物理学者はどこまで多世界解釈にコミットメントしているか?

私たちはもちろん「物理学者」ではない。だとすると、そもそも、いわゆる物理学者たちが語っていることに、どのようにコミットメントをしたらいいのか分からなくなることが、よくある。もちろん私たちは物理学者が言っていることを、「リテラル」には理解するわけではあるが、だからといって、そういった「解釈」に自分がどういった形でコミットメント可能なのかは少しも自明ではない。
その典型的な例が、エヴェレットの「多世界解釈」であろう。しかし、もしも「私」が、この「多世界解釈」に対して

  • 正しいと思う

と言ったとき、これは何を意味しているのだろうか? 一つはその「表象」が含意する「世界の見方」で自分が世の中を見て、理解しようとしている、といった自らの「信念」を表明している、ということにはなるのだろうが、しかしそのことと

  • 多世界解釈が実際のところ物理学者コミュニティ内で「何を意味していることになるのか」

は「自分が物理学者ではない」ことの必然的な含意として、まったく整合的であるとは理解できないわけであり、つまりこのことがなにを意味しているのかが、なんともよく分からない、(なんと言ったらいいのかよく分からないけれど)あえて言うなら「真実の彼岸」のようなことを話しているような印象さえ受けてしまうわけである。
そうやって考えたとき、前回紹介したテグマークの本はとても示唆的な記述に満ちていることが分かる:

量子力学はおそらく今までに考え出された最も成功した物理理論だ。しかし、それが世界の実像とどう折り合うのかという問題に関する一世紀にわたる論争は、いまだに収まる気配がない。実際、長年の間に本当に様々な解釈が出されている。たとえば、統計解釈(アンサアンブル解釈)、コペンハーゲン解釈道具主義的解釈、流体力学的解釈、意識に基づく解釈(フォン・ノイマン=ウィグナー解釈)、ボーム解釈、量子論理に基づく解釈、多世界解釈、確率力学的解釈、多心解釈、歴史の一貫性条件に基づく解釈、客観的収縮理論に基づく解釈、相互交流解釈(トランザクション解釈)、形態解釈、実在的解釈、観測者との関連性に基づく解釈、モンテビデオ解釈、宇宙論的解釈などだ。しかも同じ解釈を支持する者どうしでも、支持者によって定義の細部が異なっていることも多い。実のところ、どれを「解釈」と呼ぶべきかについてさえ(いま挙げた例では便宜上すべてに「解釈」をつけたが)、意見の一致を見ていない。

数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

この「異常」な状態がどれだけのことなのかを分かっているだろうか? これは別に、これらのうちのどれがすでに

  • 間違っている

とか、

  • 正しい

とかが「分かっている」過去の理論を列挙しているのではないわけである。それぞれ、立派な物理学者たちが大真面目で、こんなにたくさんの「解釈」を云々しているのだ。
別に自慢することではないが、私だってこれらのうちの幾つかしか知らないし、聞いたこともない。しかし、これらについてのそれなりの知識なり見識をもつことなしに、多世界解釈は「正しい」と

  • 私が言った

として、そのことには一体なんの意味があるのだろうか?

では、エヴェレットの過激なアイデアとは何だったのか。それを述べるのは、実は驚くほど簡単だ。それはこうだ。

波動関数は決して収縮しない。

言い換えると、私たちの宇宙の波動関数は観測が行わてるか否かには関係なく、常にシュレーディンガー方程式に従って決定論的に変化する、というのだ。
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

こうやって見ると分かりやすいが、多世界解釈は、直接的な「コペンハーゲン解釈」の

  • アンチテーゼ

となっている。つまり、直接的に「コペンハーゲン解釈」のパラドックスに対して、それをこの解釈の「否定」という形で答えようとした場合の、とても自然な答えになっていることが分かるであろう。

私は講演を行うとい、聴衆に含まれる人々が何を考えているのかをよく聞くのだが、次ページの表は、どの量子力学の解釈が最も自分の立場に近いかを聞いたときに得られたものだ。この簡単な調査を最初に行ったのは、一九九七年にメリーランド大学ボルチモア郡校(UMBC)で開催された量子力学会議のときで、二回目は、二〇一〇年に私がハーバード大学物理学科で講演を行ったときである。
この調査はまったく非公式で非科学的なもので、明らかにすべての物理学者を代表するサンプルを調査したものではないが、それでも意見にかなり顕著な変化が見て取れる。何十年にもわたって君臨していたコペンハーゲン解釈は、一九九七年には支持率が三〇パーセント未満に低下し、二〇一〇年にはなんと、ゼロパーセント(!)になってしまった。反対に、一九五七年に提唱されてからおよそ一〇年もの間、事実上無視されていたエヴェレットの多世界解釈は、二五年にわたる厳しい批判とときにはあざけりにも耐え抜き、二〇一〇年の投票ではなんと一位を獲得した。最後の調査では、態度を決めていない投票者がかなりの割合を占めていたことも注目に値する。量子力学の論争はまだたけなわなのだ。
オーストリアの著名な動物学者コンラッドローレンツは、重要な科学的発見は三つの相をたどると指摘している。最初は完全に無視され、次に激しい攻撃にあい、最後に、そんなことは誰でも知っているとすげなく扱われる......。調査からうかがえるのは、エヴェレットの並行宇宙は一九六〇年代に第一相を経験し、現在では第二相と三相の中間あたりに位置しているらしい、ということだ。
この変化を見ると、量子力学の教科書は書き換えられる時期に来ているように私には思える。デコヒーレンスについて言及すべきだと思うし(多くの教科書ではされていない)、コペンハーゲン解釈は「コペンハーゲン近似」と思ったほうがいいことを明確にすべきだろう。つまり、波動関数はおそらく収縮しないが、それでも波動関数が観測によって収縮すると思って計算するのは、近似としては非常に便利だということだ。
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

