木島泰三「自由意志と刑罰の未来」

最近、ダークウェブ・アンダーグラウンドという本で、オルタナ右翼が、人間の「生物学的多様性」を

  • 利用

して、自分たちの「人種差別政策」を

  • 正当化

した議論を展開していることに、そういった議論はミスリーディングだ、と反論を見かける。ようするに、ここで言う人間の「生物学的多様性」は、

  • 最新の科学の成果

のことを言っているに過ぎず、そういった真面目な科学の取り組みを、右翼の差別的な大衆運動に包含させて説明するのは不適切だ、と言いたいようである。
しかし、正確には、以下のような構造になっている。

もちろん、黒人は黒人だから差別されるべきである、といったあからさまなことはいわない。代わりに、集団遺伝学の知見からすると、人種ごとのIQの平均値には統計的な差異が認められるといったことをいう。そこから、たとえば白人とアジア人はIQの面で優れているという結論をほのめかすのだ。
さらに、集団内における遺伝子構成の変化が一定の傾向性を持っているのならば、多様な集団が交じって暮らすのではなく、たとえばIQの高い集団はIQの高い集団だけで暮らしたほうが良いという排外主義/分離主義を生み出す。

ようするに、オルタナ右翼は、「最新の科学の成果」を主張しているだけで、つまりは自分たちの「差別活動」は正しい(=最新の科学の成果と同値なのだから)、なんだと。
しかし、ね。私たちは今まで、何度も、こういったオルタナ右翼の「差別思想」を、あたかも、肯定しているかのように聞こえる「功利主義者」の議論を聞かされ続けてきたのではないだろうか?
つまり、これがもしも「最新の科学の成果」として、動かしがたいものであるなら、一刻も早く

  • 頭の悪い人種には、それに応じた教育をほどこすべき
  • 頭の良い人種のは、それに応じた教育をほどこすべき

なぜなら、その方が「効率」が良く、全体の「コスパ」が上がるから、と。彼らは人種差別に対抗して、「真実」を問題にする。頭の悪い人種には、そういう人たちなりの教育プランを考えて、彼ら独自の教育を行った方が、結果として「幸福」の量が上がるんだ、と。
だったら、それが「差別」かどうかは、大きな問題じゃないんだ、と。
しかし、ね。
これと同じレトリックを、今までも何度も見てきたわけだよね。

ダニエル・デネットは以前より一貫して両立論を支持してきた哲学者だが(Dennett 2014; デネット二〇〇五年他)、近年、著名な科学者たちが自由意志や道徳的責任の否定論をしきりに主張する状況への批判を表明している(デネット二〇〇五年、第八章、Dennett 2008;2014c;2012a;2012b;2014b;2014d;デネット二〇一五年、五二八 ~ 三〇頁、他)。例えば、神経科学者ハリスの自由意志否定論(Harris 2012)への批判的書評(Dennett 2014d)では、このような科学者として「神経科学者のウルフ・シンガーとクリス・フリース、心理学者のスティーヴン・ピンカーとポール・ブルーム、物理学者のスティーヴン・ホーキングアルバート・アインシュタイン、進化生物学者のジェリー・コインと(十分注意深く思考していないときの)リチャード・ドーキンスを挙げている。
これらの科学者たちはしばしば、自由意志を基礎にした従来の法制度や倫理の根本的見直しを提言する。冒頭で予告した、後に『モラル・トライブズ』(グリーン二〇一五年)を著した神経科学者・哲学者のジョシュア・グリーンが、神経科学者ジョナサン・コーエンと共に公評した論文「神経科学は法にとってのいかなる変化ももたらさず、かつ、法にとってのすべてを変化させる」(Greene & Cohen 2004)はその典型である。

まあ、見事なまでに、ビッグネームが勢揃いしましたよね。最近はやりの「ポスト・ヒューマン」さんたちの、

  • 科学のヒーロー

たちが、そろいもそろって、何を言いたいんだ、ってことでしょう。

まあ、無理矢理整理すると、こんな感じでしょうか。
科学って、なんだろうね。ようするに、科学とは「自動的」と言うこと。ブギーポップなのだw 世の中の物理法則を見てみれば分かるように、全部「自動的」。この世に

  • 自由
  • 自由意志

なんてないの。それが「最新の科学の到達点」。神経科学の最新成果を見てみれば、いかに人間が、「意志」を

  • でっちあげている

かというわけで、ようするに、人間も「ロボット」なのだ。
人間に自由意志がないということは、「責任」もない、ということになる。ある人間が犯罪を犯したとき、それは、なんらかの過去の「非人道的扱い」に関係したトラウマに

