松本卓也『創造と狂気の歴史』

掲題の本は、以下のエピソードの紹介から始まる。

かつて米国のアップル社の最高経営責任者であったスティーヴ・ジョブズ(一九五五 - 二〇一一年)が「師」と仰いだ起業家ノーラン・ブッシュネル(一九四三年生)は、ビジネスの世界において新たな創造を可能にするためには「クレイジー」な人物を雇うべきである、と主張しています。まずは彼の言葉を聞いてみましょう。

創造性と狂気は紙一重だ。狂気といっても病的なほうではない----そちらの狂気にいいことはないもない。世の中にもうひとつ、職能的な狂気がある。クリエイティブなオフィスなら漂っていていいはずの狂気、風変わりなアイデアやぶっ飛んだコンセプト、型破りな意見をいつも出す社員たちが醸しだす狂気だ。
ほとんどの会社は、クリエイティブな人々の着想がクレイジーであればあるほど、その着想を取りあげる可能性が低くなる。だが、世界をあっといわせた着想のなかには、最初、「そんなのありえないぞ」とまわりが反応したものが少なくない。(プッシュネス + ストーン 二〇一四、六四頁)

この本を読み始めて最初にこの記述を読んだとき、私は自分の昔の体験を思い出した。SEとして、いろいろと現場を転々としていたわけで、ある時、ソニーの某端末製品のWIFI回りのGUIの開発に関わったことがあった。その現場で、製品開発も、かなり佳境にさしかかったところで、ある日、奇妙な作業を求められた。新しくアップル社から発売される iphone の試供品を渡されて、そのGUI回りの使い勝手を体感してみてくれ、というわけである。
まあ、だからといってなんらかの感想文を提出させるとかいった、しゃちほこばったものではなかったのだが、その時に思ったことは、

  • 別に新しくない

ということだった。というのは、すでに、タッチパネルの液晶の端末はあったし、強いていえば、ハードのキーボードがなくなっている、ということだが、それはむしろ、ダウンスペックで「So what?」と感じられた。
ようするに、非常に単純化して、そのときの感想を言葉にしてみるとすれば、

  • それまでのPCとは、マイクロソフトビルゲイツの発想の延長にあったもので、そもそも「開発者」向けのものであった。そして、そのことと、今でもデスクトップ型のパソコンに、当たり前のように、ハードのキーボードが付いていることとは無縁ではない。ようするに、開発者にとっての必要十分条件のようなことを考えている限り、iphone のようなものは出てきようがなかった。
  • iphone は徹底して、ユーザー目線で作られている。もっと言えば、「文系」なのだ。ここには、開発者への「忖度」が一切ない。ハードのキーボードがなくなるのは、まさにダウンスペックで正しいのであって、それで「安く」なるなら、消費者は喜ぶわけである。そういった視点で見ると、このGUIを「作る」、つまり最初に作ることは大きなブレークスルーがあったことに気付かされる。つまり、全て、このダウンスペックを前提に「考え直した」ことの多くの時間と労力が注がれているということが、たとえそれが「So what?」だろうが、まず気付かされた。

しかし、ここで私が考えたいことは少し違っている。
それは、そもそも、この時さかんに思っていたことは、「これ」はデザイン・コンセプトに関わる問題なのだから、開発の現場に感想を求められても困る、といったものだった。つまり、このレベルの「方向」に関わる「決定」をするのは、もっと上の人なんじゃないのか、ということであった。
そして、このことは掲題の本の内容にも深く関係してくる。

  • 天才

は確かに、この世界を変えるのだろう。しかし、ほとんど全ての人たちが行っている作業は、そういった「天才」の作業じゃない。
実際に、掲題の本を読んだ、最大の違和感は、スティーヴ・ジョブズのこのエピソードは、この最初にしか登場せず、完全に話のダシに使われているだけになっていることで、むしろ、iphone の問題は、ジョブズが天才だったかどうかではなく、その

商品が、大量に世の中に「売れた」ことの方にこそあるわけであろう。売れたから、ジョブズの天才が問題になっているのであって、逆ではない。つまり、ここに資本主義の原理があるのであって、たんに天才かどうかが重要なんて、だれも言っていない、ということなのだ。
よく考えてみてほしい。上記の引用にあるように、自分の会社に「天才」は必要だろうか? 本当の意味で、この資本主義社会で圧倒的な差をつけるようなアイデアの供給源として、結果論として重要だったと判断することはあっても、それ以外のほとんどの作業は、どうしようもないくらいに

