ファースト・ガンダムにおけるセイラ問題

まあ、今さらのように、安彦先生による、アニメ「ガンダム・ジ・オリジン」の、ファースト・ガンダム前夜までが完成し、無事に劇場公開となったわけですけれど、そもそも、この漫画版の発表自体は、何年も前に終わっていて、言うまでもなく、単行本は何年も前に出版されているわけで、そう考えれば、なにを今さら、といった印象をもっているコアなファンというのは多いわけであろう。
そういった意味では、私のような

  • にわか

読者は、こうやってファースト・ガンダム前夜までを劇場でアニメ版を見て、いったん区切りがついたということで、この安彦先生の漫画版を読もうと思った区切りとしては、いい時期かなと考えて実際読んでみたわけだが、いや。なんというか、一気に読んだね。ほんと、時間を忘れて。なんというか、子どもの頃の、すごく細いファースト・ガンダムの「記憶」が、こうして今

  • つながった

といった感じで、なんとも言えない快感を感じながら。
まあ、言うまでもなく、子どもの頃なんて、なにも考えないで生きているわけで、ガンダムをテレビの再放送で何話か飛ばして見たり、劇場版をどこかで見たりしても、ストーリーって、全然つながってないんだよね。というか、あんまり、そういうのって意識していない。なんとなく、この辺りでジオンのこのモビルスーツがでてきた、とか、そんな印象だけw まあ、子どもなんてそんなもんなんだろうけど。
でも、実際こうやって大人になって見させられると、その細かな細部のストーリーの「合理性」が、まあ当たり前だけれど、気になってくるわけで、この読書体験はとても心地よかった。
こうやって読んできて、最初に受けた印象は、安彦先生のジ・オリジンは、ファースト・ガンダムのアニメ版ストーリーを根底から「尊重」されていたんだなあ、といったことだった。つまり、この大きなストーリーを変えようという考えはまったくなかったように思われる。たんに、諸事情で省略されたり、曖昧にされていたところを、先生なりに再定義してあるといった感じで、アニメ版ファーストガンダムを尊重されていることがよく伝わる作品だったように思われる。
その上で、安彦先生が、漫画版のジ・オリジンを連載するにあたって、最初は「過去篇」を描かれることを、まったく考えていなかった、といったことを書いてあったのが印象的であった。
この作品をどう考えたらいいのだろうか? ファースト・ガンダムを中心に考えるなら、この作品は間違いなく、アムロ・レイを主人公とした物語だ、ということになる。しかし、だからといって彼の「視点」だけで主観的にこの世界を描こうとするには、あまりにもこの世界は

  • 巨大

かつ

  • 大人

の世界なのであって、まだ自意識の幼ないアムロでは、どうしても手に余るわけである。アムロは父親がガンダムの設計技術者であり、連邦の軍関係者であり、母親は、その父親の仕事にどうしてもつきあいきれず、地球に残った関係にあり、アムロは父親の方に連れられて、コロニー生活をしている。しかし、父親はそういった関係で、子どもをほったらかしにして、ほとんど家に帰らない。
よく考えてみてほしい。こんな関係で、子どもは毎日、どんなことを考えているだろうか? アムロは機械オタクで、神経質で、反抗期でと、すぐに口答えして、回りの大人とトラブルを起こすわけだが、彼が考えていることは、基本的に母親であり父親に関係したことだ。アムロガンダムの操縦やマニュアルに、のめりこんでいったことも、この「知識」が父親に

  • 関係している

ということが、彼に猛烈な、その分野に関係する知識欲求をもたらしているわけであり、そこでの合理性は、結局のところ、その話題で父親に認められる、といった関係によって、動機づけられている。
アムロの内世界は、徹底して、この

  • レベル

を一回も出ていない。しかし、言うまでもないが、この世界のグランド・デザインを考えたとき、あまりにも、このアムロの自意識が見せている世界の狭さと、この世界がギャップが大きすぎる、ということが問題になってくる。
アムロはこのギャップを埋められない。というか、埋める必要もないし、そもそもこんな落差に届いてもらっても困るわけだが、じゃあ、作品としてこの落差を埋める、オールタナティブとなるものはなにか、という問題になるわけだが、それこそが

  • シャアとセイラ

の兄妹だったわけであろう。シャアはファースト・ガンダムの最初の段階から、アムロの「ライバル」として現れるわけだが、シャアが生きている世界こそが、この世界そのものを表象するわけであり、アムロはそのシャアと戦いながら、相手を理解しない、いや、理解できないこの

  • 落差

において、なにかが示唆される形になっている。
この安彦先生のジ・オリジンを最初から読んでいった最初の印象は、とにかく、セイラさんを始めとして、女性陣がとても

  • 魅力的

に描かれている、ということであろう。とにかく、女性として美しい。それはたんに、安彦先生の絵がうまいというだけでなく、そこにアムロ

  • 視線

が反映しているから、ということがわかってくる。アムロは父子家庭として、母親と離れて育ってきたわけで、そもそも大人の女性を見る視線に、どこか母親への「甘え」のようなものが色濃く反映している。つまり、理想の母親のイメージを重ねてしまう。
そういった視点で考えたとき、このファースト・ガンダムにおける

  • セイラ

さん問題というのは、とても大きいのではないか、といった印象がどうしても残ってくる。というのは、安彦先生自身も書いていたが、どうしてもファースト・ガンダムの後半に行けば行くほど、セイラさんの出番が少なくなっていくだけでなく、どうも影が薄いわけである。
これは、決定的な欠点のように思えてくる。
というのは、ジ・オリジンの過去篇が描かれた関係もあり、よりはっきりとした印象となるわけだが、ようするに過去篇とは、シャアとセイラの兄妹の物語なのだ。そして、ファースト・ガンダム

  • 裏のストーリー

はシャアの「復讐」劇である。なら、セイラは? となるのは、当然の成り行きではないのか?
ようするに、この作品はなぜか、セイラの問題を描くことができなかった。いや、前半はこれでよかったのだろうが、後半の最後に向けて、彼女の

  • おとしまえ

つまり、彼女を「もう一人の主人公」として何かを描かなければならない、といった決着がどうしても着けられなかった。そこの描き込みが弱かったんじゃないか、と思うわけである。
よく考えてみると、このファースト・ガンダムにおいて、セイラさんは最初から非常に魅力的な登場人物として描かれている。作品の最初でカイを、「それでも男なの」とののしる場面を始めとして、まさに、「姫」として、歴史的ないきさつから、この世界の政治的な責任にどうしても関係した「責任」の一旦を担った振舞いをすることを意識させられ、そのことが、アムロなどの若者との対照性を際立たせている。
そう考えていってみると、あれほどシャアを「活躍」させたのなら、なぜそれ相応のセイラさんの「活躍」を、作品自体としてさせられなかったのだろうか。彼女の思い描く

  • 持論

をもっと、作品内で披露し、それによってもっと多くの人を動かしていくような可能性があったんじゃないのか、といった印象がどうしても残るわけである...。