デレク・パーフィット「平等か優先か」

パーフィットはこの有名な論文の最初を、ネーゲルが紹介したある例から始める:

彼に二人の子供がいるとして、一人は健康で幸福だが、もう一人はひどい障害に苦しんでいるとする。そこで彼は、第二子が特別な治療を受けられる都市に引っ越すか、または、第一子の能力を開花させたれるような郊外に引っ越すことができるとする。ネーゲルは次のように書いている。

これは、どのような見解にとっても困難な選択である。この選択を、平等の価値を試すためのテストにするために、このケースには次のような特徴があると仮定したい。つまり、郊外に引っ越すことから得られる第一子の利益は、都市に引っ越すことから得られる第二子の利益をはるかに上回っているという特徴である。

ネーゲルは、この事例について次のようなコメントをしている。

もし都市に引っ越すことを選択するならば、この選択は平等主義的な決断であるだろう。たとえ第二子に与えることができる利益は、第一子に与えることができる利益よりも少ないとしても、第二子の利益の方が切迫性が高いからである。この切迫性は必ずしも決定的なものではない。それは他の考慮によって凌駕されるかもしれない。というのも、平等は唯一の価値ではないからだ。しかし切迫性は一つの決定要因であり、それは第二子の境遇の悪い立場に基づいている。

この例の何が興味深いのか? それは、ここで問われている「平等」が、それ以前のジョン・ロールズ以降の「平等論」とは違っているから、ということになる。つまり、これは分析的平等論と呼ばれているもので、ようするに平等の

  • 内容

を問うているわけである。
こういった方向性は確かに興味深い。それは掲題の著者が自らを、(おそらくは)功利主義者として定義していることと関係しているのかもしれない。

この種の事例は数え切れないほど存在する。そうした事例において、我々が二つの行為または二つの政策の間で選択をしているとき、一つの重要な事実は、その選択の結果としてもたらされうる利益がどれほど大きいか、である。功利主義者にとっては、問題はこれに尽きる。功利主義者の見解では、我々はつねに利益の総計の最大化を目標にすべきである。しかし、平等主義者にとっては、利益を享受する者の境遇がどれくらい良くなるかも問題になる。それによれば我々は、ときには、より善い分配のために、利益の総計がより少ない方を選択すべきである。

一見すると、功利主義者は「平等主義者」なのではないのか、と思える。ところが、掲題の著者は違う、と言う。それは、最初の引用の例が分かりやすいように、平等は必然的に

  • 水準低下

の問題を起こしてしまうからだ。
そこから掲題の著者は「平等」を疑うようになるわけだが、ようするに平等に代わり

  • 優先

を重要視する立場を宣言する。
ここまで読んできて、私はいかにも「功利主義者」的なアジェンダ・セッティングだな、とは思わされた。つまり、これが正しいか間違っているかは私には興味がない。しかし、ここで問題にしているような「平等」や「優先」を、現代社会においてはどのように

  • 対応

しているのか、と考えてみることは私には興味深く思えたわけである。
さて。「優先主義」とは、現代社会においてなんだろう? 私はそれを、上記の「例」からのアナロジーによって、

のことと解釈する。だとすると、「平等」とは現代社会では、どのように扱われているのだろう?
おそらく、現代における「平等」は二階構造になっている。一階目が

  • 憲法・国会」システム

である。ここにおいては、そのメンバーの参政権、被参政権はまさに「平等」になっているし、言うまでもなく、憲法の条文上の「平等」も自明であろう。
そうしたとき、二階目とは、その国会が決定される

  • 法律コンテンツ

のことだと分かるであろう。これらの法律は、国会議員によって日々作られては変えられているわけだが、ここで大事なことは「システム」上の平等原理と、実際に作成される法律コンテンツが、どこまで「平等」理念を包含しているかは、それほど自明ではない、ということになる。
この場合、パーフィットの言う「平等主義」とは、二階目の「法律コンテンツ」が徹底した「平等」理念を実現していなければならない、と考える、一種の「原理主義」を言っていることが分かるであろう。
しかし、実際の法律はそういったものではない。
一応、今までの文脈から私の立場をはっきりさせておくなら、私は条件付きの平等主義者だ、ということになる。その場合、法律コンテンツ上の一見「不平等」と思われる内容を私は一旦、

