もはや、オタクの世界では「古典」の地位さえ獲得したかの扱いである、アニメ「エヴァンゲリオン」であるが、テレビ放映の90年代から、はるかに時間が経ってしまったわけで、今さら、この作品に言及することには、一つの「ためらい」を感じなくはない。
しかし、私は最近、ある
- 違和感
を、この作品というか、この作品に言及する「知識人」に覚えるようになった、それは、彼らの多くが、というか、ほとんど全てが「アスカ推し」であるというわけである。このことに対して、一つの仮説として、放映開始時には、綾波推しが多かったが、時間が経つに従って、アスカ推しが多くなった、というわけであるが、このことは、この作品に対しての、根本的な
- 受容
の形態に、人による、大きな差異があったことを意味するのではないか、と感じるわけである。
そもそも、「アスカ」になにか、大きな
- 印象
をもっている人など、いるのだろうか? 彼女は、どこから見ても「普通」だろう。普通の「ツンデレ」であった。アニメの最後の方で、いろいろな「トラウマ」の端緒が垣間見えるわけであるが、それは、どこまでも周縁的なことに過ぎない。
ようするに、エヴァの「熱狂」は、テレビ版の、特に「前半」の展開に関係があった。
綾波の「熱狂」は、
- 彼女が教室で「完全」に孤立していること
- そうであるにも関わらず、彼女がシンジの父親と「だけ」は楽しそうに話していること
のこの二つにあった。ようするに、シンジにとって強烈な「デタッチメント」において、彼女は「特別」だったわけである。
では、それ以降も「綾波推し」を貫いた人たちは、それ以降、「アスカ推し」に
- 日和った(ひよった)
連中と、何が違ったのか、ということを整理すると、以下になる:
- 彼らは、そもそもテレビ版以外は、今だに「意味不明」と考えて、真面目に見ようとしない。
- 彼らは、テレビ版の後半で、綾波が「クローン」であり、シンジの「母親」であったという「展開」に対して、「意味不明」と考えて、真面目に見ようとしない。というか、この説明を、テレビ版の最終2話と「繋げ」て、そもそも、この時点で、シンジは「頭が狂っていた」と解釈する。
もちろん、この解釈は、テレビ版「以降」の映画版とは整合しない。しかし、そもそも、今だに連綿と作られている映画版は
- 成功
したのだろうか? だれがどう見ても、支離滅裂の意味のないことをやっているようにしか思われない。
この解釈は、そもそも「アスカ推し」の人たちには、まったく理解できないだろう。ようするに、ここで何が問われているのか? つまり、ここで強烈な
- 分断
が起きているように私には思われるわけである。なにがこの差異を生み出しているのかであるが、それは、テレビ版後半の、綾波が「クローン」であり、シンジの「母親」である、という
- 設定
である。つまり、ここでの差異は、
- SFの「設定」を、まるで「空気」のように受け入れる勢力と、そうでない「一般の人々」
である。ようするに「SFファン」と「それ以外の一般の人」だ! 前者は、この綾波の「設定」を聞かされも、なにも動揺しない。まるで、「当たり前」のように、
- 綾波、ただの「ロボット」じゃん
となって、この時点で、綾波へのなんらかの「思い入れ」をしている連中を侮蔑し始めた(そして、こっそりと隠れて、「アスカ推し」に「転向」しやがったw)。
対して、後者の人たちは、そもそも、この綾波の「設定」は
- ありえない
と解釈する。人がクローンであり、「代替」が何台も作られているなんてことは、「空想」の中での話なのであって、嘘くさい「設定」だ、と考える。そして、そのことがテレビ版後半の、シンジの「狂気」と関係して理解される。
というか、そうでなければ、例えば、前半の、シンジが綾波とシンジの父親とが仲良く話している場面に受けた「ショック」と整合性がとれないわけであろう。シンジにとって、綾波は、父親と「仲の良い」同年代の女の子である。
- 同年代の存在で、父親と、このように「仲良く」なれている、という意味で、シンジは綾波に嫉妬している
- 同年代の男性として、父親が好意をもっているように見える綾波に、シンジは「父親をライバルと意識した」恋愛感情を綾波に抱く
- シンジの父親への「偏執」
は、意味不明になってしまう。つまり、この作品世界の屋台骨が崩壊してしまうのだ!
ようするに、後者の人たちはテレビ版前半の綾波のイメージを、微塵とも変えなければならない「理由」を、どこからも受けとらなかったわけである...。