学的

な議論は、その相対的価値において低くなる、といった程度の意味だとも言えるのだろう。
そういう意味では、カントの批判哲学は、おそらくは根底から、今までの西洋形而上学が違っているのだろうが、問題はその「差異」をどのように考えるのかなのであろう。
例えば、カントは『プロレゴメナ』において、叡知界(ヌーメノン)について、以下のように説明している。

すでに哲学の最も古い時代から純粋理性の探求者たちは、感性界を構成する感性体あるいは現象[フェノーメナ]のほかに、さらに、悟性界を構成するはずの特別の悟性体[ヌーノナ]を考えてきた。
(カント「プロレゴメナ」)

世界の名著 39 カント (中公バックス)

世界の名著 39 カント (中公バックス)

叡知界とは、ようするに「自由」の領域である。スピノザは、この世界に自由はない、と言った。その意味は、私たちは自由があると思っているが、その自由だと思っていることは、あまりに原因が複雑すぎて、私たちには理解できていないもののことを言っているにすぎない、と解釈する。つまり、このことをスピノザ主義者として考えるなら、まったく上記における「人格神」と同様の話になるわけで、どんなに叡知界なる「形而上学」が、馬鹿馬鹿しい話にしか聞こえないとしても、それが大衆になんらかの「倫理的」な効果をもたらすものと解釈できるなら、その存在の意味がある、ということになる、と言っているわけで、そういう意味でカントは

だ、ということなのだろうが、あまりこういった文脈でものを考える(いわゆる、左翼なのだろうが)人は少なくなってきていて、まあ、「トンデモ」学会のようなものを、なんともニヒリスティックに、おもしろがることを「真実」だとか「科学的」だと、いきりたつ、どこかネトウヨ的な心性の人の方が多くなっている、ということなのであろう...。