アニメ「シュタインズ・ゲート」の意味

今期のアニメ「シュタインズ・ゲート・ゼロ」は、言うまでもなく、アニメ「シュタインズ・ゲート」の続編となるわけだが、それも第8話まで来て、少しこの作品を俯瞰的に見た感想を書いておきたいと思うようになった。
言うまでもなく、この作品にはゲーム版という「原作」があり、その作品世界は言ってみれば視聴者には「解明」されていると言ってもいい。
例えば、以下のブログ記事では、この作品世界を構成する「アルファ世界線」「ベータ世界線」「シュタインズ・ゲート世界線」それぞれがどういったものなのかについて、丁寧に記述されている。

シュタインズゲートの世界線を「いらすとや」で図解してみた | アルパカタログ

私はそもそも、それほどこの作品にコミットメントをしてきたわけではない。このブログでも言及したことは限られているし、そもそもゲーム版をやっていない。気が向いたときに、一期のアニメを見たし、劇場版アニメを見た、というくらいだ。しかし、この第二期のアニメの、特に第8話のベータ世界戦の岡部になぜかリーディング・シュタイナーが発動して、アルファ世界戦に戻り、そこでの牧瀬紅莉栖(まきせくりす)と再開する展開を眺めていて、この作品が何を描こうとしていたのかが分かったような印象を受けたわけである。
なぜこういった「タイムマシン」作品が繰り返し作られるのか? それは、いわゆる「エロゲー」といった、一連の作品群の中に位置付けるというのが一つの方法であるだろう。そして実際にそうだという意味で、正しいわけであるが、私にはそういった分析は十分ではないように思われる。
というのは、そもそも「ゲーム」と「物語」を混同してはならない、と思うからだ。それぞれは、それぞれの事情により「影響」を与えるが、本質的に異なっている。つまり、その二つにはそれぞれの「動機」があるのであって、そこを区別しなければならない。
では、なぜアニメ「シュタインズ・ゲート」は作られたのか?
それは、それ以前の「作品群」の、ある種の「袋小路」に陥っていた状況に関係しているように思われる。
それをここでは、例えば「鬼畜系」と呼んでおこう。
その典型的な例を、このブログでは、

に代表させて考えてきた。この問題は非常に単純な話で、ようするに「ヒロイン」をどれだけ

  • 鬼畜

に作品内で殺せるかを「競う」、当時のサブカル作品内で多く見られた「鬼畜競争」を、どのように評価するのか、に関係していた。
こういった傾向性は、2000年以降、「サイコパス」との関連で語られることが多くなったわけだが、むしろ本質はそこにあったと考えるべきだろう。
こういった作品群がきそって争ったのは、いかに「以前にはないくらいに過激」にヒロインを、ぼろ雑巾のように、ズタボロに殺すか、というところにあった。ここで競われていたのは、

  • 鬼畜競争

である。誰が一番、この「鬼畜」っぷりに成功するか。そのことが彼ら「男<友だち>コミュニティ」では、

  • 芸術

という言葉で正当化されていた(ここに、私なんかは早稲田のスーパーフリーや、以下のニュース記事との相似性を感じさせられる:米名門校で蔓延するレイプ競争。被害女生徒が実名顔出しで立ち上がった理由)。
しかし、なぜそのような「傾向性」は当時、一定の正当性が語られたのであろうか? それは一種の「リアリズム」と関係して語られた、と今になっては考えることができるだろう。つまり、それは現実に「ありうる」可能性なのだから、その可能性を作品として記述することは

  • 真実

の一つとして正当化される、と考えられた。これは一種の「自然主義」「物理主義」との関連で主張された、と言えるだろう。
しかし、そうなのだろうか?
さて。ここで、これらの作品群の傾向性が、どのようなものだったのかをまとめておこう:

