佐藤文隆『佐藤文隆先生の量子論』

確か、去年の年末に、IBMが、一般企業向けに、量子コンピュータを売り出す、とアナンスが出ていた。
しかし、素朴に、なんで、人々はこれに反応しないのかな、と不思議だった。もちろん、以下のような意見があることは分かっている。

今回のIBM量子コンピューターに関しても、すぐにビットコインの脅威になることを否定する声が出ている。
暗号学者でブロックストリーム社CEOのアダム・バック氏は、eToroのシニアアナリスト、マティ・グリーンスパン氏とのツイッターでやり取りの中で、IBMの「Q System One」の100マイクロ秒の持続時間と20Qbitの計算能力は、従来のコンピュータと比較しても力不足と解説。今後数十年間は、従来型のコンピューターが市場を支配すると予想した。
IBMが量子コンピューターを発表「仮想通貨ビットコイン(BTC)が滅びる日」ではない? | Cointelegraph

これを、内輪の楽観論と見るかどうかはともかくとして、そもそも、以下のような話と関連していたはずなのだ。

量子ビットが数十億に到達すると、インターネット通信に使われる暗号が解読できる。暗号技術を使うビットコインなどの仮想通貨は価値を失う。
IBMが超越した「量子」の限界:日経ビジネス電子版

IBMは6ヶ月で量子ビットを3倍以上に増やした。この成長スピードが続けば、8年後には全ての暗号を解読する量子コンピュータが登場する。
IBMが超越した「量子」の限界:日経ビジネス電子版

私が気に入らないのは、世間の「AI」に対する、気が狂ったような「熱狂」に比べて、なんで、こっちの方を真剣に考えないんだろうね、といった「不思議さ」と言ってしまえばいいと思っている。
なんで、多くの人は、この

に、真剣に取り組んでないのだろう? 
さて、「量子コンピュータ問題」とはなんだろう? これを一言で言えば、

ということになる。つまりは、

のことになり、

例えば、十分離れた状態で左粒子のスピンの向きを測って上なら、右粒子は確率1で下である。右粒子「系をいささかも乱すこと」がないように十分離してあるのだから、左の観測の影響が右に及ばないはずなのに、「確率1で」下に決まっているということは、観測前から予め分かっているはずである。このことを記述していない理論は不完全だ、となる。確率1で同じ観測結果が出るなら、観測にその結果を返す存在が予め実在するべきである。確定している実在の一部を引き出すのが科学である、と。

量子コンピュータ」で言うなら、

のことになる。さて、この二つは関係するのか? アインシュタイン問題とは、そもそも「コペンハーゲン解釈」に対する、ある「反対」声明に関係していたわけで、ということは、そもそも、量子力学における「コペンハーゲン解釈」を、どのように考えるのか、のことと、ほとんど同値なのだ。
そもそも、なぜ量子コンピュータ問題が、アインシュタイン問題なのだろう? それは、どちらかというと話が逆なのだ。なぜ、アインシュタイン

と呼んだのか? それは、彼の「哲学」が関係していた。彼の哲学に関係して、「コペンハーゲン解釈」は「パラドックス」に陥っている、としか彼には判断できなかったからだ。
しかし、これは「科学者」として、正しい態度だろうか?
なぜなら、科学者とは、「実験」によって、前に進む学問であったはずで、「こうあるはずだからパラドックスだ」と言ってしまえば、もうそれは、科学ではないのではないか?
言ってみれば、量子コンピュータに代表されるような、量子工学の発展は、この二つのどっちが正しいのかを

  • 実験

して、「コペンハーゲン解釈」が正しくて、「アインシュタインの哲学=隠れた変数仮説=素朴実在論」が間違っていることを示してしまった(まあ、パラドックスじゃないことが分かったので、最近は「EPRもつれ=EPRエンタングル」と言うらしい)。ようするに、局所実在論は維持できず、非局所実在論に軍配を上げたわけで、そのことが、近年の、量子テレボーテーションの、かなり根本的な理論的な前提に関係している。
ということは、ミクロの世界は、「非局所実在論」と言うのが正しいのだろうか? おそらくはこれも、「哲学=解釈」なのであろう(アインシュタインの哲学がそうであったように)。

