マリーシアと「ルール」

道徳とは道徳理論のことである。そして、メタ道徳とは、この道徳理論が実際にはなにをやっていることになっているのかを分析していく「批判理論」のことである。さて、道徳とは、ある「命令文」(カントでいえば、定言命法)によって、一定の人数の人々の行動に変化をさせること全般、と言えるだろう。
しかし、命令文でありながら、なんらかの懲罰的な機能をもたないシステムとはありうるだろうか?
それは私たち自身を考えてみればいい。たとえば、友だちとの約束。これは、法ではないが、普通に守ろうと気にかけているであろう。
つまり、命令文の形で、浮遊するミームが、ある種のプレッシャーとなって人々の行動を規制している。
大事なことは、道徳が「何を言っているか」ではなく、実際のところは「何をやっているか」にある、というところにある。まあ、そういう意味でマルクスの批判哲学なのだが。私たちは、往々にして「なにかを話している」し、それは言ってみれば、それを話している人の「観念」ということになるわけだが、その話している

  • 内容

がなんであれ、それとは無関係に「なにかを行っている」わけであり、大事なことはそこで行っていることの事実性こそが大きなシステムのありようを決定しているし、そうであるからこそ、それを「観察」する、というわけである。
ようするに、どういうことか。私たちがこの私たちの身近な、コレクティブな人間の集団があったとき、そこには先験的に、なんらかの

  • 人々のルールに従おうとする意志

が実は、前提とされており、そして実際に人々は明示的に、そのルールがあろうがなかろうが、そうやって「従おう」としており、それが、自然とある秩序を形成している、ということを意味している。つまり、

  • ルールに先行する「(道徳)意志」

が、先験的に秩序を生み出している、というところが重要なわけである。まあ、これを簡単に言っちゃうと、

  • みんな「仲よく」やろう

という前提に人々は合意している、ということになってしまうわけだが。
例えば、この前、あるプロゴルファーが意図的にルール違反を行ったことがニュースになっていた:

「ルールを戦略的に使っただけ」。そう話すフィル・ミケルソンの行動と、全米ゴルフ協会(USGA)の裁定が波紋を呼んでいる。
ミケルソンは後半13番で下りのパットを打ったあと、小走りでカップを逸れたボールを追い越し、まだ動いているボールをカップに向けて打ち返した。ゴルフ規則14-5より2罰打を受けたが、「罰打と理解した上でやった。喜んで受け入れる」と故意の行動であることを認め、悪びれる様子もなかった。
ミケルソンがホールアウトすると、報道陣がアテストエリア付近の取材スペースに殺到。30分後に姿を現したミケルソンは経緯を述べた。厳しいコースセッティングで、かりに違反をしなかったらボールは傾斜を転がりグリーンを出ていたという。「早く次のホールにいきたかった。ペナルティの方が良いと判断した」と釈明した。
USGAは全組終了後に会見を開き、マイク・デービスCEOは「ルールに従いペナルティを科した。意図に関係なく動いているボールを打ったので2罰打」と説明。報道陣からはゴルフ規則33-7に基づく失格の判断も問われたが、「議論で出たが、その規則は非常事態でしか使われない。今回は適用されない」と明言した。
「ルールを戦略的に使っただけ」ミケルソンの行動とUSGAの裁定に波紋(ゴルフダイジェスト・オンライン(GDO)) - Yahoo!ニュース

このケースは、この前のプロボクシングのネリのケースと似ている。なぜこういった意図的なルール違反が発生するのかといえば、それはすでにその前に、そのルール違反の「罰則」の

  • 内容

が人々は「知っている」と思っているから、ということが分かる。それは、過去からの範例を見ることによって、彼らに「想定」を与えている、と。そして、その範例から、そう簡単には外れられない、と彼らが考えている。なぜなら、同じ違反に対して、違った罰則を与えればそれは「差別」だと考えられているから、と。
しかし、こういった考えは、上記で考察してきたメタ道徳理論と対立する。なぜなら。そもそも、この「プラットフォーム」に意図して反旗を翻すことは、まったく意味が違うからだ。
「ルール」は何が守られなければならないのか? それは、人々が「ルールを守らなければならない」と考えていること

