大澤真幸・永井均『今という驚きを考えたことがありますか』

大澤はそもそも「時間が存在しない」という意味が分からない、と言う。

しかし、時間が実在しないとはどういうことなのか、誰にもわからない。実在しているということとしていないことということでは、何が違うのか。説明できる人は誰もいない。そもそも、時間が実在しないと言っても、実在するものはすべて----あるいは「ほとんど」----時間性を帯びているではないか。
大澤真幸「時間の実在性」)

だとするなら、この本で論じられているマクタガートの「時間の非実在性」とはなんのことなのだろうか?
私は以前から思っている仮説がある。それは、永井均の言う「<私>論」は、カントの批判哲学の言い換えなんじゃないのか、といったものである。
まあ、そうは言っても、ある時期から永井先生の本はまったく読まなくなったので、最近なにを書かれているのか分かってないで言ってるのですが。
しかし、こういった傾向は掲題の本を読まれてもよく分かるのではないか、と考えている。

永井 (中略)独我論と観念論は全然違うじゃないですか。独我論とは、この<私>だけがほんとうに実在するものであり、外界の物質はもちろん、他人の心も実在しない、もしくは実在するかどうかわからない、とする考えです。一方で観念論は、物質と精神との対比において精神こそが実在すると考えます。ここでは精神というものが存在することが前提されています。すなわち他人にも精神があることは前提になっています。しかし、独我論との対比で考えたとき、みんなに精神があると考える観念論は、もっとも反独我論的です。
永井均大澤真幸輻輳する不思議」)

しかし、そうだろうか? 永井はなぜか独我論と観念論はこんなに違っている、と強調する。しかし、むしろこんなにむきになって否定していること自体が、なにかを意味している、と私などは思わずにいられない。というか、一般的にも、独我論と観念論をそんなに違ったものと思っている人の方が少ないのではないか?
なぜ私がそう思うのか? それは、むしろ以下のような

へのコミットメントにおいてこそ、よく現れているように思われる。

永井 (中略)デカルトが『省察』の中で欺く神を想定して、欺く神に反論するときに言ったことを考えてみましょう。デカルトは欺く神の欺き攻撃に対して、「私が『私は存在する』と思ったなら、そのとき私は確かに存在している』と答えた。たとえ欺く神がどんなに欺き攻撃をかけてきても、私が「私は存在する」と思ってさえいれば、私は存在しないことはできない。私の存在は私自身にしか捉えられないもので、その存在は神にさえもつかめない、神の側からは見えないのだ、とデカルトは考えたわけです。
永井均大澤真幸輻輳する不思議」)

これは永井自身が自らの「<私>論」哲学のルーツをデカルトに見出していることを正直に言っているところになる。つまり、基本的には、永井の哲学はデカルトの「コギト・エルゴ・スム」の拡大版だと言っていることになる。しかし、ここで私たちに思い出されるのは、カントの『純粋理性批判』なわけであろう。つまり、この本こそ、まさに、

の「コギト・エルゴ・スム」をどうやって説明するのかを、ほとんど唯一の「目標」として書かれたものではなかったか?
マクタガートの「時間の非実在性」について、掲題の本で、大澤はその証明を、いわば、「時間の存在の証明」を「時間」によって証明できない、というところに見出す。つまり、もしその証明に時間を使うなら、論点先取りになってしまうから、その証明は無効だ、という形になる。
しかし、それこそカントが時間を「アプリオリな直観形式」としたことを言っているのではないのか? つまり、そもそも人が生まれて「生きる」という活動そのものが、カントに言わせれば、この時間と空間についての直観なしにはありえなかったのだから、それを証明する、ということに成功しないのは当たり前なんじゃないのか?
(というか、これって、一種のカントのアンチノミーですよね。)
こういった違和感を大澤は、永井の時間の非実在性の説明における、ある種の「可能世界論」的な性格に対して見出す。

永井 (中略)ライプニッツによれば、私たちのこの現実世界は、無数の可能世界の中で本質において最善の世界を神が知性的に選択して、それから神がそれを意志的に実存させることによって成立しています。実存させてもさせなくても、本質的には、つまり中身においてはまったく変わることはないのだけど、ただ実存するというきわめて特殊な性質が付け加わることになる。そういう神の世界創造と同じように、端的なA事実も外的な視点から実存だけがいきなり付与されることだと考えます。
永井均大澤真幸輻輳する不思議」)

大澤 (中略)しかし、真珠湾攻撃がほんとうに未来のことであるような現在の人、つまり一九四五年十二月六日のアメリカ人の立場で、「真珠湾攻撃は未だ未来のことだ」なんて言うことはできない。「真珠湾攻撃は既に過去になった」は全然問題ないのに、「真珠湾攻撃は未だ未来のことである」が変なのは、過去と未来の間に何か根本的な違いがあるからですが、マクタガートが使っているイメージは、これをうまく表現できているとは思えない。
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まあ、大澤が言っていることは「歴史」の話なわけだが、この話はどこかエリオット・ソーバーが『進化論の射程』において、「生物」は「生物種」ではなく「個物」だと言っていたことと近い印象を受ける。「真珠湾攻撃」は言うまでもなく、大澤の言いたい意図としては

ということを「言っていない」わけで、つまりはそれは「歴史的事実」を指示しているのであって、たんに「真珠湾を攻撃する」こと一般を言っていないわけでw、ここには未来と過去の非対称性がある(そう考えるとこの問題は柄谷の『探究1』『探究2』と永井の「<私>論」の差異の反復になっているわけで、ようするに、永井哲学にはなぜか「固有名論」が欠けていて、それはなぜなのか、ということになるのだろうか)。そして、こういうというところに、マクタガートの時間の非実在性証明への反論の糸口を見出そうという感じなのだろう。ところが、興味深いのは永井先生がここでライプニッツの可能世界論的なアジェンダを参照していることからも分かるように、むしろ永井先生の方が、言ってみれば、デカルトの延長にあるような、

の延長で考えている、といったところにあるのではないだろうか。ようするに、こういったところにも永井先生の「独我論」と、カントの観念論の類似性が感じられる。つまり、カントが当時の近代科学の形而上学的な正当性の担保を一つの彼の批判哲学の「目標」としたこと(つまり、カントが近代科学を彼の言う「経験論的実在論」として、その形而上学の中での「場所」の確保を一つの目標としたことの直接的な帰結)として...。