順列組み合わせ馬鹿

めずらしく、東浩紀先生が、なぜ自分自身が多くの人々から

  • 嫌われるのか?

について、自己分析しているツイートをしている:

ぼくが少なからぬ読者と軋轢を起こす理由がよくわかった(が、修正はできない、なぜならぼくはぼくでぼくの文化があるから)。 日本版「文化の盗用」議論https://anond.hatelabo.jp/20181012094032
@hazuma 2018/10/15 10:19

ぼくは一般に「文化の盗用」的な話が苦手で、あんなこと言い出したらみんな自分の所属する文化のことしか表現できなくなるので、むしろ少数派の居場所はなくなると思ってる。この文章も生真面目に読んだら、そうか、関西人作品に登場させるのやめるか、むずかしすぎるしってなるんじゃないかな・・
@hazuma 2018/10/15 10:24

私はこのツイートを読んで、むしろ、東浩紀先生が、

  • アニメ界

から離れていった経緯について考えさせられた。アニメ「フラクタル」で、一度はアニメの制作に関わって「中の人」になったのにも関わらず、彼はそれ以降、ほぼ完全に、この世界から無視されているし、「ハブ」にされている。
このことは、よく考えてみると、なかなか興味深いことである。
おそらく、この「タブー」化を決定的にしたのは、東浩紀さん自身が、ツイッターかなにかで、

  • 深夜アニメ批判

を行った、その「アニメ制作に関わっている人」や「作成されるアニメの品質」に、かなり侮蔑的な態度をとったことが決定的だったのだろうと思っているが、しかし、その主張は、ある意味で、『動物化するポストモダン』の文脈から、ほとんど直結して導かれる結論だったようにも思われるわけで、深刻なわけである。
なぜ東先生は、深夜アニメを dis ったのか? それは、どれも「同じ」ような「絵」であり、「キャラ」であり、「ストーリー」であるから、そしてそれは「マーケティング」的な分析が強いる「消費社会」的な「サブカルチャー」であることに決定されているわけで、ようするに、「視聴者」の「欲望」の「マーケティング」によって主導された時点で、すべての深夜アニメは「フラット」化された、といった趣旨の話だったように思われる。
しかし、こういった事態は、『動物化するポストモダン』の文脈と並行して考えると、どこかアイロニカルに聞こえてくる。リオタールによって建築家の間で使われていた「ポストモダン」という言葉が「輸入」されたとき、それはどちらかというと

の終焉にこそ、その主張の中心があったように思われる(それ以降の「文化相対主義」や「文化構築主義」は、むしろ、フランスの哲学カルチャーから、アメリカの文系カルチャーに「輸入」されたときの、批評系で重要視されたように思われる)。左翼であったリオタールが、マルクス主義を dis ったのは、当時さかんに知られるようになった、ソ連の「収容所国家」としての性質であり、68年の世界的な学生運動の衰退と並行していた。それは、どちらかというと「マルクス主義」の「代替」が別に「ある」という話としてでなく、そういった

がまだ、これ以降も「語れる」ということへのアイロニカルな否定だったわけで、そのアイロニーは、あらゆるものへの「相対」化を導くわけで、その分かりやすい例が、マルクス主義が主張した、「正義」であり、「公平」「平等」への

  • 疑い

であり、その逆説において、現代において現れようとしていた「消費社会」や「大衆社会」を、

  • 現状肯定

するという、一種の「保守」化の肯定であった(ソ連「収容所国家」を介しての、左翼から右翼への「反転」)。
そして、基本的に『動物化するポストモダン』も、この文脈で書かれているが、この本の決定的な意味は、彼がこの文脈を

  • 作品論

の文脈と接続したことにある。「大きな物語」を警戒するということは、「文学」制作の場面における態度と「並行」するものとして解釈される。そこで、東先生は

  • データベース消費

という概念を提示することで、「大きな物語」と決定的に乖離した新しい「作品論」としての、「小さな物語」のモデルとしての「データベース」を措定した。この場合の、データベースとは、各「カラム」によって、

