「真実」とは何か?

さて、真実とはなんだろう? こんなことを言うと笑われるかもしれない。それは、科学が追及しているもので、少なくとも私たちは科学が漸進的に「真実」に

  • 近づいている

ことを知っているじゃないか、と。しかし、私が言いたいことは、そういうことではない。例えば、机の上に、野球のボールが置いてあるケースを考えてみてほしい。
私は、今まさに、それを見ているわけで、間違いなく、目の前の机の上に、そのボールが置いてある、ということを知っている。しかし、そうではないわけである。つまり、「どこ」に置いてあるのか、と問うならば、それはその机の上の「どこ」なのかを問うているわけであるし、それに対して、机の右前のはじの方と言っても、それならそれで、その「どこ」と問うことになる。いや、もっとやっかいな話だってある。私が、だいたいそこで合っている、と言ってみたところで、なんかよく見ると、ちょっと違うような気がすると感じたとして、実際に何ミリかずれていたと。いや、間違いなく、ここで合っているとしか、どうしても思えないとして、本人はそう確信したとして、でも実際はずれていた。
いや。そもそも、本人が「よく覚えていない」と言い始めたとして、それでも、まあこの辺りであっているんじゃないか、と言い始めたとして、その場合、じゃあ、実際にどこにあることにしたらいいのだろう?
いや。そもそも「ずれている」とはどういう意味か? ある場所にあると言うとき、それを二次元の座標であらわすとする。しかし、その場合の「小数点第何位」までが「一致」すれば、それはその座標だ、ということになるのだろう? というか、そもそも「一致する」とは、なにを言っているのだろう? 円周率が小数点第何位であろうと「決定」していることは誰でも知っている。しかし、3・14辺りならまだいいが、さらに先の値について聞かれたとき、答えられる人はだれもいない。決まっているのに答えられないとは、なにを言っているのだろう? つまり、それの「真実」とはなんなのだろう?
ここで私がこだわっているのは「真実」である。真実なら、唯一無二の「答え」があるんじゃなかったのか? そうであるはずなのに、この「ていたらく」はなんなのだろう?
例えば、私たちが一般に、こういった「真実」に関係して問われる場面として思い浮べるものとして、裁判がある。しかし、裁判がそういった「真実」に関わるところなのかは、大いに疑問がある。
それは日本の裁判を見ているだけでは分からない。アメリカを考えると分かってくる。

英米法における裁判の目的は真実究明でなく、人々の利害調整をする場として裁判が機能する。共同体を代表する陪審員が犯罪性を認めなければ、あるいは被告人を赦すべきだと判断すれば、裁判の目的は達成される。被告人の人権を保護し、冤罪を防止する策として検察官上訴を禁止しても、このような裁判理念においては、論理的な不都合は生じない。また被告人が有罪を自ら認めれば、罪状の事実認定は公判にかけられない。真相究明が目的ではないからだ。

神の亡霊: 近代という物語

神の亡霊: 近代という物語

アメリカ合衆国では、陪審員が法規定を故意に無視することがある(jury nullification)。例えば安楽死幇助罪で裁判が行われ、無罪判決が下されたとしよう。安楽死の禁止規定を陪審員が理解しなかったのか。あるいは理解した上で、安楽死を禁ずる法律に反対したのか。被告人が善良そうなので、法律が定める厳しい刑に処するのは酷だと判断し、無罪放免した可能性もある。だが、判決理由がないから真相はわからない。
神の亡霊: 近代という物語

アメリカでの裁判で、下級審の陪審員が無罪としたとき、検察官は上訴ができない。これは驚くべきことである。私はここで「真実」はなんなのか、と問うていたはずだ。そうであるのに、なぜこの「議論」は終わりにさせられなければならないのか? それは言うまでもない。アメリカにおける裁判が「真実」を目的としていないからだ。
そもそも、「真実」には、ある

  • 傾向性

がある。

判決に限らず、科学や哲学の命題でも、肯定するより、理由を明示して否定する場合の方が大きな労力を要する。裁判官は常に多くの事案を抱え、犯罪解明にかけられる時間に限りがある。そのため、有罪判決へのバイアスが無意識に働くと裁判官自身も答えている。
神の亡霊: 近代という物語

例えば、社会生物学における「適応主義」を考えてみればいい。この仮説を主張することは、それをなんとなく「ほのめかす」感じの話を、どこかから探してくればいい。では、逆はどうだろう? もしもこれが間違っていると主張しようとしている人がいるとしたら? その人は恐しいまでの「労力」を要求されることになる。
しかし、一般に普及した進化論の本は、ことごとく、「適応主義」が