  • 秀才タイプ

が役に立つわけで、そもそもこういった「平均値」で現せないようなタイプの「業績評価」を企業は行えるのだろうか? というか、そもそも企業とは、そういうことを求められた公共的な存在なのだろうか?
天才とは秀才ではない。上記の引用にもあるように、天才とは

  • 狂気

に関係している。そして、掲題の本が一貫して述べているように、そもそも、「狂気」を包含しない天才的業績や、天才的な英雄がありえないのと同じように、そういった人材が

  • 病気

であることと、この事態は区別できないわけである。
しかし、何度も言っているように、企業というのはそういった存在なのかと考えたとき、例えば、ファーウェイは多くの5Gの特許をもっているわけだが、そのことと、この会社が中国に多くの出資をされていて、欧米の企業のように、残業時間を守ったりしないわけで、まさに

  • 国家の存亡

と同一視された形で、この資本主義競争に「勝つ」ことだけを目的として、製品開発に取り組めば、そりゃあ、欧米の国を圧倒的に引き離して、優れた製品を作るであろう(そのことは、AIでも同じ)。
だとするなら、ここにおける「天才」とはなんだろう? それはもはや、物量作戦の産物に過ぎず、徹底した「特許権」競争の結果だとしても、その特許は、そりゃあ、「それだけの時間をかければ」それだけの成果を出すよね、といった別に、天才のひらめきのようなものではなく、どこまでも時間と暇を傾ければ、それくらいのところまでは行けるよね、っていう「がんばらなければ到達できない」地点なわけだw
しかし、掲題の本は、こういった方向に話は進まない。
そりゃあ、著者の専門がラカン精神分析なのだから、こういった現代思想とか言われた登場人物ばかりが登場して、

  • 天才(=芸術作品)と狂気(=病気)

の関係における、

  • 狂気と天才的発想の不可分性

にばかり、議論が集中する。そりゃあ、医学なんだから、患者の治療に関心をもつのは当たり前と思うかもしれないけれども、世界全体の資本主義の運動という視点で見るならば、たかだか何人かの患者がどうであるのかが、世界全体の「正義」を実現する上で、そこまでの意味があるのかは分からない。
もちろん、「意味がある」と強調するのは、医者にとっては、それだけ自分の仕事が社会にとって意味があることを主張したい、というわけなのだろうが、ようするに、そこまでその

  • 天才の狂気

は治さないと、この社会にとっての損失なのかはよく分からない、ということになる。
まあ、別に、あんたが仕事を休むなら、別のだれかが代わりにそれをやればいいんじゃないんですかね、と言いたくなるが、どうもそうとは考えない人たちというか、分野というか、活動というかが「ある」ということになっている。
それは、ようするにそれを「仕事」ではなく、なんらかの「神から授けられた天才による<創造>」のような話になっていて、正直、どうでもいい話なわけである。
ある、自然科学における「発見」があったとする。それを、ある物理学者が「神の啓示」として、ひらめいて、学界で発表したら、そりゃあ、そこから、なんらかの工学的応用が生まれて、「社会の役に立った」とかいう話になるのだろうが、別に、そんなものがなくたって、何百年かしたら、別の誰かが思い付くかもしれない。なんでそれで「困る」のかは、ようするに、ガンの薬のように、それで寿命が何年が増えるかどうかみたいな話で、一人一人にとって大きいということなのだろうけれども、そうだとしても、たかだかその程度というわけで、まあ、だったら他のことがんばってみようか、程度にしか思えない。
例えば、ここで「数学」の歴史を考えてみよう。数学においても、例えば、インドの天才数学者ラマヌジャンのような人がいるわけで、やっぱり天才問題というのはあるわけである。
しかし、こうも考えられる。確か、森毅が言っていたと思うが、なんでユークリッド幾何学が、あのように公理主義的に記述されているのかといえば、地中海のギリシアで発達して、いろいろな言語を話す人たちが集まる場所だったから、言ってみれば