  • 要素

に分けられた、もはや「統一性」を想像すらできないような「作品」の、「断片」のようなイメージとなる。
例えば、これを、『動物化するポストモダン』ではエヴァ綾波レイを例にして説明している。綾波と登場は、そもそも急に現れたわけではなかった。というのは、綾波のような「無口キャラ」は、それ以前から、ぽろぽろと日本のアニメ作品では見られるようになっていて、そして、エヴァ以降、急速に、多くの作品で見られるようになっていく。
こういったように、すでに「作品」は、ある

  • 要素

に断片化されているものの「組み合わせ」的なものとして、解釈されるようになってきている、と考えた。
これと同じ問題として、「キャラ」の描き分けというのもある。アニメ絵において、さまざまな「キャラ」は、もはや、どこかで見たことがあるような「要素」のパッチワークでしかなくなっている。もはや、どこにも「オリジナリティ」はない。すべては

  • 順列組み合わせ

の問題であって、もはやなにかが「新しい」というものはなくなった。そしてそれは、

  • 作品<作成>論

において、ヘーゲルにおける「歴史の終焉」と同じような様相を示すことになる。一番分かりやすいのは、大塚英志の「物語論」なのであろうが、彼はそもそも、東先生の大きな影響を受けている。すでに、サブカル作品は

  • 作り方

を、

  • 教室で「学べる」

時代になった。お金を出せば、あなたも書けます、アニメの「シナリオ」。あなたも書けます、プロの漫画。あなたも書けます、ライトノベル。そしてそれは、大塚英志のような「先生」がまさに

  • キャラの「順列組み合わせ」

として「レクチャー」するなにかでしかなくなる。こういった「キャラ」には、こういった「キャラ」を組み合わせれば、

  • オタクに受ける(=商業的に「成功」する)

アニメが作れますよ、と。もはや、これは「秘教」のような世界となり、「あなただけに、こっそり教えますよ、ただし、授業料を払えば」といった世界になる。
しかし、である。
この意味不明な状況は、なにによってもたらされたのであろう?
というのは、もう一度、振り返ってみようではないか。最初に紹介した東先生が言及しているブログが何を言っているのか?

関西では、関東人のように「正論」を「熱弁」することは、申し訳ないがノーマルでナチュラルな振る舞いとは見なされない。話の半分をジョークで構成し、自分を「落とし」て低姿勢で粘り強く交渉するスタンス、疑問形を多用して「相手に語らせる」手法、話にはヤマとオチをつけるという作法、そういうものを欠く会話は、下品で場をわきまえない失礼なものとみなされ、見下される。幼い子供を除けば、自分の意志を相手に伝えたいときにはもっとも用いないやり方だ。関西ネイティブは一見感情豊かに見えるが、それはあくまでロールを演じる意味においてでしかない。生の感情を表に出すのは、基本的に大きな怒りを感じている相当限られたケース・シチュエーションであり、その際にはまた普段とは全くことなる口調・態度・話の作法を取る(先ほどの「細雪」では、たとえば上巻九で女中を叱責するときの口調がその好例となるだろう)が、それもまた原則的にはストレートな物言いを避けながら結論へと近づいてゆき、「自分の言いたいことを相手に悟らせ言わせる」ことを目指したやり方を取るのが通常である。そして、可能な限りすみやかに、通常の流れの会話への復帰が図られることで、その特異な状況の調停と幕引きが図られるのが常である(たとえば先の「細雪」の例では、女中を叱責して帰したあとすぐ長女が「やっぱり自分に落ち度があったのだろうか」という意味の自分の「落とし」を始めることで、通常モードへの復帰を図っている。もっともこのシーンでは、普段無口な次女が想像以上にこの件について腹を立てていたため、復帰があまりうまくいかない、というシーンになっているが)。
真顔で、正論を、熱弁するヒロイン! これを関西弁でやられると、演技の上手下手に関わらず(むしろうまければうまいだけ)、申し訳ないが周囲との調和を失い破綻した人格を演じているようにしか見えないのだ。このため、たいていの関西人が、あれを見て「奇妙に大げさで下手な演技をする演出が朝ドラのスタンダード」という歪んだ認知をもつことでスルーしていることを、NHK関係者は理解されているだろうか? 役者が上手に真面目に演じれば演じるほど、関西人には「下手糞」な演技に見え、演じたい役と演技の乖離は増してゆく。方言や文化に対する敬意を欠いた行為は、こういう一見滑稽な、内実を考えれば誠に悲惨な結論を生んでしまうのだ。
日本版「文化の盗用」議論