  • 真実

であることが科学の進歩で分かった、といった言い回しの科学いけいけどんどん主義者の急進派のイデオロギー本ばかりで、今さらそれを疑っている連中は、科学の進歩を理解できない過去の遺物とでも言わんばかりの嘲笑なわけであろう(なんか、最近のAIとかシンギュラリティ本みたいですねw もっと言えば、文化大革命紅衛兵とか)。
しかし、このことを一つの例として考えてみたとき、科学が「キリスト教」と同様の構造になっていることに気付く。社会生物学の適応主義を主張している人たちとは、ある意味で、聖書のある文言の解釈を主張している人たちと近似している。それはまさに、神学論争なのであり、正統と異端が激しく罵り合い、血みどろの闘いが行われる。
ところで、私たちの日常において、そういった「真実」といったものが問われる時というのは、どういったときだろう?
それは、例えばキリスト教徒が教会で、懺悔の「告白」をする場合を考えてみるといい。同じように、私たちが「神に誓って約束する」と言うような場合を。ある事件の当事者が、その事件が一般に世間のニュースなどで知られている情報に対して、それが間違っていることを知っている場合を考えてみよう。なぜ、その人は、それが間違っているのを知っているのか? それは、まさに当事者だから、その場にいたから。しかし、その人はそれを誰にも言わないと決めている。死んで、墓場までもって行くと決めている。私たちが思い浮かべる「真実」とは、主に、こういった文脈で使われる。
ようするに、真実と私たちが呼んでいるのは、ある「差異」に関係している。その違いの個々具体的な様相において、素朴に当たり前に思っている「間違い」のことを言っているわけで、どちらかというと大事なのは、

  • 主観

の側の構成するフレームからの違和感の方にある。
私たちが生きている上で「認識」と呼ばれるものには、二つの種類がある。いわゆる「客観」と「主観」である。主観とは、まあ「内面」のことである。今まで生きてきて、ものごころついたときから、私は「私」という一つの一貫した「なにか」として受け取っていて、それがどこかで切れていると感じることはない。この連続性、一貫性が、なぜそのように思われるのかを考えることは興味深い。というのは、それは「客観」の方に関係しているからだ。客観とは、他人たちみんなが一様に言っていることと考えればいい。みんなが言っているのだから、それが正しい、というわけである。それは、主観のように、私が確認したことでなくてもいい。そうでなくても、みんなが異口同音に同じことを言うのなら、みんなが口裏を合わせることは不可能だから、一定の信頼性があるだろう、と考える。まあ、これが「科学」だと言ってもいい。
客観は主観の中にはない。主観が「内側」なら、客観は「外側」である。しかし、ときに私たちは他人がなんと言っていようが、自分はそれが「間違っている」ことを知っている、と考えることがある。それが上記のような、当事者としてその場面にいた数少ない人間だと自覚しているからで、その秘密を墓場まで持って行くことを心に決めている場合だ。もちろん、それを語ってしまえば、それは一つのパブリックな議論の場で検討されることになるので、秘密ではなくなる。そう考えれば、これは「あえて」その人が

  • 言わない

という行為が関係した秘密であることがわかる。なぜ言わないのか? そこには、さまざまな理由が考えられるのかもしれない。今さら、ことを荒立てたくないとか、今この平穏な状態で身近な人たちは相対的に平和なのだから、とか。
ここのところは重要で、ようするにこの人は「神の前」では、それを言うわけである。なぜなら、神の前では「真実」を話さなければならないから。これを信じられない人を、キリスト教徒とは言わない。ということはどういうことだろう? 結局のところ、「真実」とは、

ことと密接に結びついてでしか考えられないものなのではないか? 私は今、当事者として、その場面に居合わせたことから、世間で言われていることが嘘であることを確信している、とする。しかし、時間の経過と共に、自分の身の回りに、それを示す証拠もなくなっていき、次第に、そのときの記憶も朧げになっていく。そして、その何人かは、実際に死を迎える前に、痴呆症などの脳の障害で寝た切りの生活で余生を過すことになるかもしれない。
しかし、「真実」はある。
キリスト教徒はそう言うわけだが、そうなったとき、それは一体、誰がそう言っているのだろう? 神に話しかけるはずの「その人」がすでに、

  • 神を忘れている

というのに...。