不幸と統計

相模原事件の植松容疑者が、日本の「国の借金」が膨大で

  • 日本の危機

なんだ、と主張していたことは、いかに

という意味でも、犯罪的な財務省の「行為」だったと言わざるをえないのではないか、と考えているわけであるが、財務省がマスコミを通じて、さんざん「宣伝」していた「日本の財政の危機」なるものは、国のバランスシートの「借金」の側

  • だけ

を宣伝して、国民を脅していたわけで、なんのことはない、国の「資産」を考えていなかったという意味で、財務省のせいで、植松が何人、人を殺したと思っているんだ、と怒りの矛先を向けたくもなるわけであるが、考えてみれば、失われた10年の頃、多くの「知識人」がこの財務省に操られて、さかんに自分のエッセイに、

  • 国の借金

が絶望的で、この国の危機とか「煽って」いたよね、とは言いたくなるわけで、まあ、だから「消費税」増税

  • しかたない

というわけで、知識人、おっかねえな、という感想しかないんだけどね。
植松容疑者がなぜ、上記のような「国の借金」マインドコントロールにだまされていたのかということでは、まあ、彼自身が、一時期、生活保護のお世話になっているわけで、彼なりに「自己責任」論について考えた、ということなのだろうと考えると、あまり彼を責めても、生産的ではない、とは言いたくなるわけである。
私は

  • なぜこの社会は「自然化」されていないのか?

と問うたわけだが、考えてみてほしい。植松容疑者が「こだわった」人たちの「不幸」は、そもそも、

  • 統計的な存在

なわけである。つまり、この人間社会は、一定程度の「病気」、「難病」の方たちが産まれてくるし、そういった発症が起きてしまう。それは、あくまでも

  • 統計的な事実

なのであって、つまり、

  • 最初から分かっていること

なのだ! ホッブズ、ロック、ルソーの「社会契約論」を思い出してほしい。私たちは、国家(=リバイアサン)と、ある「契約」を結ぶわけだが、そのとき、別に、

  • 一定の条件で間引きしていい

なんていう「条件」は入っていない。それは、この社会が、そういった「一定の不自由(=一定の解釈の下での「不幸」)」を強いられて生きなければならなくなる場合の人たちを含んで、それでも

  • 統計的

に、そういった人たち全員と「契約」をしたのだから、「コスパ」だけ考えて、パターナリズムで適当に間引きをさせろって言っても、許さないわけである。それは私たちと「国家」の契約なのであって、それ以上でも、それ以下でもない。
そもそも、さ。
アメリカから飛行機100台買うのに、一兆円かかるって言っているのに、なに言ってんだってことだよな...。