掲題の著者は、そもそも、どのような「立場」から議論しているのかを踏まえない限り、私たちは彼の議論にコミットメントできない。ここでは、それについて少し考察してみよう。
哲学的疑問は理解されない。哲学はつねに無力であり、力があるのは科学や常識や思想である。
ここは、前書きで子どもの頃の体験から述べたものであるが、注意がいるのは
- 科学
の扱いである。掲題の著者は、科学が「哲学」と「対立」した形で理解されている。彼の言う哲学は、人々から理解されないものであるのに対して、科学は人々に理解される。そういう意味で、科学は哲学を「疎外」している、と彼は解釈する。よって、哲学を行うことは必然的に科学と
- 戦う
ことを意味する。つまり、「科学」以外に世の中には「言うべき」ことがあるんだ、ということを証明することが哲学の役割ということになる。
しかし、五分前に(われわれの記憶とは独立の)過去そのものができたという話を加えると、そうはいかなくなる。それは不可能なのという議論は、全能の神でさえそれはできないという形に翻訳される必要があるのだ。神なら五分前に突如として世界を作ることができるという「神の全能」と対比されたときに、はじめて意味をもつからである。
たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたか、というこの違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在する。しかしなぜ、われわれの能力によってその違いがけっして識別できないのに、違いがあることが理解はできるのだろうか。
それは、つまり、われわれが神を信じているからなのである。神の存在を、というよりは神の概念を、つまりわれわれに理解できる全能者という概念を、である。、
言い換えればわれわれは、(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別しているのだ。重要なのは真ん中である。つまり、識別はできなくても理解はできるという領域を認めること。それによって、われわれはある種の超越性を容認しているのである。
つまり、永井先生はある種の
- 神学
を主張されているのである。それを彼は「哲学」と呼んでいる。上記の引用で大事なポイントは、五分前に神が突如として世界を作るということを永井先生の言葉を使えば
- われわれの知性にはその違いが理解できる
ということが、果して何を言っていることになるのか、に関係している。私はこれを「神の視点」と言っているわけだが、有限なる私たちは、しょせん
- 人間の視点
しかもっていません。よって、この永井先生が、「われわれの知性にはその違いが理解できる」と言ったことが
- どういう意味なのか?
をまず、はっきりさせなければなりません。つまり、人間が実際に「行える」ことは、科学しかないわけです。よって、
- この世界が五分前に作られた
ということを「証明」できるのか、そのメカニズムを解明できるのか、と問うことになります。できないのなら、これは「科学」ではないわけです。よって、この命題は有限なる人間が扱えない類いだ、ということになります。
私の立場は、徹底的に
- 神の視点
を排除することです。それ(つまり「神の視点」)は、あくまで「詩」とか、「比喩」として語られているものとして扱い、私たちの
- 科学
の文脈から排除する、ということです。
ある意味で、上記の問題をカントは「理念」という言葉を使って、肯定しました。それは、なんらかの意味で、道徳的に私たちの倫理的な衝動を望ましい方向に向かわせるなら、と、その範囲で「理念」の存在を認めた、ということです。しかしそれは、その限りでしか正当化されません。彼の哲学は、徹底して「有限なる」人間の哲学だったのであり、そこには厳密な区別があったわけです。
さて。いずれにしろ、私の立場と永井先生の立場に大きな違いがあるとして、そこからさらに、永井先生がどのような主張をされているのかを確認してみよう。
では、現実に存在するのは割腹自殺した三島由紀夫だけなのはなぜか。その理由は充足理由律が与えるだろう。このとき登場するのが、神が最善の世界を選んで創造したという、あの悪名高き最善観(オプチミスム)である。しかし、神がどういう理由で現実世界を選択して創造したのであれ、そのとき神は何をしたのか。神の選択規準がどのようなものであろうと、そもそもそれは何の選択規準なのか。重要なのはこちらである。
この問いは、その概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないものの存在によってしか答えられない。ライプニッツの場合、それはもちろん神である。神は自分の知性の中からある種のものを選んで、自分が持っているような性質を与えたのだ。私はこの思考にかなりリアリティを感じるが、現代日本の多くの人々にとって、これはわかりにくい思考の道筋であるにちがいない。
ここで、永井先生は自らが、ある種の「ライプニッツ主義者」であることを告白する。しかし、それだけにとどまらない。永井先生の持論によれば、ライプニッツの言う
- 充足理由律
はそれが「最善」となっているということがどういうことなのかが「本質的」ではない、と言う。つまり、いずれにしろ、
- 神が選ぶ
というところが重要なのであって、その選択の意味を人間が理解できるかできないか、ではない、と。
しかし、である。
ここは重要なポイントである。というのは、この考えはすでに、
- カンタン・メイヤスーの「非理由律」
と変わらないことを述べてしまっているからだ!
