中井久夫「いじめの政治学」

(ちなみに、掲題のエッセイは柄谷行人が以下で書評をしている:(書評)『中井久夫集6 1996-1998 いじめの政治学』 中井久夫〈著〉:朝日新聞デジタル)。
巷では、日大アメフト部の今回の事件は

なのではないか、と言う人がいるようである(ようするに、セクハラではなく、パワハラ版だ、と)。そういった主張に私は「なるほど」と思いながらも、だとするなら、もう一つの運動があるんじゃないのか、と思わずにいられないわけだが、それが掲題のエッセイのタイトルにもなっている

  • いじめ

である。

子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだ、いっそう権力に飢えている。

いじめ側の手口を観察していると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。

子どもの日常は「ストレス」の日常である。なぜなら子どもは「弱い」からだ。子どもは自らで自らを守れない。そのことは、子どもの

  • 自尊心

を傷付ける。子どもは自分を誇れないし、そんな自分が嫌いなのだ。「いじめ」とは、そういった子どもにとっての「ストレス」の反転したものである。「いじめ」は子どもに一つの

  • 権力

を与える。それは、その子どもにとっての一つの「成功体験」として受け取られる。子どもは「いじめ」に成功することで「ストレス」から解放され、

  • 満足

を得る。

いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。

掲題の著者は、子どもの「いじめ」が権力である限り、そこには

がある、と主張する。そして、掲題の著者がこの「政治学」を語る上での、最も基本的な要素が

  • 孤立化

だ、と言うわけである。

孤立していない人間は、時たまいじめに遭うかもしれないが、持続的にいじめの標的にはならない。また、立ち直る機会がある。立ち直る機会を与えず、持続的にいくらでもいじめの対象にするためには、孤立させる必要があり、いじめの主眼は最初「孤立化作戦」に置かれる。

ここまで読んできて、私は自分が今まで考えてきた「いじめ」論について、今さらではあるが振り返らされている気持ちになる。なぜ「いじめ」は残酷なのだろうか? それは私たちが「いじめ」を

  • 生き残った(サバイバルした)

側であることを意味するからだ。進化論を考えれば、単に今を生きている私たちは、「死ななかった」側の祖先であることしか意味しない。つまり、「いじめ」で絶望し、生きることをあきらめた人間の祖先は一人もいないのだ。そこから分かることは、私たち

  • いじめっ子の「祖先」

は、基本的に自分が「いじめる側」であることに「鈍感」だ、ということなのだ。なぜなら、そうでなければ、そんなことでいちいち精神を病んでいたら、生き残れないからだ。私たちは常に「いじめ」をしていて、往々にして、ほとんどそれに「気付いていない」場合が多い。人間は「悪進化」する! そして、その非道徳性が私たち自身の

  • 十字架

であることは決して振り返られることはない。
ところで、最近、おもしろい記事を読んだ。

「私も自分のクラスでは生徒同士に『さん付け』をさせています。そのメリットとして、明らかにケンカが減った、という教師としての実感があるからです。相手を怒鳴る前に自分の頭の中に "さん" が浮かぶと、ちょっと冷静になるんでしょうね。
あだ名で呼ぶことは、いまの小学校では考えられません。それくらいイメージが悪いのです。理由は、あだ名で呼ぶことでいじめと捉えられる可能性があるからです」
最近の小学校、「あだ名禁止」や「さん付け」が増えた事情(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

確かに、親族に小学校に通っている子どもがいる方は、子どもの学校での話を聞いていると、しきりに名前に「さん付け」で呼んでいるの気付く。このことは、少しネットを検索してもらうと分かるが、どうも日本会議系列っぽい右の運動家に評判が悪いようで、さかんにとりあげられているようである。ようするに、これが「フェミニズム」の「男女雇用機会均等法」の延長としての

  • 男女平等

として「解釈」されていることが、この政策を「仮想敵」とした運動となっている、ということのようである。
確かに、最初にこの「体験」をしたときは、一瞬「ぎょっ」としたわけであるが、問題はなぜこのように、

  • 急激に

日本の「学校」が変わったのか、を理解する必要がある。

文科省OBで京都造形芸術大学教授の寺脇研氏によると、近年多くの小学校で、いじめの防止のために略称や愛称なども含めてあだ名を禁止しているという。寺脇氏が言う。
「あだ名禁止の要因として、2000年代にいじめによる悲惨な事件が多発して文科省による『いじめの定義』が変わっていったことが挙げられます。
滋賀県のいじめ自殺事件(*注)を受けて2013年に施行された『いじめ防止対策推進法』に伴い、いじめは生徒が〈心身の苦痛を感じているもの〉と、定義された。あだ名は体の特徴を捉えたものも多いため、『あだ名の禁止』などの校則を定める学校が増えています」
最近の小学校、「あだ名禁止」や「さん付け」が増えた事情(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

大事なポイントは、文科省

  • 「いじめ」の定義が変わった

ということなのだ! ここは非常に重要なポイントである。「いじめ」は昔からあったし、ほとんどの世代で「体験」してきた「なにか」であった。そして、これをだれも「ない」社会を生きてきたなんて思ったこともないだろう。しかし、それはなぜそうだったのかといえば、それが

  • 「いじめ」じゃなかった ... 文科省の「いじめ」の定義に合っていなかった

ということなのだ! 私たちは根本的に勘違いをしている。「いじめ」は

  • 犯罪

であるが、それは「見逃されてきた」のではなく、そもそもそれが文科省の「いじめ」の「定義」に合っていなかったから、「いじめ」じゃない、として処理されていたに過ぎないのだ。
じゃあ、「いじめ」の定義の方が変わって、「それ」が「いじめ」になったら、なにが起こるか? 言うまでもない。