  • 自動的

に引き起こされた「禁断症状」なのであって、個人を責めることはできない。
この世界に「悪」はない。全ての行動は「善い」というわけであるw
ここで言っている「全て」は、生半可な「全て」ではない。その人が、異性を「レイプ」してしまったことも、「遺伝子」が強いた「症状」であって、その人が悪いわけじゃない。もちろん、全人類を滅ぼしてしまったとしても、「しょうがない」というわけであるw
というのは、功利主義は自らの「幸福」の増大を目標とするのだから、それが「ルール」によって禁止される一切の理由を認めないわけである。やりたいならやるべきだ。なぜなら、それが(功利主義的に)正しいのだから、となっているわけで、徹底して個人の「幸福」を考え、社会の「持続可能性」を優先しない。後者を優先させる考えが「刑罰主義」になるわけで、とにかく、「みんなで決めたルール」を守る人だけを社会のメンバーにして、それ以外を排除する(牢屋や病院に入れる)、というわけである。
しかし、ね。
上記では、暫定的にハード決定論否定派にデネットを分類したが、この論文の後半を読むと、かなり、彼自身は歩みよっている印象を受ける。むしろ、「保守派」的な感性から、警戒的かつ懐疑的に、状況の推移を見守るべき、といったレベルのことしか言っていないようにも思われる。
しかし、ある意味で、こういった結論は、功利主義者たちが仮想敵としたカントの立場にも近い印象を受けるわけですよね。なぜなら、カントはこの矛盾をアンチノミーとして、あえて

  • 叡智界

という、形而上学的構築物を作ってまで、彼の考える倫理学を救おうとしたのだから。ようするに、カントも理詰めで行けば、「自由」なんて存在しない、と言わざるをえなかったんだけれど、倫理学(=社会の秩序の学)からは、別の動機から、この存在を擁護せざるをえない。
(私が素朴に覚える違和感は、少し量子力学における「コペンハーゲン解釈」に似ている。例えば、刑罰と言うとき、そもそも、刑罰の犯罪者は、その行為を行えば、その刑罰を受けることになる、という「ルール」を再帰的に知っているわけでしょう。もしも、この「ルール」に反対なら、もっと前から、そういった反対の社会運動を行っていて不思議はない、ということになる。しかし、それをやっていなかったということは、少なからず、このルールを受け容れていたんじゃないのか、と考えられる。ようするに、社会契約論に似ているわけで、ある犯罪を行った犯罪者は、その犯罪を行えば、こういった刑罰を受けることになることを知りながら、なぜ行ったのかが問われているわけで、すでに、この行為が

  • 自由意志だったのか自由意志じゃなかったのか

は大きな問題になっていない、ということなのだ。そう考えたとき、本当に「刑罰」の問題の本質が「自由」にあるのかは、疑わしいわけである。そもそも自由が問題になってきたコンテクストとは、校則からの自由と言ったように、なんらかの制限の排除と関係してきた。ということは、明らかにこの二つの自由は、意味が違う。つまり、前者はもっと違った、自由を使わない定義が考えられるように思われる。)
おそらく、カントと功利主義者たちとの違いは、カントの「定言命法」は、非常に抽象的で形式的だっていうところにあるのだと思う。だから、そもそも

  • 最新の科学の成果

でバタバタする余地が少ない(常に、それぞれのコンテクストで、再解釈が求められるから)。対して、功利主義者は、帰結主義しか、寄って立つ場所がないから、

  • 最新の科学の成果

が出るたびに、右往左往「せざるをえない」んだと思う。まあ、こういったものを「道徳」と呼ぶのか、っていうのは一度、真剣に考えてみた方がいいんでしょうね。
しかし、いずれにしろ、

原理主義者たちは、そのラディカリズムにおいて、さんざんカントを馬鹿にしてきたのだから、今さら、カント哲学の安穏に後退できないわけで、

  • 最新の科学の成果

と心中をするしかないわけで、だとすると、最初の話に戻るわけだが、もしも「オルタナ右翼」の解釈が、どう考えても「正しい」と言わざるをえないとなったとき、彼らは、「オルタナ右翼」と一緒になって、明示的な

  • 差別運動

を展開することになるのか、に注目している、ということであって、まあ、少しも事態は「安全地帯」に退避できた、とまではいかないんだろうね...。

atプラス32(吉川浩満編集協力)

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