  1. 作品は完全な、青春ものとして、主人公の少年の「ビルドゥングス・ロマン」として描かれる。その中で、ヒロインとは主人公にとっては身近な存在なわけであるが、大事なポイントは、その性格が「イノセント」な形で一貫して描かれる、というところにある。
  2. ところが、ある日。突然、ヒロインはなんの必然性もない、どうでもいいようなモブキャラに殺されて命を失う。しかし、大事なポイントはそこにはない。大事なのは、そのヒロインの死を、主人公はまるで「自分が成長していくための一つの糧」のように、「これでボクも一つ大人になった」といった形で「悟り」の一つのステップとして、乗り越えられる、という形で描かれる。
  3. 大事なポイントは、この「作品」論にこそある、と言える。ようするに、ここでのこのヒロインは、徹底して「手段」として描かれているわけである。

さて。こうやって考えてみると、村上春樹の『ノルウェイの森』も、ある意味に、こういった系列の作品であることがよく分かるのではないか。
私は何にこだわっているのか? それは、よく考えてみると、こういった作品群には、ある一つの

  • 欺瞞(ぎまん)

があるからなのだ。つまり、なぜ

  • 作者

は、ヒロインをこのような「イノセント」なだけの存在として描いたのか、というところにある。大事なポイントはここにある。よく考えてみてほしい。

  • そんな人間がいるわけないのよね!

そういうことなのである。大事なポイントはここにあるのだ。だれだって、人間なら、どこかしら汚いところがある。というか、みんな「深い葛藤」を少なからず抱えている。それは、男も女も関係ない。じゃあ、なぜ上記の作者たちはそういった

  • 側面

を作品に描かなかったのか? まあ、言うまでもないだろう。それは、

なのだ。なんらかの「強調」であり、デフォルメなのだ。もちろん、次のように言ってもいい。主人公から見れば、ヒロインは「他人」であり、彼女が何を考えていたのかを主人公の視点からは曖昧にしか描かれないことは必然なのではないか、と。しかし、そのことと、「作者」の視点は関係ない。
ようするに、上記の「鬼畜」作品群があえて「無視」したのは、作者の「残酷さ」なわけである。言われてみれば、当然なわけで、作者はようするに女が嫌いなわけで、作品の中であっても、徹底的に陵辱的に「ヒロイン」をボロ雑巾にすることに、自らの「アイデンティティ」を感じているわけで、これは最初から作者の

  • 夢(ゆめ)

なわけであろう。現実でやったら「犯罪」になることを、物語の中で実現したい。まあ、「女への復讐」というわけである。
こういった「鬼畜」作品群が、一時期のサブカル作品の傾向として一定の

  • 流行

のように作られていた頃から、少しずつ増えだしてきたのが、アニメ「シュタインズ・ゲート」に代表されるような、タイムマシン・パラドックスや平行世界パラドックスを作品の中心にすえる作品群ではなかったか、と考えるわけである。
なぜ、こういった「平行世界系」が増え始めたのだろうか?
考えてみよう。アニメ「シュタインズ・ゲート」も典型的なビルドゥングス・ロマン系だと言えるだろう。主人公の岡部はヒロインのまゆりとの「優しい共同体」を作っている。そして、まゆりは、まさに、「コードギアス」のシャーリー、「戦う秘書」のノロティと同じように、

  • イノセント

な、純情な存在として描かれており、それはほとんど「キャラ」と言って変わらない「定性」を自明のものとして視聴者に要求する。そして、主人公は一定の

  • リスペクト

をそういったヒロインに抱いている。しかし、作品は急展開する。紅莉栖(くりす)の死ななかった、このアルファ世界戦では、まゆりは、ほとんど

  • 鬼畜

と変わらないような、無惨な死を迎える。ところが、である。ここから、上記の2作品と、この作品では展開が変わってくる。
上記の2作品では、ヒロインの死は、どんなにそれが悲惨なことであろうと

