内藤朝雄「いじめ論」と鬱哲学

今回の、東浩紀先生の、ゲンロン社長を辞める辞めない騒動、ツイターの鍵かけ騒動、「自称」鬱騒動については、どうぞ、5CH辺りを検索されてみられれば、少しは状況は分かるであろう。
しかし、私はそれ以前に、東先生の主著である『観光客の哲学』は、典型的な

  • 鬱哲学

だと考えている。というか、おそらくは、そういった一定の「カウンセラー」のような方に、ご一読をお願いして、率直な意見をうかがっでいたなら、そういった話を聞けたはずなのだが、そもそも彼は、自分に「(自称)悪意」をもったツイートを投げてくるアカウントは、ことごとく、

  • 自分

で「ブロック(=仕返し行為)」をやっていた人なのだから、まあ、多くの「恨み」を買ったことは「しょうがない」んじゃないのか、とすら言いたくはなるし、逆に、ブロックされていないということは、どこまでも「イエスマン」であることを

  • 証明

しているわけで、ますます、こんな連中に回りを囲まれていれば「勘違い」を「こじらせる」ことは自明なわけで、なにを自業自得なことをやっているんだろう、といった感想しかないのだが。

イニエスタは専門家(心理カウンセラーや精神科医)の治療を受けることを強く勧めている。一人で苦しまないで、また家族や友人を当てにするのではなく、医療機関の扉を叩くことを訴えている。これは私も大賛成だ。
鬱は専門家でないと治せない。愛や情はむしろ治療の妨げになることがある。心理カウンセラーは家族を治療できない。父が心理カウンセラーだったことはエンケのためには何の役にも立たなかった。
イニエスタには命の恩人と呼べるカウンセラーがいる、という。私にもいる。彼は「カウンセリングが楽しみで約束の15分前に着いていた」と振り返っている。
その気持ちはよくわかる。カウンセリングにはタブーがあってはならない。カウンセラーとの何でも話せる開放感と安心感は、いかに家族や親友であろうと得ることができない。
だが、だからこそカウンセラーとは恩人であっても友人になれない。心の闇までぶつけて大丈夫なのは相手がプロだからこそ。そんなことをすれば家族関係や友人関係は壊れてしまう。鬱に専門家の助けが必要なのは本人のためなのはもちろん、周りのためでもある。
『うつ病とサッカー イニエスタの場合』。名声も富もアスリートの強靭さも「鬱」を防げなかった(木村浩嗣) - 個人 - Yahoo!ニュース

最近、衝撃をもって迎えられた、サッカー元スペイン代表で、今は神戸でプレーをしているイニエスタが、一時期「鬱病」だったということを、メディアで「告白」したわけだが(しかし、彼が今回、発表するまでには、症状の発生から、多くの年月が経っていることが重要だが)、上記の引用は、こういった「鬱病」のような問題においては、むしろ、その症状に対して

  • 家族

は反対の影響が現れることがある、と言っていることは、『観光客の哲学』において、

  • 弁証法的な意味での)最終的な解決

として「家族」に<(未来を)賭ける>となっていたわけで、このことが、「鬱哲学」の、その特徴における大きな結果となっているように、どうしても思わずにはいられないわけであろう。

グローバリズム(二〇世紀初頭の自由主義)を批判する識者は、むかしもいまも数多くいる。彼らは多くの場合、グローバリズムの導入は自国産業にとって損になると、あるいは自国文化を破壊するといった主張を展開する。けれども、シュミットはその類の議論には関わらない。なぜならば彼の考えでは、そのような批判は、政治的な判断に経済的あるいは美学的な判断(グローバリズムは損だ、あるいは醜いといった判断)を持ちこんだものにすぎず、結局は政治の価値を損なうものだからである。
そうではなく、シュミットがグローバリズムを拒否するのは、端的にそれが友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消するからなのだ。彼は当時活躍した自由主義の論客の名を挙げ、その議論においては「闘争という政治的概念は[...]経済的側面で競合に、他方「精神的」側面で討議に化してしまう」のだと、言い換えれば、自由主義は「国家および政治を、一方では個人主義的な、したがって私法的な道徳に、他方では経済的な諸範疇に従属させ、その独自の意味を奪い去る」のだと記している。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、である。
社会学者の内藤朝雄さんは、「いじめ」について、以下のようにすら言っている。

そのようないじめ被害者に本来与えるべきなのは、『加害者は敵だ』というメッセージである。学校で『仲良く』することを強制され、加害者でも、『友だち』『仲間』だと思い込んでいる被害者は『敵』というメッセージを受け止めることで、しかるべきポジティブな行動がとれるようになる。

いじめ研究の第一人者が断言内藤朝雄「いじめ加害者を厳罰にせよ」() | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

内藤先生の「いじめ」に対する、その現象の「分析」と対処法ということは、ずっと以前から完成していた、と言えるだろう。彼が言いたいのは、

  • 学校の外での「暴力」は、学校の中でも「暴力」

である、という「相同」性の原理を、学校に働かさせる、ということに尽きている。あとは、それを、どういった「実践」において実現するのか、が私たちに問われているのであろうが、内藤先生がこの問題について発言をされた後も、まったく衰えることなく、

  • いじめ「自殺」

が学校内で発生し続けているし、そして、その「イデオロギー的基盤」において、上記の東先生の

  • 友敵理論の「超克」

と、ほとんど同じような「教育理論」が、通奏低音のように、いつまでもいつまでも、何度、悲劇を繰り返しても、復活してくる、日本の「教育界」の腐敗した地盤が、かいま見えるわけである。