  • 学校が変わらざるをえない

わけである。学校は昔ながらの学校を維持できない。なぜならそれは「犯罪」である「いじめ」に対処できない、ということを意味するのだから。
ようするに、「さん付け」や「あだ名の禁止」は何を意味しているのか? それは、子どもの

  • 尊厳

を回復するのだ! 子どもは自分の「名前」で呼ばれることを「誇り」に思っている。なぜなら、それがその子の「名前」だからで、そう呼ばれるから「その子」なのであって、相手が自分の存在を認めていくれている、ことを、最も直截に理解するわけである。
例えば、日本のドラマやアニメで描かれた、明治以降の学校社会を思い浮べてみると、例えば「お嬢様学校」では、みんな「ごきげんよう」などといった「敬語」で話している。このことは、彼女たちが「いいとこのお嬢さん」だからと言ってしまえば身も蓋もないわけだが、ようするに、そういった「丁寧な言葉」の使用は

  • しつけ

として、当たり前のように行われていたことを意味する。戦後のGHQによる民主主義教育によって、すべては生徒の「自主性」に本質的に従うことが「教育」とされたわけで、そこでは一切の「強制」はNGとなる。しかし、そのことは逆に言えば、

  • 「いじめ」の<自由>

を子どもに与えていたことと変わらない。例えば、つい最近まで、学校の授業で柔道が採用され、何人もの子どもが授業中に事故死していることが知られているが、そもそも部活動での柔道は、最初から危ない技などやらないわけで、最初は何日もずっと受け身のトレーニングばっかりやらされるし、非常に「礼儀」にうるさいわけだが、なぜそうなのかと考えれば、言うまでもなく、柔道の畳の上が

  • 危険

であることを指導者も含めて、みんなが理解しているからなわけであろう。そういった場所で礼儀

  • 程度

も守れないと、交通ルールもよく知らないで、公道を無免許運転をするようなもので「危ない」わけである(ようするに、なんでそんな危険なものを、まともなトレーニングの時間もとれない「授業」に採用しているのかといえば、どっかの右寄りの保守派が、ゴリ押ししている、と考えるのが自然なわけでw、戦前の「高専柔道」ロマンティシズムをひきずったような、

  • 戦争で使える技

を授業で学ばせたい、といった、まあ、一種の「徴兵制」の代替として機能させようとしているのだから、

  • たかだか、百人くらい死んだところで、たいしたことはない

とか考えているんでしょうね)。
そして以下の記事では、アメリカと一部のヨーロッパで「子供たちが親友を作るという発想自体を禁止することを真剣に検討している」というわけである。

私はソーシャル・インクルージョン(訳注:社会的排除と訳されるソーシャル・エクスクルージョンの反語。平成12年厚生省報告書によると、「全ての人々を孤独や孤立,排除や摩擦から援護し,健康で文化的な生活の実現につなげるよう,社会の構成員として包み支え合うこと」)の考えを支持します。親友という言葉は本質的に排他的な意味を含みます。子供、いや、ティーンエイジャーの頃ですら、親友は頻繁に入れ替わります。そのような変化は心理的な苦痛となり、子供たちは親友についてよりも、近しい友達、もしくは単に友達について話している方が、苦痛が軽減されます。暗黙の序列というものが存在し、序列が存在するところには、問題が起こります。私は、誰にも親友と呼ばれない子供たちを見てきました。悲しいことに、その子たちは一人で昼食を取り、他の子供たちが親友同士で遊んでいるときに一人で家に居たりします。

【米国:ポリコレ】子供たちが「親友」を作ることを排他的だとして、学校が禁止を検討 | 海外ニュース翻訳情報局

ここまで来ると、なにか、本末転倒のように思えるかもしれない。しかし、もう一度、掲題のエッセイの上記の文脈を考えてもらいたい。「いじめ」とは何か? 掲題の著者は、それを

  • 孤立化

だと言う。ということは、なにを意味しているか? 逆説的に聞こえるかもしれないが、「いじめ」をなくすためには、

  • 全員が<孤立化>するしかない

わけである! そもそも「いじめ」における「孤立化」とは、ここに「被孤立化」の、その一人を除いた

  • 補集合

があることが前提になっている。つまり、「親友化」とは、その「親友」の「外」の存在の「孤立化」を、ある意味で暗黙裏に前提しているわけである。人間は「親友」を

  • 求める

限り、その外に「いじめ」の対象を見出さずにはいられない。むしろ、「親友化」は、その「いじめ」の対象への「悪の共感」によって、同士となる。この「悪」が

  • 楽しい

ということを、お互いが「共感」するから、その二人は「親友」になる。
大事なポイントは、私たちが「生きる」ということは、その本質に「孤独に耐える」ことを少なからず含まない、倫理的な生き方はありえない、ということなのだ。大事なポイントは、ここにおける

  • 一定の距離

である! 近づきすぎず、かといって、離れすぎない。まさに、「ごめんあそばせ」の、お嬢様たちの「礼儀作法」ではないのか!
自らの相手への「親友」の

  • 自明化

とは、相手への

  • 甘え

を意味して、それは反転して、その補集合の中から「いじめ」対象という「いけにえ」を探し出し、そいつの「尊厳」を傷付けることで、お互いの

  • 共犯関係

を深めることで、「悪の連帯」を醸成する。水戸黄門における越後屋の「おぬしもワルよのう」が「親友」なのであって、この一線に留まる「覚悟」がない限り、今まで一度として「いじめ」のない社会を作ることのできなかった、昭和世代の大人たちが結局最後まで

  • 根底から考える

ことができず、そこにこそ、こうして今まで「いじめ」を常態化させてきた彼らの

  • 限界

が示されている、とも言えるように思えるわけである...。