上記のアンケートは確かに興味深いが、しかしより興味深いのは、むしろ

  • 態度を決めていない投票者がかなりの割合を占めていた

といった所にあるように思われる(まあ、掲題の著者の講義を聞こうと集まっている人に聞いているのだから、こういった結果になることは明らかなようにも思われえるがw)。
しかし、なぜ掲題の著者はここまで、多世界解釈にコミットメントするのだろうか?

ここで私たちは、次の非常に重要な点に気がつく。

並行宇宙は理論ではなく、理論によって予測されるものである。

どのような理論から予測されるかといえば、たとえば、インフレーション理論だ。
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

一般相対性理論でのブラックホールのように、永久インフレーション理論で並行宇宙はオプションではない。並行宇宙はパッケージの一部であって、それが気に入らないなら、爆発問題、地平線問題、平坦性問題を解決でき、構造の種となるゆらぎを生成でき、しかし並行宇宙の存在を予測しないような、別の数学的理論を発見するしかない。そしてその試みも、非常に困難であることが分かっているのだ。これがまさに、私の同僚物理学者が一人また一人と、多くの場合には不承不承であっても、平行宇宙を真剣に受け取るようになっていった理由なのである。
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

ようするに、掲題の著者が言いたいのは、「インフレーション理論」と深く関わっていることの決定的な意味を考えるなら、こういった立場に至ることは、大きな

  • 必然性

がある、と考えている、ということなのだろう。
ところが、である。ここまで自信たっぷりに、まるで「事実」であるかのように語ってきておきながら、他方において、掲題の著者は、以下のようにも言ったりするわけである。

ジョージ・エリスはサイエンティフィック・アメリカンに書いた記事の中で、自身の議論の多くをこれらのレベル分けに沿って展開し、いずれのレベルにも問題があると論じている。私なりにジョージの見解をまとめると、次のようになる。

  1. インフレーション理論は間違いかもしれない(あるいは、永久ではないかもしれない)。
  2. 量子力学は間違っているかもしれない(あるいは、ユニタリーでないかもしれない)。
  3. 弦理論ま間違っているかもしれない(あるいは、複数の解がないかもしれない)。
  4. 多宇宙は反証不能かもしれない。
  5. 多宇宙は証拠とされる事実の一部は疑わしい。
  6. 微調整に関する議論は多くのことを仮定しすぎている可能性がある。
  7. さらに大きな多宇宙へ滑り落ちてしまう危険性がある。

(実際には、ジョージは項目2についてはふれていない。しかし、編集者が六ページより多くのスペースを彼に与えていたなら、きっと加えていただろうと思うので、ここに加えることにした。
これらの批判に対して私がどう思っているかというと、これら七項目すべてについて、実はんまったくその通りと思っているのだ。そしてそれでもなお、こう思っている、もし賭けをするなら、多宇宙が存在する方に私の老後の蓄えを喜んで賭けると。
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

うーん。まあいいのだが、これはなんなんだろう、と思わなくはないわけだ。こんなにいろいろ語ってきておいて、別にこういった立場を否定するわけでもない、と言う。まあ、なんというか、だとするなら、より「注意深く」この本を最初の一文から書こうとしたとするなら、この本は本来、どういったものになっていたのだろう? 私がよく分からないのは、上記の主張は完全なこの本に対する

  • 対決

になっているように思われるのだが、なぜそこで、なんらかの「理論的な緊張感」が、つまり

  • 反論

として現れないのだろうか? まあ、素人はなんとでも言えると言ってしまえばそれまでだが、どうも「物理学」界隈の人たちの言う「仮説」とか「解釈」とかは常人にはよく分からない印象を漂わせている印象を受けるのだが。
結局のところ、私たちはこの理論物理学者の考える、

  • 理論によって予測されるもの

を、どのように考えたらいいのだろうか? 一体、どこに私たちの考える上での「規準」となるような場所があるのだろうか?

訳者が知る範囲では、たとえば、『ヒッグス 宇宙の最果ての粒子』の著者であるショーン・キャロルは、公開の討論会でエヴェレット解釈に対する支持を明確にしています。しかしエヴェレット解釈を支持している(著者以外の)研究者の具体名は本書には出て来ません。そこで私は、連絡の機会があったとき、ほかにどんな人がいるかと著者にメールで尋ねてみました。すると案の定、本人が "カミングアウト" を望んでいるかどうかが分からないことを理由に、あまり教えてもらえませんでしたが、唯一、アラン・グース(インフレーション理論の創始者の一人)はもちろんその一人だということでした。
(谷本真幸「訳者あとがき」)
数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて

私は頭が悪いので、基本的にはこの辺りで留まっておこう、と言うことぐらいでしょうか。きっと頭のいい人が未来には現れて、いろいろと今の混乱している状況をもっと整理して、私たちに「教えて」くれる日がいつか来ると考えて、今はこれくらいにしておきましょうか...。