暴力は減った?

まあ、あまりにも今さらな感じのことを書くのだが、以下で、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』についての批判に対して、言及がされている。

本のメインテーマは「現代は人類の歴史において最も暴力の少ない時代である」「古代から現代にかけて、様々な要因(政府や警察などの制度が整う、通商が活発になる、理性や道徳が発達する、など)によって、暴力は減り続けている」ということである。
『暴力の人類史』の書評が気になった - 道徳的動物日記

とあるので、この本には

  • 暴力

に対して、過去と現在を比較するための、なんらかの「指標」が「発明」されて、説明されているのかな、と、素朴にこの個所を見て思ったのだが、このブログ記事を読んでいると、どうも雲行きが怪しくなってくる。

「暴力的」とみなされる出来事が時代によって違うことや残存する資料の絶対数の問題があり、得られるデータの量や種類も時代によって違ってくからこそ、章ごとに「この時代については、このタイプの暴力についてのデータがあるので、これを基に論じていく」とせざるを得ないのだろう。統計やデータの種類や質については毎回明らかにしているのだから、これを「トリック」と呼ぶのは、悪意が感じられる。
『暴力の人類史』の書評が気になった - 道徳的動物日記

まず、「悪意」が感じられるか感じられないかの話はともかく、ようするに、ピンカーが「採用」した、現在と暴力を「比較」するための、データを扱うための手法は

  • 業界的な合意がとれていない

でいいんですかね? 「悪意」云々の前に、ここをはっきりさせてもらえませんかね。その上で、ピンカー先生が行った「統計的手法」は、業界的に受け入れ可能なのかどうか、を教えてもらえませんでしょうか?
3・11の、原発事故のときも思いましたけど、こういった10年単位とかでしか起きない「過酷事故」で、福島一帯が避難地域となって、住民が立ち入れない地域が膨大に作られるようなことを、

  • 期待値(つまり、平均)

で比較してはだめですよね? これは合意があるのかな?
次に、現在の幾つかの国で所有されている

をもしも、なんらかの理由で「使った」ら、その使った数によっては、人類は滅びますよね? その場合、滅ぶ前と滅んだ後で

  • 暴力が増えた

とか、

  • 暴力が減った

とか、そういう話をされるんでしょうか? つまり、滅んでなければ「暴力がない」で、滅んだら「暴力があった」みたいな話がしたいのなら、私には関係のない世界の戯言でしかないので、この話、どうでもいいですw