なぜ近代社会は資本主義でありながら継続するのか?

今年、一番の感動的な「事件」はなにかと考えると、アニメ「宇宙よりも遠い場所」が、ニューヨークタイムズのベストTV番組(海外部門)の10作品の一つに選ばれたことではないだろうか、と、少し変化球で攻めてみたくなる。
しかし、どうやってニューヨークタイムズの人が、このアニメのことを「知った」のかは、興味深い話ではある。普段は馬鹿にして、日本のアニメなど絶対に見ようとしない「エスタブリッシュメント」な人たちなのだろうから。
しかし、そういった彼らの「いきさつ」がなんであろうと、この作品が評価されることには、非常に大きな意味がある。
この作品は「おもしろい」のだろうか?
そう問われると、よく分からなくなってくるところが確かに、あることはある。しかし、おそらく作っている側には、そういったことはどうでもよかったのであろう。
主人公の女子高生のキマリは、ある日、民間南極観測隊員だったが亡くなった母の後を追って、なんとかして南極に行くことを目指していた同じ高校の女子高生の報瀬(しらせ)と出会う。彼女の誘いで、一緒に南極に行くことを目指すことになったキマリであるが、最終的に、高校には通わず近くのコンビニでバイトをしながら、独学で大学を目指していた日向(ひなた)と、女子高生ながらアイドルをやっていたが、学校で友だちができず孤独だった結月(ゆづき)の四人で、南極に行くことになる。
私がここで注目したいと思うのは、アニメの第6話「ようこそドリアンショーへ」である。
南極に向かう船が出発するオーストラリアに行く前に、いったん飛行機でシンガポールの空港に降りた4人は、そこで一泊するわけだが、日向はいつのまにかポスポートがなくなっていることに気付く。普段は半日で再発行できるが、明日は日曜のため、間に合わない。日向は報瀬に3人で先にオーストラリアに行くことを提案する。しかし、それを認められない報瀬は彼女に気付かれない間に、先に3人で、飛行機の搭乗便を変えてもらおうとするが、格安チケットのため、1ヶ月先になると言われてしまう。
このいきさつを知った日向は、あらためて3人で先にオーストラリアに行くことを勧めるが、がんとして報瀬はそれを聞こうとしない。
しまいに、報瀬は自分が高校に入って、南極に行くために、毎日バイトをして貯めていた、百万円で4人分のビジネスクラスを買うことで、自分の願いをかなえようとしたことに、あとの3人は、ただただ驚いてしまう。
最終的に、パスポートがでてきたことで、最初のチケットで行けるようになるのだが、ここで注目したいのが、報瀬の「非合理性」である。
日向がなぜ高校に入らなかったのか。それは、彼女のこういった性格も関係していた。とにかく、他人に心配されると、居心地が悪くなって、自分が一歩引いてしまう。報瀬が心配したのは、彼女がもしも、後から南極に向かうことになったとして、本当に合流できるのか、に関係していた。もしも、彼女がさまざまにトラブルにまきこまれて、3人だけで南極に行くことになったとして、それで

  • 納得

できるのか、と。
私たちのような大人になると、「百万円」と言われたからといって「それがどうした」という思いしかないであろう。しかし、それが

  • 高校生がバイトで貯めたお金

と聞かされると、恐しい「執念」が感じられてくるわけである。そんな大金を、こんなことに使っていいのだろうか? もっと「合理的」なことに使った方が、

を考えても合理的なのではないか。
しかし、報瀬はそういった日向の冷静な言葉を、どうしても受け容れることができない。もし、そういった選択によって、4人が3人になってしまったとして、どうしてそれを受け容れられようか。

報瀬「うるさい!意地になってなにが悪いの。私はそうやって生きてきた。意地張って馬鹿にされて嫌な思いして、それでも意地張って来た。間違ってないから!気を使うなって言うならはっきり言う。気にするなって言われて気にしない馬鹿にはなりたくない。先に行けって言われて先に行く薄情にはなりたくない。四人で行くって言ったのにあっさり諦める根性無しにはなりたくない。四人で行くの、この四人で。それが最優先だから!」
宇宙よりも遠い場所(第6話『ようこそドリアンショーへ』)のあらすじと感想・考察まとめ | RENOTE [リノート]

私はときどき、なぜ、カントが構想した「近代社会」は、マルクスが懸念した「資本主義」において、かろうじてであれ、成立しえているのか、と考えることがある。
おそらくそれは、こういったことなんだろうと思うわけである。私たちは、実際に、時々、馬鹿な買い物をしているのだ。しかし、私たちはそれを

  • 後悔していない

わけである。そう行うことを、全人格を賭けて納得したから、そうしたのであって、そして、そのことを死ぬまで、終生、何度も何度も大っぴらに回りの人に語ることができる。
そして、概ね、その話を聞いた、回りの多くの人々は、逆にその人への

  • 信頼

を大きくし、その人格の有徳性にリスペクトする。つまり、資本主義における非合理な行為がなぜ成立しうるのかは、こういった近代社会の「有徳」性を肯定していこうという、社会システムが担保している関係になっているし、しかも、そういった形においてのみ、本人の「納得」感が大きいわけである...。