これは、何が起きているのだろう? 東先生によれば、もはや「大きな物語」の終わった、

の現代において、もはや「作品」とは「データベース」のカラムの

  • 要素

のことにすぎなかったはずであるのに、なぜ上記のようなケースは

  • うまくいかない

のだろう?
私はこの違いを、うまく説明するものとして、柄谷行人がこだわった「表現と認識」の違いを思い出さずにはいられない。
柄谷は、哲学者には二種類ある、と説明する。一方が、スピノザに代表されるような

  • 受動的=認識的

な態度である。こちらにとって、なにが重要なのかは、「知る」ことにある。とにかく「理解する」ことであり、「分かる」ということの倫理性である。よって、必然的に、なによりも優先されるのが

  • 受動的

であることである。この世界について分かること。これこそが「哲学」の目的と考えるのが、この立場である。
対するに、もう一つの立場とは、この反対を考えてみればいい。それは「表現」を重視する立場である。ちなみに、柄谷は自ら「スピノザ」を重視していたことからも分かるように、自分を前者に共感的に説明しており、それを(知に対しての)「マゾキズム」と解釈したりもしていた。
この事情は、どこか、柄谷の「他者」論においても、並行しているように思われる:

文学のふるさと』で安吾が例にあげている話のなかで、もっとも重要なのは芥川の遺稿に関するものである。これは『吹雪物語』にも出てくる話である。晩年の芥川の家に、農民作家が原稿をもってやってくる。それは、ある百が貧困のため生れた子供を殺し石油かんに入れてしまうという筋書で、芥川がそれを読んで、いったんこんな事が本当にあるのかねときいたところ、農民作家は、それは俺がしたのだがねという。芥川があまりのことにぼんやりしていると、あんたは悪いことだと思うかねとぶっきら棒にいい、どんな事柄にも敏速に応答しうる芥川が何も答えられない。この農民作家が立ち去ると、彼は突然突き放されたような気がした、という話である。
柄谷行人「『日本文化私観』論」)

坂口安吾論

坂口安吾論

ここで芥川が、「こんなことが事が本当にあるのかね」と少しふざけ気味に目の前の農民作家に返したのは、この

  • 物語

が「対象」として、「客観的」に語れることを当たり前の前提としていたからであろう。ようするに、芥川は「作品」とは、「そういうもの」と考えて常日頃から作品を書いていたのだ。だから、まさか

  • 目の前

の農民作家が「そのルール」を破ると夢にも思わなかった。だから彼は、ただただ「思考停止」するしかできなかった。しかし、柄谷に言わせれば、坂口安吾がそう示唆したように、こう書くことそのものが芥川の

  • 他者

性となっているのであって、この二つは切り離せないわけである。
最初のツイートで、東先生は

  • 自分の所属する文化のことしか表現できなくなる

と言っている。お分かりであろう。東先生は、まさに柄谷・スピノザタイプの「受動型哲学者」と対立する、「表現型哲学者」なのだ! 東先生がいろいろと難癖をつけても、柄谷の「他者」論が理解できず、トンチンカンなことを言っているのは、そもそもここに関係する。
そもそも東先生は、東大の表象文化論コースの出身で、ようするに「メタ文化」の人なのだ。彼には、そもそも、一つとして本格的な

  • 作品論

がない。すべて「メタ作品論」であり、基本的に作品という「固有名」にこだわった、歴史的な作品論も作家論もない。すべてが

  • 文化論=メタ文化論

に「還元」され、ようするに

  • 時代論=世代論

に「還元」される。メタ文学が「大きな物語の終焉」と言うとは、「文学の終わり」を言うことであり、

  • メタ文学による、文学の終わりの宣言

とは、今までも何度も繰り返されてきた「喜劇」なわけで、ようするに

  • メタ文学には「不透過」な<現実>がある

と言っているに過ぎず、だから彼らは、上記のブログの関西の方が「東京中心主義者」たちが作る「順列組み合わせ」朝ドラに違和感を覚えることに

  • 不快感

を覚えて、結局は「他者」と向き合おうとしない。そういうわけで、こういった人たちは、そもそも、まったく、柄谷とは違った出自の人たちなのだ...。