「普遍的」実在論に対する批判

最近はどうも会話が通じないなと思うことが多くなっている。その代表的な例が「普遍的」とか「実在論」という言葉に対して思うわけだが、どうもこれらの言葉を使っている人は、それが本来指しているものと、まったく別のことを語っているんじゃないのか、という疑いを感じざるをえない。

意識現象のほかになんらかの実在 realitasを認め,その認識が可能であるとする存在論
実在論(じつざいろん)とは - コトバンク

この後半に注意してほしい。カントは存在論に先行して「認識論」の優位を問いたわけだが、実在論とはそれに対して、「存在」の先行性をたんに主張しているわけではないわけである。そうではなく、その先行している「存在」の

  • 認識が可能

ということを主張しているわけである。ところがなぜか、世の中の「実在論者」(まあ、科学的実在論者と言ってもいいが)は、この後半の部分を無視する。
なぜこの後半が重要なのか? なぜなら、もしも前半だけであるなら、

  • だれにも論証できない

から、「科学」にならないからだ。ということは、どういうことなのだろう? ようするに、「普遍的実在論者」は、なぜカントが「認識論」の優位性を主張したのかの、この深刻さをよく分かってないんじゃないのか、と思われるわけである。

存在論と認識論は密接な関係にあるが,たとえばカントは物自体の実在を認めるがその認識可能性を否定するから認識論的には不可知論であって,存在論実在論が必ず認識論的実在論をとるわけではない。
実在論(じつざいろん)とは - コトバンク

さて。どういうことなのか? そもそも、実在論とは、スコラ哲学における「普遍論争」から始まった分類に関係して使われた用語で、その当時は「実念論」という呼称の方が普通であった。その場合の議論のポイントは、個々の個物の「実在」ではなく、

  • 真の

実在が問われたわけで、ようするに、実在論とはプラトンイデア論のことなのだが、なぜか多くの「普遍的実在論者」は自らの主張を、プラトンイデア論だとは思っていない。
よく考えてみてほしい。これは、日本語の翻訳も悪くて、そもそも実在論とは「リアリズム realism」のことなわけである。つまり、そこにおいては、「仮の実在」と「真の実在」との区別があるわけで、この感覚がなぜか彼らからはいつからか、失われたわけである。
このことは「普遍的」という言葉にも指摘できるわけで、一般に「普遍的」とは「ユニバーサル universal」と対応させがちであるが、これはそもそも「宇宙」のことを言うわけで、今の文脈とは合わないわけで、そうではなく、もう一つの意味である

といった「キリスト教」的な概念の方に、ひっぱられて考えがちな傾向がいなめないのではないだろうか(まあ、正統と異端、ということですね)。
そもそも、科学がなぜ「実在論」を強いるのか、といった視点で言うなら、それは

  • 再現性
  • 相互チェック性

にこそ代表されるだろう。この「偶然にしては、あまりにもできすぎている」という、科学者の直観が、その「客観性」であり、その先に「なにかがある」という確実性の感覚を与える、と考えられるだろう。何度も何度も同じようになる。だとするなら、これを「実在=真実」と呼ぶことには「正当性」があるんじゃないのか、と。
このように考えると、この考えは、そう簡単に無視できない説得力があるんじゃないのか、と思えてくるだろう。
しかし、もう少し冷静にこの問題を考えてみましょう。
例えば、リチャード・ローティの「鏡理論」を考えてみてほしい。私たちは外界を「認識」するが、それによって生まれる「私たちの中の情報」は、言うまでもなく有限である。つまり、私たちの中の「鏡」は外界そのものと

  • 同一ではない

わけである。しかし、なぜ「同一」でないのに、「それ」について「分かって」いるかのような態度が許されるのか? ここには「実在論」の最初の欺瞞があるように思われます。
科学において、「予測」と「実在」は区別できません。予測したようにそれが「ある」から、<それ>は「ある」と言えるということが成立する。
こんなふうに考えてみましょう。科学とは、人間が自然に、ある操作を行なったときに、その応答を予測できる、というものです。これを

と言います。しかし、そもそもニュートン力学における「三体問題」でさえ、厳密解(まあ、一般解)は存在しないことが分かっています。せいぜい、特殊解や、近似(月と地球と太陽では、月を無視できる、といったような関係)や、シュミレーションができるくらい、というわけです(まあ、方程式が書き下せる、というレベルでは「決定」してますから)。
これは、驚くべきことです。ニュートン力学などという、あまりにも基本的な法則が、一つの質点や、二つの質点の範囲を超えた時点で、

になってしまうということは、あまりにも、この理論の「弱さ」が一般に知られていないわけです。
(しかしこの「限界」が、それ以降の物理学の方向、つまり、統計力学や、量子力学の誕生を予感させた、と言うこともできるでしょう。ニュートン力学の「三体問題」が解決しないということは、「より小さな」実在における「関係」に本質があるかもしれない、という予測を強いるわけで。)
例えば、以下では、ある日本の物理学者がこういった「普遍性」や「実在論」について、少し変わった感じで語っています。

物理学を学んでいて,「何故こんなにうまくいくのだろう?」という驚きや疑問を感じたことはないだろうか?
What in universe is "Universality"?

