偶像崇拝についての考察

まあ、ツイッターでは、ラノベの表紙が「エロ」で子どもが気持ち悪がってるから、「ゾーニング」してほしい、みたいな話がもりあがっているわけだが、なぜそこでの議論がすれ違うのかと言えば、ファミニストが言っていることは

  • 民主主義

によって、世の中の「悪」を減らして行こう、という話なのに対して、リベラル的「サブカル」擁護派が言っているのは、

とか、

の話なわけで、つまりは善悪の話を「やらない」ことが前提になっているからであろう。
つまり、そんなレベルなら、まあ、ナチス・ドイツが言っていたことだって、「表現の自由」になるわけで、なんら共同体的な「規範」は作られないわけで、別に少しも、おもしろい話じゃない。
「道徳」とは、そもそも、ある共同体内における「約束事」のことであって、その共同体に所属している人たちで決めた「約束」を、みんなで「守ろう」という考えなのであって、その志を共有しない人たちは、たんにこの共同体の「外部」であることを意味しているに過ぎない(言うまでもなく、国家であれば外国人や観光客であり、村社会であれば、外の人というように、このことは、この共同体に所属しない人と私たちが「共存」していないことを少しも意味していない)。
それに対して、「言論の自由」のようなものは、「リベラル」と言うより、

と言った方が正しいわけで、世界中の人に適用できる倫理は、そういった範囲の合意を求めることは難しいのだから、極力、少なくなるといった話なわけで、そういった「最低限」のルールさえ守れば、私たちが

  • 人間らしい

と考えるかは、また別の話なわけである。
ある一定の地域の、一定の規模の人たちで、ラノベの「ゾーニング」を目指すとして、それが認められる可能性はあるだろう。そもそも、そんなことは、各書店の自己判断でやればいい、とも言いたくなる。それに反対なら、そういった人たちで、なんらかの圧力運動を行っていくのだろうが、そういった場合の上記のような「グローバリズム」によって、その主張の正当性を強調することは、論点を外している、と言わざるをえない。
ただ、私がこの議論に、一定の「不満」を覚えるのは、こういった「ゾーニング」の要求が不当だから、といったレベルの話ではなくて、逆に

  • それを言うんだったら、もっとラディカルに要求すべきじゃないのか

といった、むしろ、要求側の「不徹底」に違和感があるから、ということになる。
例えば、キリスト教一神教における「偶像崇拝」の問題を考えてみよう。なぜ偶像崇拝は「悪」なのかといえば、それは

  • 間違った神

を崇拝しているから、ということになる。ということは、そもそも、この世の中にある、あらゆる「造形物」は基本的に、「偶像」だということになって、ユダヤ教なんかがそうだと思いますが、すべての「造形物」を拒否する、ということになる。
つまり、ラノベの表紙がどうのこうのじゃなくて、

  • すべての本の挿絵

を拒否しなければ「おかしい」ということになる。
しかし、フェミニストも「そこまで」は要求していない。つまり、フェミニストは自らで

  • それが「悪」の「造形物」であるか、「善」の「造形物」であるか

を区別できる、ということを主張している、とも聞こえるわけである。ある人間が描いた絵があるとする。その「絵」は「善」であろうか? この「絵」が「善」か「悪」かは、その絵を描いた人が、

  • どういった考えで、その絵を描いたか

に依存する。つまり、「イコン」というジャーゴンを使う人もいるが、その絵の、一つ一つの造形が、「なにを意図して描かれたのか」に依存してしまうわけである。
悪人は、基本的に自らの「悪」行為が世間にばれないように、隠して生きようとする。よって、悪人は、その絵に「悪」の意図を込めて描くのだが、大衆はそれに気付かない。これが「善」によって描かれた「聖者」による恩寵だと思って、あがめたつまつってしまう。しかし、「悪」にとっては、それこそが目指す目的なわけであろう。人々を知らぬうちに「悪」に染め、自分と

  • 同罪

の底にまで突き落とそうとする。そして、それを悦楽する。こういった「悪」の「たくらみ」が成功する世界が

  • 世紀末

なわけである。
そもそも、宗教とは「善」と「悪」の区別を前提にする。どうすれば、私たちが「悪」にコミットすることなく、「善」を生きれるのかを、あらゆる細部にまで考察するのが宗教なのであって、そこに例外はない。つまり、こんな「ラノベ」の「挿絵」レベルに対してさえ、その「善悪」を考えざるをえないわけである。
ここで、ある疑問がわいてくる。それは、「言語」である。なぜ同じような議論を「言葉」に対して行わないのか? この指摘は正しくて、悪は、さまざまに「暗号」を、あらゆる文章の中に隠し込めるわけで、同様の問題に悩まされると解釈できる。ただし、言語の場合は、少なくとも、それぞれの記号の意味は、

  • 一義的

には決定されている、と解釈できると考えて、いったんこの問題を無視するわけである(だから、哲学者が奇妙な造語を作ったり、奇妙なレトリックを使ったときは、別で、警戒される、という形になっている)。
しかし、である。だとするなら、どうしたらいいのだろうか? 
おそらくは、大事なポイントは

  • この「原則」を変えない

というところにあるのだと思われる。つまり、どういった場合に、こういった「偶像崇拝」が許されるのか、と考えてみよう。
まずは、極力、人間の「意図」が排除されている、と解釈できる場合は、限定的に許してもいいんじゃないのか、と考えるわけである。例えば、サインXのような、二次元のグラフをコンピュータで描いたようなものは、その人間の意図が介在しづらい範囲において、認められる可能性があるだろう。
次に、ある「目的」において、「しょうがない」側面がある場合である。人に道を教えようとして、この場合は、なんらかの「地図」を描いてあげた方が効率的な場合がある。だったら、その「範囲」で、こういった行為に対して、許容的であることは考えられるだろう。
この延長で、ある程度の範囲において、漫画やアニメであろうと認められうるのかもしれない、と考えることはできるだろう。
しかし、いずれにしろ大事なポイントは、そういったものは常に制約的であり、常にこの規準に戻って判断される、という原則の方なのだろうが、さて。それはどのような態度のことを言っているのだろうか...。