  • そのこと

だ、というところにある。もしもそうならなければ、つまり、いくらでもルールを破るのだ、と多くの人が考えているなら、本来なら、それはまったく別の

  • ゲーム

であることを意味してしまう。だとするなら、上記のプロゴルファーは例えば、今季のツアーへの参加を一切禁止する、といったくらいの厳しい措置をしてもよかったのではないか、ということになるであろう。ではなぜそれが行われないのか? おそらく、そのことによる業界全体の「人気」への影響を懸念したのであろう。人気選手がツアーに参加しないというだけで、商業的な利益に差があるのだろう。しかし、こういった判断をしたことによって、プロゴルフは人々からの信頼というより重要なものを犠牲にしているわけである。
さて。サッカーW杯の試合が民放で放送されているが、フジテレビのテーマソングに、RADWIMPSの「カタルシスト」という曲が使われているが、このシングルのカップリング曲「HINOMARU」の歌詞が戦前の皇国史観を思わせるということで問題になっている。しかし、このことについては、ツイッターでバンドのメンバーの関係者が日本会議だとして、宣伝していたわけで、間違いなく、なんらかの日本会議的な文脈から現れたことは想像はつく(前回のオリンピックでの、椎名林檎の歌など、現政権の安倍首相の周辺を固める、日本会議の文脈と、今回のフジテレビや産経新聞とのつながりを考えれば、こういったものが、そういったつながりとまったく無関係であらわれると考える方がナイーブだろう)。
しかし、私には今回のこの問題のとりあげられ方そのものに違和感がある。それは、そもそも、RADWIMPSのヴォーカルの歌い方が、BUMP OF CHIKEN のヴォーカルに非常に似た(まあ、パクりだね)形で後から現れたことを考えてもそうだが(そういえば、アニメ「ピアノの森」のショパン・コンクール篇で、パンウェイという、中国人のピアニストが現れるが、そいつが主人公のカイの師匠の阿字野先生のピアノの「パクり」なんだよな。カイ自身は阿字野先生に自分の演奏の聞いたり真似することを禁じていたことを考えると、いろいろ示唆的ですな)、そもそも以前から、

  • 五月の蝿

というシングルの問題がいろいろと、特にフェミニスト界隈では話されていた(ここのところは、少し興味深くて、つまり、アニメ「君の名は。」の主題歌を提供し、その関連で、そのアニメの評価と並行して、このバンドを肯定的に語っていた連中にとって、この「五月の蝿」の歌詞の問題をなぜ彼らは考えなかったのか。というか、むしろそこは逆で、彼らは確信犯的に、この「五月の蝿」の歌詞に対しての肯定的な評価と並行して、アニメ「君の名は。」の評価があったのではないか。例えばそれは、会田誠の絵画への評価のように、美少女をグロテスクに描くことと、その「作品」の評価が通底するような関係として示されているわけだが、強いてお互いの違いを言うなら、片方は「ゾーニング」されているが、他方はされていない、というところにあるのだろうか)。
しかし、私などは問題はそこというより、もっと違ったところにあるのではないか、といった印象を受けるわけである:

イントロのギターの単音リフの音色はほぼ同じ。また、『あいつをどうやって殺してやろうか』と歌い始まる春と修羅と、『レイプされてポイっされ途方にくれたとてその横を満面の笑みでスキップでもしながら鼻歌口ずさむ』五月の蝿の歌詞のエグさも共通していて、印象的です。
https://www.itomanohanashi.com/entry/2017/08/07/085711