実際、物理学の歴史はこの素朴実在論を追及してミクロ新世界の探索を敢行してきた。この実績を踏まえた信念から、次のような異端を取りしまる「踏み絵」が提出されている。

  1. 観測者と観測者が持つ知識とは無関係に実在がある。
  2. 測定(観測)の概念は理論において基本の役割を果たさない
  3. 理論は、集団だけでなく、個々のシステムを記述できる
  4. 周辺外部から孤立した存在を想定できる
  5. 孤立したシステムに作用しても、離れたものに影響はない
  6. 客観的確率が存在する

ところが、量子力学の実験では、項目1と項目2は「シュレーディンガーの猫」や「状況依存性」によって、項目4、項目5はエンタングルによって、一見したところ、破綻している。しかし、2012年のノーベル賞で顕彰された進展は、項目3をクリアしている印象を与える。あた、情報通信での確率事象を制御する技術の普及は、推定手法としての主観的確率を未熟な手法とみなす感覚っを変えつつあり、項目6も自明ではない。テクノロジーの進展は項目3と項目6のイメージを変え、量子力学をも「対処論」一つと見なすことを促している。このように、「踏み絵」を無視するような現実が増えてくると、素朴実在論の再定義が必要かもしれない。

上記の引用にある、「主観的確率」というのは、掲題の本でも記載のある「QBism=ベイズ確率」のことを言っているのであろう。
まあ、早い話が、EPRもつれを

  • 利用

して製品を作れば、「量子テレポーテーション」になったりするわけで、アインシュタインが「ありえない」と、世界の中心で叫んでいる間に、ハイテクは

と称して売り出している、というわけであるw
なぜ人々は、多世界解釈が好きなのか、を考えてみたとき、インフレーション理論における、ビッグバンの「最初」の、量子力学的な「範囲」にエネルギーが集中している状態を考えたときに、当たり前だけど、「そこ」に観測者(つまり、人間)はいないのだから、普通に読んだら、「コペンハーゲン解釈」は適用できない、という「直観」があるんじゃないだろうか。
まあ、そんなことを言うなら、多世界解釈における「観測者」が、宇宙そのもの、というのも、なんなのか、となるわけで、ようするに、さまざまな形で、「素朴実在論」の、さまざまな「ドグマ」に関係して、その執着を説明できるのかもしれない。ただ、

デコヒーレンスは多世界解釈の観測問題を解決しているわけではない。 - Quantum Universe

などを見ても、言うほどの「コペンハーゲン解釈」を放棄して、「多世界解釈」に乗り換える、と決断するほどの「理由」も今のところ、見出せない(というか、「コペンハーゲン解釈」はあまりに成功しすぎている)。
ただ、以下のようなことはあるらしい。

量子力学では、長い間、観測のように「外部から対象に作用を及ぼす」と「波動関数は直ちに収縮を起こす」という思い込みがあった。「重なった状態」から必ず一つの状態に収縮すると。しかし、2012年のノーベル物理学賞の業績に「個別の量子系を測定し操作することを可能にする画期的な実験方法の開発」とあるように、現在の技術では「重なった状態」を "重なったまま" で外部から操作することができるのである。すなわち状態ベクトルの変化には、"重なったまま" での変化と収縮の二つがあるのである。この二つが先に述べた、量子力学お「三つの要素」のBとCにあたり、Bはユニタリー・オペレータUによる変化である。
ところで、この確率オペレータは系に固有の一義的なものではなく、観測する変数の選択によって変わってくる。また情報を得るとは可能な区画の幅を狭めていくことである。この際、用意した観測装置で、より確定的な回答をする状態に、外部から能動的な働きかけで「操作」して、導くことができる。すなわち、「傍観者」ではなく「参加者」として、様々なUを作用させて制御できる。量子コンピュータなどの量子技術の進展は、この "重なったまま" 状態を変化させる技術に負うているのである。

うーん。早い話が、アインシュタインが「パラドックス」だなんだと

  • 神学

を叫ぼうがなんだろうが、

  • 工学

の現場では、そのアインシュタインパラドックス

  • 性質

が「商品」になる(量子テレポーテーションなど)。それを、どんなに「嘲笑的」な態度を示そうと、社会はこうして進んでいく、というわけである...。