これこそが,(私見では)物理学を支える最も重要な概念である「普遍性 (universality)」の一つの現れなのである.
What in universe is "Universality"?

「普遍性」とは,物理系の(マクロな)ふるまいの本質的な部分が,系の(ミクロな)詳細には依存しないという経験事実を指す.
What in universe is "Universality"?

この著者はなぜ物理学の各分野がここまで「整合的」なのかを不思議がっているわけであるが、ここで大事なポイントは、この物理学者の主張する「普遍性」が、あくまでも

  • 物理学の中だけで閉じている

というところなのだ。
ようするに、こういった「普遍性」という言葉の使い方が、例えば、「キリスト教」における「正統と異端」といったようなものとは、まったく違っている、ということに注意しなければならないわけである。
最後に、一つ、数学における例を丁寧に検討してみることで、この問題をもう少し見通しよくしてみたい。数学では、バナッハ=タルスキーの定理、という有名な定理がある。スイカを有限個の分割して有限回の回転と並行移動を行えば、地球になる、という定理なのだが(あくまで、幾何学の命題)、

  • そんな馬鹿なことがあるか!

と、あなたは怒るだろうか? スイカなんていう小さなものが地球になるわけがない。そう思った人がまず最初に疑うのが「選択公理」ということになるだろう。
しかし、こういった方向の解決策は、一見本質的に思われるが、それは今の数学体系を「どのレベルで救済するのか」といったレベルの話に下げているに過ぎず、私には本質的ではないように思われる。
(確かに、選択公理が「あらゆる」集合に対して成立する、というのは、ものすごい強力な公理である。そこで、この集合を「可算」集合に限定すればいいんじゃないのか、とはまず考えるだろう。しかし、ツォルンの補題という形でではあるが、現代数学のあまりにも基本的な定理が、この「あらゆる」集合に対して成立するという選択公理を前提としていることを考えると、そこまで範囲を狭めることは、数学を狭くしすぎる、といった主張もでるだろう。しかし、だとしたら、この間の「どこ」を規準にしたらいいのか? いや。そもそもこういった議論を疑おう、といったことが目的だったのではないか?)
やはり、この問題の本質は、カントであり、ブラウアーの直観主義的数学の方にこそあると考えるべきで、たかだか有限な人間にとっての「数学」とはなんなのか、と問うべきなのだ。つまり、数学を「神の視点」を前提としたものとして扱うのか、あくまでカント哲学がそうであるように、有限なる人間にせいぜい可能な範囲のものとして扱うか。
バナッハ=タルスキーの定理の本質は、この

  • 有限個の分割

を、絶対に人間は「構成」できないというところにあって、構成はできないけれど

  • 存在

する、と言うことに果たしてなんの意味があるのか、という問いなわけである。
私たちが直観的に、「スイカが地球になるわけがない」と思うことは、この「有限個の分割」の「中身」について深刻に考えてないことを意味していて、なぜ「あらゆる」分割の中に、そういったものが「あるはずがない」と言いたいと思ってしまうのか、なぜ「そんなことがあってもいい」と考えられないのか、ということを深刻に考える必要がある。
つまり、何度も言っているように、そもそも人間が「構成」できない、あくまでも「存在定理」という形でしか、その存在を主張していないものについて考えるということが、一体なにを意味しているのか、という問いなわけである。
しかしこれを、「普遍的実在論」の文脈で考えたとき、そもそもこれを問うことに「答え」を与えることは何を意味しているのだろう? バナッハ=タルスキーの定理が言っていることが、現代数学の中で、それが「ある」ということは、「選択公理」が正しいと言っていることと同値だと解釈するとして、「ない」と言うことは、もう少し「選択公理」を狭めなければならない、という解釈に、ひとまずはなるとして、つまり、どっちが

  • 真実

なのかは

  • 本質的ではない

わけである。しかし、「普遍的実在論」という立場を主張している人たちにとって、こういった態度は許されるのだろうか? どっちなのか? 「普遍的実在論」は、これに対して

  • 今は分からない(科学がまだ進歩していないから)

と主張することは許されても、

  • はるか未来には、科学は「真実」に近づく(つまり、どっちが「真実」なのかが分かる)

となるわけだ。
ところが、である。
そもそものその、数学の定理

  • 自体

が、

  • どっちが「真実」なのかは「本質的」ではない

といった

  • 内容

になっている、という(まあ、カントの言葉で言えば、「アプリオリ」に、どっちなのかは本質じゃない、という「内容」になってしまっている)深刻な事態だ、というわけで、いや、しかしそれでも

  • 我が「普遍的実在論」は永遠に不滅です

と、往年の長嶋茂雄のように、高らかに「普遍的実在論」の「勝利宣言」を繰り返していればすむ話なのかは、私にはさっぱり分からないわけです...。