ようするに、この「五月の蝿」という曲は、きのこ帝国というバンドの「春と修羅」と非常によく似ている、という指摘なのだが、この曲をどうぞ比べて聞いてみてほしい。するとよく分かるのだが、このきのこ帝国の「春と修羅」は、とても興味深く「いい曲」であり、なにか、聞く側に「感動」を与えるようなものがあるのは、なぜなのだろう、というところであろう。
ここで、非常に特徴的なのは、上記の引用にもあるように、「春と修羅」の側は、例えば、上記の引用にもあるように、「あいつをどうやって殺してやろうか」といった過激な歌詞についても、なんというか

  • 抽象的

な印象があり、一方に「危険」な雰囲気をまといながら、他方で、とても味わい深い印象を残している。
他方、「五月の蝿」はなんだろうか?
私たちは、この RADWIMPS というバンドを

  • コミックバンド

と解釈することが重要なのではないだろうか。ここで、彼らが

  • 考えて

いることは、徹底して「ゲーム」なわけである! 先駆者としての「春と修羅」に対して、この「パクり」としての「五月の蝿」は

  • 春と修羅」が、ここまで過激にやれるんなら、これだってOKだよな

といった「勘違い」によって、恐しいまでの「ミソジニー(女嫌い)」を露悪的に吐き捨てる歌詞になっているわけであるが、ここで大事なポイントは、「彼ら」RADWIMPS 製作者サイドの連中は、そういった側面というより、必死になって

をどこまで「完璧」にやれるのか、のことに偏執的なまでにこだわっている。まるで、そこでさえ「勝て」れば、あとのことはどうでもいいかのように。彼ら

  • 優等生

は、そういった「ゲーム」に勝つことにしか興味がない。それにさえ「勝て」れば、あとのことは「なんとでもなる」といった感覚しかない。
しかし、東京五輪のエンブレムの佐野研二郎が、あれだけバッシングを受けたのに、これだけ「露骨」にパクリを行っている彼らの作品が、本当に JASRAC のような団体によって著作権が保護されなければならないようなものなのか(むしろ、彼らの方こそ、「パクリ」という手段によって、著作権を侵害し合っている連中なんじゃないのか、といった「批判」が行われないのだろうか)。
私に言わせてもらうなら、アンチ・エビデンシャリズムとは、この「パクり」のことなのではないか、と考えている。なぜエビデンスを示せないかというと、そもそも、それが「著作権違反」を犯しているから、ということになるであろう。だから、そのことを明示的に語れない。はっきりと語ってしまうと、それが著作権を犯していることが分かってしまう。だから、だれもはっきりと語らない。そうして、カルテル的に、パクリ作品で大儲けをし、その「権利」を JASRAC のような著作権団体が囲い込む。この犯罪者集団がカルテルを組んで、その「権利」を囲い込む構造がよく示されている、ということになるであろう。
私に言わせれば、そもそも RADWIMPS は「HINOMARU」問題さえ解決すれば、老若男女、なんのわだかりもなく「イノセントに楽しめる」ようなバンドではない。彼らはかなり「確信犯」的に、邪悪さを隠そうともしない「コミックバンド」としての危険さが特徴だと考えるわけであるが、大事なポイントは、これは

ではなく、

と考えなければならない、と私は考えるわけで、むしろそうであるからこそ、逆に、だから「HINOMARU」を「うさんくさい」側面は、むしろ作者たちの「確信犯」行為なんじゃないのかと疑うことには、一定の正当性がある、と解釈される、となるし、それだけでなく、そもそも彼らはこういった「プラットフォーム」の破壊集団としての危険さにこそ

  • 本質

があるのではないか、と考えるわけである。
さて、同じ問題を、最近アニメ化の中止が決定した「二度目の人生を異世界で」についても考えてみよう。
このラノベ問題は、ネット上では以下の二つに分けて考察されている:

  1. ラノベ作者のツイッターでの差別発言
  2. このラノベ自体の問題

しかし、驚くべきことは、このラノベ作者は、まさに「顕名」でここまでの差別発言をツイッターで行っていたことの不思議さにあるのではないか。

まいん氏を知るメディア関係者は「実際に会うと攻撃的ではなく、ちょっと自信のなさそうな人。"バカ売れ" したことに戸惑っている様子もあって、人から注目される存在に慣れていなかったのでは」と話しているが、もっとも問題だったのは「中国と同性愛者に向けた差別発言だった」という。
「中国はいま日本アニメ界のお得意様で、中国市場なしに成り立たないのに猿呼ばわり、これは日本の業界全体を敵に回すようなものでした。もうひとつ同性愛者の男性作家が激怒して問題が拡散されれいたんです」
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0616/ncz_180616_5381485521.html

普通に考えると、ちょっと考えられない異常さを感じさせるが、こんなことを書いていたら、もしも売れて有名になったら、どう考えても問題になるわけであろう。つまり、たとえそうなったとしても、今の、「ネトウヨ的快楽」に抗えなかった、ということになるのか。
上記の引用にもあるように、ベタに「同性愛差別」発言をやるというのは、ちょっと考えられないわけであろう。そんなものを、なんの匿名性もなしにやっておいて、なんで、ラノベのアニメ化が許されると考えるのか。
これも、上記までの議論と同じわけで、話は逆なわけである。こんなツイッターで発言するような奴が作った小説だから、どうせ、なにか、差別的な

  • 暗号

を作品の中に、まぎれこませて、なんらかの「悪」をパブリックに流通させることで「快楽」を感じようという、反道徳行為を「意図的」に行おうとするんじゃないのか、と、まあ当然のこととして疑われるわけである。
まあ、当たり前の話だが、私たちがだれかと仕事をするときに、なんにもないのに相手を「信用」するわけがないわけである。中国では、相手先の要人とまず一緒に食事をして、同じ釜の飯を食べることで、気心を分かった上で契約を結ぶそうであるが、海のものとも山のものとも分からない奴はたんに信用できない。というか、こういったことから分かるように、そもそもそんな奴を信用してはならないわけである:

第二次世界大戦で剣を使って殺戮......となると「百人斬り」が思い浮かぶのはもちろんですが、斬り殺した「3712人」という数字も、南京事件が起きたとされる「1937年12月」を想起させるもの。
さらに94歳という没年も、南京事件に関与していたとされつつも皇族として戦犯指定を免れ、天寿を全うした上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王(満93歳没)とほぼ同じです。
あくまで偶然かもしれませんが、一連の発言と合わせて考えると、中国の人々に対する悪意があったと受け取られても仕方がない状況となっています。
原作者の差別発言で主演声優全員一挙降板、「二度目の人生を異世界で」アニメ化中止で小説版は出荷停止に | BUZZAP!(バザップ!)

今回の事件では、もう一つ不可思議に思われている件がある。それは、なぜパブリックには声優たちの降板や、アニメ化の中止において、その「理由」の具体的な明示がなかったのか、であるわけだが、ようするに上記の引用が分かりやすいように、これが

  • 皇室問題

であるために、タブー化された、というわけであろう。
しかし、「南京事件」がなぜか、日本国内ではこれが

  • 国際問題

であることが忘れられた、内向きの議論ばかりが行われていることの異様さがよく、ここにも現れていることが分かるのではないか。
南京事件は「危険」である。それは、ここには戦前の日本の

  • 国際犯罪

が関係していることをよく分かっているからなのであり、そのことは、せんじつめれば、

  • むしかえす

ということを意味している。日本のネトウヨが愚かなのは、彼らの行為が結果として、「皇室の戦争犯罪」を「もう一度むし返す」こと(=リビジョナリズム)を結果としてもたらしていることの危険さへの感性がない。このナイーブさにこそ、この問題の特徴が象徴されているのではないか...。