カントは我思うゆえに我ありという原理だけから客観的世界の存在が証明できると言った。しかしこのことは、世界全体を経験する単一の非物質的な主体(肉体から離脱した霊魂あるいは自我)が実在するという意味ではない。世界を成立させるはたらきそれ自体もやはり世界の中に位置づけようとする傾向のために、われわれは、統覚のこの統一作用を世界の中にある単一の非物質的主体であるかのように誤認しがちである。だが、経験を可能にする統一のはたらきは世界を成立させることそのものなのだから、世界の中の一対象として現れることはできないのだ。客観的世界とそれを成立させる心のはたらきとの、この表裏一体の認識は、カント哲学の比類なき洞察である。
おの洞察によって、私が同じ私でありつづける条件と世界が同じ世界でありつづける条件とが文字どおり一体化する。この洞察によって、私が二つに分裂するという思考実験が世界そのものが二つに分裂することとして理解されなければならない必然性がはじめて理解され、「私の今」が突然三十年前に戻ってしまうと無関係な森昌子も「せんせい」を詠ってデビューせざるをえない必然性がはじめて理解される。
だが、カントのこの比類なき洞察にも、致命的な何点が含まれれいる。たしかにカントは統一的な客観的世界の成立可能性の条件を示した。だが、統一的な客観的世界はまだ唯一の現実的な世界ではない。統一的な客観的世界としての条件を見たすもののうち、どれが唯一の現実世界となるのか。ライプニッツにあった唯一の現実世界の成立条件の問題が、カントにはないのだ。決定的とも見えるカントの批判からデカルト擁護する道が、そこになお残されれいるはずなのである。
上記の最初で、カント哲学が「客観的世界」と「それを成立させる心のはたらき」を
- 区別できない
と言っているのは、ようするに人間という「観測装置」が「成立」するということと、その成立がこの世界の中で「行われる」ということが、決して分けて考えられないという意味であって、そのことを端的に言っているのが「統覚」という言葉なわけであろう。
私たち人間は、「観測装置」であるが、これは確かに基本的な骨組は幼児期に作られるが、それ以降であっても「作成」されないわけではない。つまり、人間は産まれてから死ぬまで、この「観測装置」を作り続けているし、メンテナンスし続けている。つまり、そういう存在であることと、この「観測装置」の
- 性質
は決して分けて考えられない、ということなのだ。
そもそも、永井先生の言う「<私>論」とは、
- 主観
とか
- 主体
と呼ばれてきたものに、基本的に一致するはずなのに、なぜこの人はそれが違ったものであるかのように、何度も何度も断るのか、が問われざるをえない。「<私>」は、「主体=主観」ではないのか? それは、おそらく
- カント
との対決を意識している。永井先生はカントの「統覚」は
- 科学的
だから、本質的ではない、と考えている。つまり、ここを突き破れる、と考えている(それは、以降の議論にも関係しているが)。
ちなみに、上記の最後の「デカルト」の擁護とは、永井先生が考えるデカルトの「独我論」の擁護のことであって、デカルトの科学論のことではない。
そもそも、カントは純粋理性批判をライプニッツ批判から始めているわけで、ここで永井先生が言っているのは、そのカントの「文脈」を自分は認めない、と言っているに過ぎない。なぜカントはライプニッツを批判したのか、どういう形でライプニッツを批判したのかの文脈を考えることなしに、この議論は無意味だと言わざるをえないだろう。しかし、そもそもライプニッツ主義者にとっては、カントよりライプニッツが正しいにきまっているのだから、そんな作業が必要だと思っていない。私たちは、ライプニッツ主義者と
- 戦う
とは、どういうことなのかを考えなければならない。
私のあずかり知らぬところで、私のあずかり知らぬ主体が、突如として私のこれまでの経験の記憶を(私以上に正しく)受け継いだとしても、それは私には関係ない。たしかに一方ではそう言える。たとえその主体のその記憶がその主体自身にとって真なる記憶であるとしても。
しかし他方では、内容的連関こそが、「何が起ころうとそれが起こるのはつねに......」という原理を凌駕するとも考えられるのだ。このときはたらく原理は、現実と内容的に連続した世界でありながら現実世界でなくなることはありえない、という原理であり、私と内容的に連続した人でありながら私でなくなることはありえない、という原理である。それはすなわち、そこで神の意志がはたらくことは不可能である、神でさえそこに自由意志をはたらかせることはできない、というカント原理なのである。
この辺りで、永井先生のカントへの視線がずいぶんと敬意を払ったものとなっていく。
客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけられた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。
つまり、永井先生なりにカントが、かなり徹底して永井先生が言いたいことを考えていたこと、いや、ある意味において、永井先生の思考を「超えて」いたことに、畏ろしげなから、それなりに気付き始めた、ということになるのだろう。
どういうことか?
