その人の「本質」

よく、生得的ということが言われる。カントで言えば、アプリオリということになるが、ようするに遺伝子のことを、こういった文脈では言いたいようである。三つ子の魂百まで、ではないけど、親の七光というわけで、頭のいい家系は子どももそうで、逆もまた真なり、というわけである。
馬鹿馬鹿しいな、と思わずにいられないわけだが、それは生得的とかアプリオリとか遺伝子ということが「存在しない」からではなくて、そんなことを言うんだったら

  • お前の<本質>

は、なんなんだよ、と思わずにいられないからだ。
よく、クールジャパンとか言われる。そして、そこで「礼讃」されているのは、ようするに

  • 東京人

の「感性」らしきものを言っているらしい。エリート男子校の入った連中が、そのまま、エリート大学に入って、今の日本の世の中を支配している、と。これが

  • クール

だって言いたいらしいわけで、なんじゃそりゃ、と思うわけである。そもそも、

  • 京産まれ、東京育ち

とか言っている連中を、私は疑っている。彼らの「都会」感覚は、そもそも、彼らの「本質」なのか?
私のような、田舎で育って、学校を卒業した後に東京で働き始めた人間には、仕事の合間に、ときどき田舎に帰ることは当たり前のことではある。そして思うことは、私の

  • 祖先

は「ここ」で生きて、育った、ということだ。私の祖先を、2世代、3世代、4世代とさかのぼって行けば、江戸時代に突入するだろうし、そして、みんな「ここ」で生きたわけである。広大な田んぼの中で、秋の収穫期には、村人、総出で、各家の田んぼの稲刈りを

  • 手伝って

そして、収穫の後には「祭り」が行われる。
ようするに、「これ」が私たちの本質なのだ。東京産まれ、東京育ちとか言っている連中も、おじいちゃんとか、ひいおじいちゃんは田舎の家に住んでいて、という人が多いわけで、なにが

  • 東京人

だ、と皮肉も言いたくなるわけである。お前の祖先だって、みんな、村人と助け合って生きてきた人間であって、お前が今、このように「東京」という町で、偉そうにしているのは、

  • たまたま、過去の祖先とは違って、そうなった

というだけで、少し「運命」が違っていれば、今も、田舎で田んぼで働いて、村人のみんなと「助け合って」生きていたに決まっている。だったら、それがお前の「本質」なんじゃねーのか。まあ、別に東京人の憂鬱に興味があるわけじゃねえけど、そんな皮肉も言ってみたくなるわけである...。