少しここでは、ざっくばらんな話を書いてみたい。
例えば、次のトゲッターのまとめを読んで、
素朴な違和感としてあるのは、ここで「議論」されているような、「女の子が主人公のアニメ」が存在するかどうかを議論していたはずなのに、なぜか「性的消費」を
- 理解
しているか(していれば、ほとんどのサブカル・アニメを拒否するはずなのに)、といった方に論点が変わっている、といった
- 問題
に対して、基本的に多くの人たちがそれを「前提」としていることにあるのではないのか、と思うわけである。
そもそも、サブカルチャーとは、正規のカルチャー(つまり、大学アカデミズム)とは、一定の距離を置いた、
- 大衆芸術
であることに、そのアイデンティティがあったはずで、こういったものが、大学で
- 道徳
を学んできた人たちの「価値観」に合わない要素を含んでいるのは「当然」と考えるべきなのではないのか。
上記で、「性的消費」がどうのこうのと言っている人たちとは、ようするに、大学で「フェミニズム」を学んできた人たちですよね。でも、世の中には、文系の学部を受験して、ジェンダー学を専攻する人ばかりじゃなくて、理系に進学する人もいるし、そもそも、大学を受験すらしていない人も大勢いるわけですよ。
そういう人が、「フェミニズム」を学校の学部で学んで、その規範的価値を「理解」して、その「善悪」を、そういった「経歴」を辿っていない人たちに
- 押し付ける
こと自体の「意味」を考えてみれば、もう少し、このことの意味が分かるのではないでしょうか。
もちろん、そういった「フェミニスト」は、「でも、アメリカはそれができている」とか、グローバル・スタンダードを笠に着て、大衆批判を始めるわけだけれど、そりゃあ、アメリカには「萌えアニメがない」を、「アメリカが正しい」と言ってしまえば、そうなりますね、っていう話でしかなくて、ようするに、たんなる
- クレーマー
なんじゃないか、って言いたいわけです。
どうも、大学の文系に進んだ人の、かなり多くの人が、つまりは「哲学」を学んでいるわけで、でも、「哲学」って、ようするに、「善悪」なんですよね。ようするに、規範哲学なわけです。自分が学んでいるのが、「道徳」だという自覚がないんですよね。
(ちなみに、そういった性格は理系では少なくはなるが、なくはない。それは、どこか「職業倫理」に近いもので、どうやって研究者個人の「捏造」行為を抑止するのか、といった規範について、深く考察されている。)
だから、例えば、現在の哲学って、アメリカ由来のものが多いわけで、そうなると、当然だけれど、「反共」なわけです。共産主義は悪だから、つまりは、「お金持ち礼讃」なわけ。つまりは、
- プチ・ブルジョア倫理
のことと、ほぼ同値の価値観を、「リベラル」と呼んでいるわけでしょう。そして、それを、誰も不思議に思わない。つまりは、「これ」が文系なわけです。誰が文系の学問なんて学ぶものか!
ここで言いたかった大事なポイントは、文系の大卒の人は、やたらと「説教」をしたがる、ということです。ずっと「偉そう」なわけです。大衆を見下ろしているわけです。ツイッターでいえば、すぐ「ブロックする」とか脅すわけです。
でもさ。
そんなに世の中の価値観って、簡単なのかな、と思うわけですよね。
最近、コンビニのビニ本撤去が、各社そろって、決定されたけれど、その理由は、オリンピックを前にして、外国人に恥かしいからだ、とか言っているらしいです(だったら、アキバの二次創作も「恥かしい」んじゃねえの)。
なんのことはない。長年の「フェミニズム」クレーマーによる「運動」の
- 勝利
なわけでしょう。こんなことは、みんな分かっている。
しかし、素朴に思うんだけれど、あるお店が何の商品を店頭に並べるのかによって、
- お店を「糾弾」する
と何が起きるんだろうね。言うまでもないけれど、自分の家の回りのお店が、次々と「潰れる」んだよ。ということはどういうことかというと、こういった「クレーマー」は本質的に
- お金持ち
なんだよね。別に、家の近所で買う必要がないわけで。高価な自家用車で、少し、遠出をして、お金持ち向けのお店に買いに行けばいい。しかし、そもそも、遠出をするための、車などの足をもっていない人も大勢いるわけ。世の中には、そういう人も、たくさん生きているわけ。じゃあ、そういう人たちはどうしているかっていうと、そういう
- 猥雑
なものだろうが、なんだろうが置いてある、家の近くの雑貨屋に行くわけ。だって、そこしか行けないのだから。それは、子どもだってそう。遠出をするための足がないんだから。
ねえ。
そういう人たちにとって、そういった「猥雑」な何かがあるかないか、なんていうことは、どこまで本質的な問題なのか、って、考えてみたことがあるのかな?