再帰的社会

私たちの人生は、産まれてから死ぬまでの、一つのプロセスとして捉えられていて、いずれにしろ、産まれて死ぬまでに行うことが「意味があるのか」とか「なんのためなのか」だとかに悩むとされている。
しかし、多くの人たちが考察しているように、ひとたびこの

ができてしまうと、話はそう単純ではなくなる。それは社会契約論を考えてみても分かる。原始の社会契約によって、私たちはある「合意」を行うことで、今ある国家が生まれた、と言うとき、その

  • 最初の世代

にとっては、その国家は「英雄時代」と言ってもいいような、すべてが「始めて」で覆われた、新鮮な日々の連続を意味する。ところが、

  • その後

にとってはどうだろうか?
すでに国家は完成している。そして、次の世代は前の世代の

  • すべての情報

をもっているのだから、今後起きることとは、それとの「差異」においてしか情報的価値がない。逆に言えば、すべて同じなら、産まれてきたことの意味さえない、とすら言われかねないわけである。
再帰的とは、ある行動を行うとか体験するとかいうことの「前」にすでに、そういったことが予期されて、いわば「待ち構え」られていて、一切の行動が、そういった過去の「情報」との諸関係においてしか行われえない、といった状況を意味している。
しかし、である。
そうすると、そもそも、なにをやっているのか分からなくなる側面があるわけである。最初の世代は、それが「それ」を目的にして行われることをだれも疑っていなかった。ところが次の世代になると、「それ」はすでに

  • 自明

なこととして扱われる。よって、あらゆることは「それ」があることが最初からデフォルトになってシステムが構築されるわけで、そういった環境においては「それ」があることが前提の上で、「なにか」を行うことには意味があるのかどうかが問われることになる。
しかし、そういった態度はよく考えると矛盾である。なぜなら、第一世代の視点に戻って考えてみれば分かるように、「それ」がそうであるのは、そもそものこととして「それ」を「それ」と扱うこと自体に意味があったからなわけであろう。
だから、それを「それ」と呼んでいたのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。つまりはもしもそれが受け入れられないのなら、たんに「それ」を「それ」と呼ぶことを止めればいいだけなわけだ。
しかし、第二世代以降、そういった態度は次第に維持しがたくなっていく。ケインズ美人投票に対して、「だれかが美人と言っている人」に投票するのは、たんに投票の「戦略」の話をしているのではない。そうではなく、本当に

  • 自分が「美人」だと思う

  • だれかが美人と言っている

の「区別」が分からなくなっていった、本気でこれがなにを言っているのか分からなくなった、第二世代以降の「再帰的マインド」を言っているわけである。
再帰的社会とは「差分」的社会である。つまり、前世代は「情報」として「存在」するだけではない。それは「今」と同値の形で

  • 存在

しているが、ただし一つだけここには区別があって、それが「差分」である。つまり、後世代はそもそも産まれた時点で、

  • これから死ぬまで

に何が起きるかは、統計的に「シュミレーション」されているという意味で、

  • 悟り世代

となるわけだが、そんな彼らがじゃあ「生きる」とは何を意味しているのかというと、この「差分」を巡って、その「意味」についての弁証法を行う、というわけである。しかし、言うまでもなく「差異」とは、「誤差」という言葉と近い関係にあるわけで、ようするに、ほとんどの人生で起きることは、

  • (誤差の範囲で)なにも変わらない

という結論になるわけで、その道筋は暗雲がたちこめる、暗い道程と言わざるをえないわけだが、こういった態度は、ある意味で、カント哲学から、ヘーゲル哲学への素朴な転向が与える結論と考えることもできるかもしれない...。