  • 過ぎてしまったことは<しょうがない>

の一言でかたづけられてしまう。なぜなら、たとえそうであったとしても主人公は「成長」しなければならないからだ(まあ、下品な言い方をさせてもらうなら、主人公は「東大に入学しなければならない」わけであるw 毎年、多くの子どもたちが東大に受験するように)。ヒロインとは、主人公が成長するための

  • 文学的な肥やし

である。立派な文学者になるには、こういった「経験」の一つや二つは経験していなければ立派じゃない、といったような(まさに、上記のブログ記事の、米有名高のレイプ競争)。
つまり、この上記の2作品は

  • 悟り文学

なのだ。悲惨なヒロインは「しょうがない」。この立場を、作者は「読者」に要求する。それを作者の「権力」によって読者に「強制」できるかできないかが、作者の「能力」として争われていた、というわけである。
ところが、アニメ「シュタインズ・ゲート」では、そもそも、主人公の岡部はそんなに

  • ものわかりがよくない

わけである。つまり、何度も何度もまゆりを助けようと、あがき、もがき続ける。そして、抵抗すればするほど、その抵抗が無意味であることを自覚させられ、主人公はどこまでも精神的に衰え、疲弊していく。
これはなんなのだろう?
つまり、この作品は「抵抗する」作品なのである。そこに、読者にとっての、ある種の「熱狂」がある。
よく考えてみよう。なぜ読者は「あきらめる」ことを作者から「強いられ」なければならないのか? このことには深い意味がある。この「作品」のフレームは作者が勝手に読者に

  • 強制

したものである。だとするなら、読者が「納得」のいかないものを作者が読者に「強制」することには、ある範囲での「無理」があると考えるべきなのではないか?
もともと、こういった作品のフレーム(ヒロインのキャラ性、ヒロインのイノセント性)にしたのは、作者である。だったら、その「落とし前」は作者がつけるべきなのであって、読者には関係のないことなのだ。たとえ、文脈上、ヒロインの死が避けられないものだったとしても、このフレーム上で「無意味」に殺すのは作者であって、読者ではない。作者はここに、なんらかの「合理性」や「論理性」を与えたいのであれば、もっと複雑なヒロインの心の

  • 過程

を描けばよかったのだ。じゃあ、なぜ作者はそうしないのか? それは、ようするにヒロインを

  • 手段

だと考えているから、と言うしかない。つまり、主人公の「成長」のための。まあ、ヒロインは主人公の「餌(えさ)」なのだw
じゃあ、これにもし作者が抗うとしたら、他にどんな方法があるのか、ということになるであろう。まあ、普通に考えて、タイムマシン・パラドックスや、平行世界パラドックスの話にするしかないんじゃないですかね。
アニメ「シュタインズ・ゲート・ゼロ」第8話で、岡部は自らリーディング・シュタイナーを発動させたわけでもないのに、ベータ世界線からアルファ世界線に移り、そこにいる紅莉栖(くりす)に出会う。しかし、思い出してみれば、この二つの世界線は両方とも

  • ヒロインの死の回避に失敗した(あきらめた)

世界線である。この紅莉栖(くりす)の死を「どうしようもない」とあきらめた世界の岡部が今までその罪の意識にさいなまれ続けてきたし、この移った世界にいる岡部はまゆりの死を「どうしようもない」とあきらめた世界の岡部が今までその罪の意識にさいなまれ続けてきた。
そして、この世界の紅莉栖(くりす)は、自らへの自責の念に苦しんでいる岡部の姿を目の前にして、彼との別れの場面で、彼へのキスをするわけだが、この岡部の苦しんでいる姿に、作者は

  • ヒロインの死

をそう簡単に「(自分の成長のために)乗り越えるべきこと」「どうでもいいこと」「忘れなければならないこと」といったような、それまでの鬼畜作品群が描いてきたような、人間の尊厳を傷つけることを「大人になる」ことであるかのように描かれてきた「成長」物語に対して、

  • 抵抗

し続ける、いつまでも「子ども」でい続けようとする「反抗」 文学の可能性をどこかで追い求めようとした、と考えることはできないだろうか...。