  • 誤差の範囲

と考えることにする。つまり、ある一定程度を超えていないから、すぐさまこの「不平等」を解消しなければならない、とまでは考えない、ということである。
大事なポイント上記の二階目の「民主主義」システムは、これから何年か後に、

  • 人々の財産を平等にする政策

を行うことを私の立場は肯定している、ということになる。しかしそのことが、その時にその政策を行うなら、今それを行わなければならないとまでは考えない、ということになる。
そんな政策むちゃくちゃだ、と思うかもしれない。ところが、日本はWW2に負けて、農地改革と財閥解体という二つの

  • 平等政策

を行っている。私はこういった政策は憲法の「許容範囲」だと考えている、ということを言っているわけである(逆にアメリカは戦争で負けなかったがゆえに、戦前の富裕階級がそのまま残ってしまったために、日本以上の「格差社会」となっている)。
この場合、ではお金持ちが財産を貯蓄して、その政策が実行されるまでそれを大事に貯金していた行為は、なにと解釈されるかということになれば、それは言わば、

  • ことによったら散財しがちな政府に代わって、財産の「保護」を行ってくれていた

といった「ナショナリズム的行為」だったと解釈する、ことになる。
さて。ここではこのような積極的な不平等の是正に反対する立場の主張をシュミレートしてみたい。
まず一つは「自由」の擁護ということになるだろう。自分のお金をどう使おうが自由。それを抑止される理由はない、と。ところが、現代の社会システムでも、例えば「所得税」は一定の累進性をどこの国でももっているわけで、こういった立場と同期していない。
もう一つとして、竹中平蔵の翻訳した本に、「税金は盗み」という主張があった。この意味をその本は、公園の砂場で遊んでいる子供のおもちゃを奪って別の子供に与えることの例として考察している。しかし、有名な話であるが、プルードンは逆に「財産は盗みだ」と言った。さて。果してどっちが正しいのだろう?
もう一つとして「努力」がある。お金持ちは、努力をした相応の報酬をもらっているだけで、貧乏人のように努力をしなくても福祉がもらえたわけではない。しかし、お金持ちは別に努力をしなくても、すでにお金があるのだから、もう貧乏にはならない。
ある個人が自分で稼いだお金でイノベーションをおこし、世界革命を実現したとしよう。その場合、そのお金が税金でまきあげられていたら革命はおきなかったと考えるなら、平等は人類の福祉にとってマイナスにならないか、と考えられないだろうか? しかしこれも、上記で例を挙げたように、過去に農地改革や財閥解体といったような「平等政策」を実際に行っていたという実例があるわけであり、どんな場合も常にこういった政策が否定されなければならない、といった反例にはなっていない。
極端な場合を考えて、数えるほどのお金持ちが99%の冨をもっっているのし、彼らへの税金が禁止されているため、国民の福祉ができなくなっている国家を考えてみよう。その場合、その数えるほどのお金持ちに「累進的」に税金がかかるようにすれば、国民の福祉をまかなえた。しかし、そうしたからといって、その数えるほどのお金持ちは、まだまだ資産があるのだから生活水準も下がらないし、もちろん飢えるわけがない。
さて。それでは認められない「不平等」とはなんだろう? 一つ考えられる例は、どの家に生まれたかによって受けられる

  • 教育

に差が発生してしまう社会だろう。なぜならこれによって「階級」の固定化のおそれがあるからだ。
なにかを「平等」にすると言ったときに、一体なにが「平等」なのかはそんなに自明ではないだろう。映画「万引家族」の「家族」は不幸せだろうか? 彼らには彼らなりの「温かさ」があったんではないか? それに比べ、富裕層の家族が往々にして、ドメスティック・バイオレンスに満ちていて、いつでも自殺してやると思っている、なんてことはないだろうか?
私は上記の範囲において、基本的に

  • 平等主義者

だと考えるわけだが、こうやって見てみると、ずいぶんと掲題の著者を代表とする「功利主義者」が

  • 仮想敵

としている平等主義者とは主張している内容が違っているなあ、と感慨を新たにさせられるわけだが、どうしてこんなふうに違ってしまうんですかね...。

平等主義基本論文集

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