彼らが書いた内容は、次のようなものだ。

[事例1:他罰的な子へのいやがらせ]
若林らのもとに、「登校拒否」の中学生E子が来院した。
優等生のE子が通うのは、「いじめやいやがらせが横行する」「地域でも校内暴力で有名」な中学校で、さらに一番「悪い」と言われているクラスである。暴力グループに付和雷同する学級集団は、正義感の強いE子にとっては不正がまかりとおる場である。
E子は「教科書で頭を叩かれたり、足を引っかけられたいするなど、...生傷が絶えない」。それでもE子はいじめ加害者に屈服しないで逐一反撃する。それがさらなるいじめを誘発する悪循環を形成する。
「保護者会で母親は、成績はよいが性格が悪いと言われた。E子としてはいやな人たちばかりだからしゃべらないだけだ」。このような状況下でE子は学校にいかなくなる。
若林らの「初診時所見」は次の通りである。
「...可愛らしいというよりは、気が強そうできつい子といった印象を受ける。学校のことや教師、生徒に対する不満がいっぱいという感じで、よくしゃべるが、他罰的で、少しふてくされたような態度がみられ、誤解を受けやすい子のようにも思われる。E子自身も、トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う』と述べている」。
さらに若林らは、次のような言葉を用いてE子を臨床記録する。
「依怙地で他罰的」
「弾力性の乏しい態度」
「クラスや学校に対して協調的な態度がとれない」
「クラスへ適応しようという気持ちがないようで、周囲を寄せ付けない」
「E子の性格の問題がある」
「E子の非協調的な態度にE子にいかに自覚させることが課題である」。
(若林慎太郎・榎本和「他罰的な子へのいやがらせ」メンタルヘルス研究会編『メンタルヘルス実践体系5 いじめ・自殺』日本図書センター、1988年)

ここには、正気の社会からは信じられないような価値の転倒がある。
若林らは、人に暴力をふるって楽しむ嗜虐者たちを異常視しない。逆に、自分に暴力を加える迫害者(およびその勢いに同調する学級集団)をはっきりと「敵」、「悪」、「赤の他人」と認識する女子中学生の方を異常視する。
そして、自分に暴力をふるい、苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に「寄せつけ」、学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

[事例2:なかよくなってほしかった]
ある小学校で、一年生女児(6歳)が、露骨で執拗なしかたでいじめられていた、担任はそれを放置した。被害児は夜中に叫び声をあげるようになり、医師からは睡眠時驚愕症と診断された。
その時、相談した教頭が熱心に介入し、露骨ないじめはかげをひそめた。しかし、無視や顔そむけ、ひそひそ話、他の子から孤立させようとするコミュニケーション操作、などは続いた。
クラス替えまで被害児は加害児と関わらないようにしていた。
クラス替えの前に母親が「こういう(いじわるな)人もいるんだ」と教頭に伝えると、教頭はお残念です。こんな人もいる、と諦めてしまうのでなく、仲良くなってほしかった。ここの学区の子どもたちは優しい子が多いはずなんです」と言った。(母親へのインタビュー)

教頭は、6歳児○○ちゃんが障害を負うほど虐待されたことではなく、自分の身を守ろうと<クラスのともだち=加害児>から距離を取ったことを「残念」と言っている。
現に生きているかけがえのない○○ちゃんが苦しかったろう、つらかったろうということは、教頭の目に入らない。それよりも、「ともにかかわりあい、まじわりあい、そだちあう」大いなる全体(集合敵生命としての学校)が大切だ。
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

東先生はなぜか、カール・シュミットがWW2後、ソ連スターリン主義などの

の問題に取り組んだことについては、一切ふれない。それだけじゃない。カール・シュミットについて触れながら、シャンタル・ムフの「新しい敵対性」の議論に触れないことは、読んでいないわけがないわけで、いかに、東先生が

  • 読者を騙そう

としているか、をよく現しているのではないか?
前回、杉田議員の問題に関連して、蓑田胸喜に言及させてもらったが、蓑田がやったのは、学者の

  • 食いぶちを奪う

ということだったわけであろう。それに対して、ようするに「社会全体」が彼に、猛烈な「デタッチメント」を行った。シュミットが戦後、スターリン問題に取り組んだように、こういった

をシュミットが深刻に考えられなかったというところに、彼のロマンティシズムの弱点があったわけであろう。
言うまでもなく、経営者と労働者は「対立」している。当たり前である。少なくとも、「給料」の額の決定権が経営者にある限り、この二つの集団の「和解」は、この関係の解消なしにはありえない。
しかし、そういった「幻想」を思い描いていたものこそが、

であり、

  • 反「友敵理論」主義者

なのではないのか? 彼ら「プチ・ブルジョア倫理」主義者たちは、「反左翼」で統一することの意味を、「経営者と労働者の窮極の和解」のような形で、夢想したわけだが、そのことの「無意識」的な意味といえば、労働者が一円でも多く給料がほしいと考えているのを、文系のエリートは、

  • 言葉たくみ

に、たぶらかして、できるだけ「安く」働かせることに疑問をもたせないかが、腕の見せどころだと思っているわけで、そのことが「やりがい搾取」と呼ぼうがなんだろうが、マルクスに言わせれば、搾取と闘うのは労働者の「本質」だということになるわけであろう。
基本的なこの近代社会の「作法」を、精神分析的に「脱構築」して、無意識の「和解」を目指そうがなんだろうが、学校における「教師」と「生徒」の対立は、終わらないし、マルクスが言ったように、資本家と労働者の「対立」も終わらない。むしろ、終わらないことが、この社会が

  • 健全

であることを意味していることに、いつまでも気付かないことと、「鬱病」の深い関係を考えざるをえない、ということなのであろう...。