人間以外の動物に「レイプ」は存在するか?

通俗的な生物行動学の本を読んでいると、人間以外の「レイプ」をする動物といったものの「例」が、いろいろに紹介されるわけであるが(まあ、この問題に精力的に取り組んだのが、いわゆる社会生物学と呼ばれる人たちの研究だったわけであるが)、こういった扱いには以前から多くの批判がされてきた。
それが言いたいことは、そもそも「レイプ」とは

  • 人間

について言われてきたことであるはずで、それを他の生物に対して、

  • 人間以外の生物も「レイプ」をやっている

といった形で適用することは、そもそも不適切なのではないか、というわけである。
これに対して、前回も紹介したエイオット・ソーバーの本では、それは「定義」の問題なのだから、本質的ではない、として一蹴しているわけであるが、考えてみると、なかなか興味深い問題がここにはあるように思われてくる。
というのは、ここで「定義」という言葉が登場することに、少し違和感を覚えたからだ。人々は言うまでもなく、日常的にさまざまに言葉を使って活動をしている。そうした場合に、それらの言葉はそもそも「定義」がされているだろうか? 例えば、次のようなケースを考えてみよう。ある二人の人が共同作業をしようとしていたとする。一方は相手に、なにかをしてもらいたくて、ある言葉を使ってそれを「指示」したつもりになっている。ところが、その人は、その言葉を一般的に使われている意味の反対の意味だと勘違いしているらしく、まったく反対のことを伝えてしまっていた。ところが、その相手は、なんとその言葉を今度も「反対」の意味なのだと勘違いしていたため、反対の反対で結局、お互いにとって「想定」していた通りの結果になってしまった、というわけである。

社会生物学への批判の中でつぎに私が考えたいと思うものは、以下のような提案に向けられたものである。この提案はデイヴィッド・バラシュの本『あなたのうちからのささやき』(The Wispering Within)でなされているものである(Barash 1979,pp.54,55)。

動物のレイプという考えに対し憤慨する人もいるかもしれない。しかし実際に起こっていることをよく見てみると、レイプという言葉を用いるのはまったく適切であるように思われる。例えばカモの仲間では、つがいが形成される典型的な時期は繁殖システムの初期であり、[そのとき]二羽のつがいは複雑だが予測可能な行動のやりとりを行なう。この儀式が最終的にマウンティング[交尾のためにオスがメスの背に乗ること]に至るとき、それがオスとメスの双方の合意に基づいたものであることは明らかである。しかし時折、うがいの一方のメスをよそ者のオスが突然襲うことがある。そうしたオスは通常の求愛儀式をまったく経ないで、明らかにメスが抵抗しているにもかかわらず、強引に手っ取り早く交尾しようとする。これがレイプでないとしても、レイプに非常に近いものであることは確かである。

人間におけるレイプは、文化的態度という[本能的行動を覆い隠す]極めて複雑なかふせ物(overlay)によって影響を受けているので、これほど単純なものでは決してない。それにもかかわらず、マガモのレイプやブルーバードの不倫は、人間の行動に対してある程度関連を持っているのかもしれない。人間界の強姦者はもしかしたら、犯罪という誤った仕方で、自分の適応度を最大化するためにできる限りのことをやっているのかもしれない。もしそうなら、人間界の強姦者たちは、パートナーを持たず、性的にあぶれたマガモとそれほど違わないことになる。もう一つの点としては、多くの男性は----自分でそれを認めようとするかどうかは別にして----レイプという考えに興奮する。このことは、彼らを強姦者たらしめるわけではないが、マガモと人間男性とのもう一つの共通点を与えるのである。

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上記の問題の批判者は、それは「比喩」だからダメだ、と言っている。しかし、そもそも比喩でない言葉などあるのだろうか? ここでは人間以外の生物に、もともとは人間の行動に対して使われていた「言葉」を「比喩」として使っている。しかし、そもそもこの「レイプ」という言葉は人間の間の、さまざまな文化的な関係を含意した上で使われているわけで、高度に「文化的」な、人間くさい意味をたくさん含んでいるものとして扱われている。
しかし、そもそもこの言葉を日常で使うときにしたって、別に私たちは、厳密な意味でもこの言葉の定義を意識して話しているわけではない。しかし、そうであっても、ときに、その聞き手側は、私たちが予想もしないような「深い」含意をもって、こういった言葉に反応した、議論をけしかけてくることがあるし、そのことを私たちは「ルール違反」といったように非難したりはしない(むしろ、自らの考慮不足を恥じることさえある)。
上記の引用の例でいうなら、あるカモの種類では、人間社会において問題とされるような「レイプ」と似た行為が

  • ときどき

見かけられる、と表現される(そしてそれは、この雄がその行為を行うときの「興奮」といった態度にさえ類似度が示唆される)。しかし、このように

  • 表現

した途端、私たち人間社会であれば、その女性の「自らの身体に与えられた屈辱」や「相手に尊重して扱われなかったことに伴う尊厳の毀損」といった感情がそこには「ある」として、つまり人間社会の

として、そういったことを「意図」して言われているのではないのか、といった含意を読み込まないことは困難なような印象をぬぐえない。
しかし、ふりかえってみて、なぜエリオット・ソーバーはこの問題を「定義」の問題として扱うべき、と主張しているのかを考えてみるとき、彼はもう少し違った視点、というか

  • さらにこの視点を徹底させる

ことすらを考えている、というところにその特徴があるように思われる。

例えばアレクサンダーは、叔父方委任(avunculate)と呼ばれる親族システムに従う社会と従わない社会があるのはなぜか、という問いに取り組んでいる。この状況下では、男性は自分の配偶者の子供より自分の姉妹の子供の世話をする。アレクサンダーによると、この親族システムは、男性にとって自分がわが子の本当の父親であると確信を持つのが非常に難しい社会で生じる。もし女性が十分多くの不特定の男性と関係を持つとすると、男性はおそらく、自分の妻の子とよりも、自分の姉妹の子と[平均すると]より多くの遺伝子を共有することになる。よってそうした社会では、男性は自分の妻の子よりも自分の姉妹の子を助けることで、自分の生殖的成功度を最大化する(自分の[遺伝的自己利益]を促進する)のである。
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大事なポイントは、この引用にあるようなアレクサンダーの叔父方委任ということが「本当にあるのか」どうかではなく、こういった「仮説」と上記の「レイプ」の例との、並行して見られる、ある一貫した観点の透徹をどのように考えるのか、にあるわけである。
私たちは簡単に

  • 自然

ということを言う。その場合、自らの「慣習」をもとに、「家族は大切」とか「自分の子供が一番大事」といったことをイメージし、その延長で、「レイプ」という禍々しい行為への禁忌(タブー)をイメージし、そういった態度が、ここで問題になっている

  • 人間以外に「レイプ」という言葉を適用することの「禍々しさ」

への嫌悪感を表明する。しかし、そもそも彼らが守ろうとしているのは、むしろ、上記のアレクサンダーの叔父方委任が示しているような、

  • 自分の「子供」が世界中で一番(自分にとって)「価値」がある

という自らの「価値観」が、もしかしたら、ちょっとしたことで「疑わしくなる場合がありうる」という、自らの

を成り立たせている、なんらかの「価値観」への

  • 攻撃

に対する「恐れ」が、こういった「レイプ」という言葉の人間以外への使用への(心のどこかで、なんとも言えない、暗澹として畏れを突き動かす)「動機」として機能している、ということもあるのではないだろうか...。