まず、上の下から二番目の引用に注意してほしい。永井先生はライプニッツ主義者である。つまり、神の「可能世界」から「現実世界」への「最善の意志(=選択)」を全ての中心に置く。すると、どうなるだろうか? 私はすでに、メイヤスーの「非理由律」を紹介した。つまり、この立場を選ぶことと
- 奇跡
を認めることは不可分の関係にある。ある瞬間、
- 私のあずかり知らぬところで、私のあずかり知らぬ主体が、突如として私のこれまでの経験の記憶を(私以上に正しく)受け継いだ
ということは、ライプニッツ主義者はそれが「知的」には考えるとう意味で、
- 神の選択可能な存在世界(つまり、可能世界)の一つ
として「現実」に想定しなければならない(しかし、上記でも注意したように、カント哲学では、こういった制限はない。なぜなら、ここで「知的」ということは、あくまで「神の視点」の話だから、それが人間に本当に思考可能かは、吟味を経なければわからないのだから。よって、カントはこういったものをあくまで「理念」としてだけ、その場所を与えた、ということになる)。
しかし、いずれにしろ永井先生の思考をたどってみよう。
ところで、私ではない人がその内容を突如として受け継ぎはじめると考えるとき、私と私ではない人との違いは、さしあたっては身体の違いで考えなくてはならない。身体は物体なので、物体の同一性についても(あまり興味はないが)ちょっと考えておこう。
この辺りで、永井先生は自分がけっこう危ない橋を渡り始めていることに気付き始める。というのは、この言説は普通に解釈すると
- 科学的でない
からだ。そもそも永井先生は「同一」の主体の問題を考え始めていたはずだ。だとするなら、それは「記憶」の話ではないはずだ。というか、あくまでも神経科学の文脈で言うなら、人間の「記憶」は人間の「神経系」に含まれるわけで、この「神経系」の
- 同一
がない限り、同じ動作はしない、と考えられる。ようするに、科学の側からは永井先生の議論は、
- 魂の存在(身体と魂の分離)
を前提しているのではないか、という疑いが浮ぶわけである。しかし、ここでは永井先生の「立場」を踏襲する形で、これは
- 奇跡
なんだ、と考えてみよう。科学法則を破った事態が起きたわけである。
しかし、たとえそうだったとしても、今度は違った問題が現れてくる。ある一瞬。永井先生は、<私>の記憶が別の体の上に「引き継いだ」、というケースを考えた。つまり、ここでは二人のケースを考えているのだが、このパターンは複数考えられる。
- 同一の体&別の体
- 別の体&別の体
- 同一の体&同一の体
なんだ。少なくとも、三番目は「ありえない」と思うかもしれない。しかし、ここは永井式「ライプニッツ世界」である。一切の神が「知的」に想像可能なことは現実となるわけです。つまり、
- 奇跡
が起きるわけです。さて、この場合、永井先生がよく言っている「<私>」ってなんのことでしょう? だれなんでしょう?
永井が子供の頃からあきることなく追及している問題は、「なぜこの私が私であり、他の人が私ではないのか」という問題である。
- 作者: 中山康雄
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2012/12/20
- メディア: 単行本
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
よく考えてみてください。永井先生のこの子どもの頃からの口癖は、上記のケースで「別の体」に移ったときは、カント的な統覚だったら、むしろ、
- なぜこの私が他の他人であり、私が私ではないのか
と言い始めそうだと思いませんか?
つまり、これはカントの立場からはなんの問題もありません(奇跡が起きていることに、いったん目をつむればw)。事実、アニメ「君の名は。」で瀧と三葉は体の入れ替わりに驚く。しかし、その「驚き」は、上記の引用にある
- 永井先生の持論の「驚き」では<ない>
というところがポイントなのだ。ようするに、永井先生流の「驚き」は、「なぜ主体は、この自分としてあるのだ?」といった種類のもので、だから瀧と三葉が入れ替わったとしても、「なぜ主体は、この自分としてあるのだ?」ということに驚き続けなければならない、という「喜劇的」な話になってくるわけである。
そしてそれは、上記の三番目の
- 同一の体&同一の体
でも同じです。同じ「同一」の二人が顔を見合わせて、「なぜ主体は、この自分としてあるのだ?」に
- 驚いている
と言っているわけです(まあ、永井先生がこうなれば、二人ともそんなことを言っているのだろうが)。
ようするに、永井先生はこういう意味で、カントが「危険」だと気付いたわけです!
ようするにどういうことか? 永井先生の言う「<私>」は、そもそもその
- 一瞬=今
に対してしか、その正当性を主張できない、ということです。カントの「統覚」のように、通時的な構造を考えられないわけです。なぜなら、なぜ一瞬後の「<私>」と、今の「<私>」が
- 同一
と言えるのかの理由がないからです。
カントの議論は、「有限なる人間」の「人間の視点」の哲学です。だから、間違いも多く含みえます。しかし、科学と親和的であることを意識しているだけ、その可塑性に優れているわけです...。
- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/19
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 30回
- この商品を含むブログ (102件) を見る