  • 素人でも分かる

ような形で、「記述」することが、まず求められた、と。ようするに、数学というか、数学基礎論や、数理論理学というのは、

と深い関係がある、というわけである。
公理主義というのは、数学を「無定義用語」と「無定義述語」と「公理」で構成していく「パズル・ゲーム」に還元する、ということを言っているわけで、もっと言えば、物理世界の、積み木の並べ変えと完全に同値なわけで、ようするに、このレベルの

  • 自明さ

で全部、「記述」してしまう、と言っているわけで、まあ、究極の「アマチュアリズム」なわけである。ここには

  • 誰でも理解できる

ということの目標があるわけで、よく考えてみてください。ずいぶんと、上記の

  • 天才話

と違うことを私は話ている、ということに。
なんで、こんなに違うんでしょう?
正直、なんでこの本についてブログで書こうと思ったのかというと、何を言っているのか分からなかった個所があったからなのだが、そのことを説明しようとすると、結構大変なのだが、少しやってみようと思う。
まず、ブリューゲルの「怠惰」という絵と、デューラーの「メランコリア1」という絵を比較して、なぜ

のイメージが、こんなにも変わってしまったのかを説明しているのが以下である。

さて、本題に戻りましょう。ブリューゲルが描いた《怠惰》の否定的なイメージから、デューラーの《メレンコリア1》にみてとれる創造のイメージへの移行ないし逆転がいったいどのようにして生じたのかを私たちは問題にしていたのでした。
この逆転の鍵を握るのが、一五世紀のイタリア・ルネサンスと同じ時期にあらわれた新プラトン主義です。新プラトン主義とは、プロティノス(二〇五頃 - 二七〇年頃)に端を発する、プラトン哲学を復権させようとする思想運動のことであり、一五世紀イタリアにおけるその中心人物が、マルシリオ・フィチーノ(一四三三 - 九九年)という哲学者・神学者でした。彼は、『三重の生について』(一四八九年)のなかで、プラトンの『ティマイオス』の記述などを根拠にして、それまで悪魔と関連する怠惰として考えられてきた「うつ」い非常に高い価値を与えているのです。

フィチーノは、このようなプラトンの筆の運びのなかに、「肝臓でつくられる黒胆汁はたしかに否定的な(悪い)ものではあるが、むしろその黒胆汁が最高度に濃縮されて溜まることがあれば、それは神からダイモーンを与えられることと等しく、むしろ肯定的な(善い)ものでありうる」、という逆説的なメッセージを読み解いたようです。実際に、彼の『三重の生について』には次のような一節があります。

魂が外面的なものから内面的なものに身を引くこと。ちょうど周辺から中心に向かうように[...]。さて、周辺から中心に自己集中こととその中に留まることは、ほとんどすべてが黒胆汁に酷似する医療上の特徴である。それゆえに黒胆汁は一つのことに集中し、そこに留まって、いたるところで観照[=熟考すること]する人間の心情を刺激する。そして世界の中心に似ているがゆえに、全事物の中心を探求するように強いる傾向があり、あらゆる至高のものを把握するために自分を越えていくように導くその同じ黒胆汁が、すなわち最高の惑星の一つであるサトゥルヌスと共働するのである。(Ficino 2002, pp. 113-115)

ここまではいいのだ。といっても、それは、このレトリックが強引かそうでないかで言えば、むちゃくちゃ強引なことは読めば一目瞭然なわけだが、少なくとも、フィチーノという人は、こういうふうな「発想」をした、ということでは、まあ、本人がそう言っているんだから、なんか変な気はするかもしれないが、読む側は、そこはじっとこらえて、ひとまず理解しておくしかない。
しかし、以下はどうだろうか?

次にデカルトは、今度はメランコリーではなく悪霊をもちだして、同じような疑いを発します。

[...]ある悪しき霊(genium aliuen malignum)で、しかも最高の力と狡知をもった霊が、あらゆる努力を傾注して私を欺こうとしている、と想定してみよう。天、空気、地、色、形、音、その他外界のすべては夢のだましにはほかならず、それによってこの霊は信じやすい私の心に罠をかけていると、私は考えよう。[...]
[...]何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。[とすると、すべての知識は不確実であるが]それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る。私は存在する」 Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。(同書、四一 - 四五頁)

前章でとりあげた初期のキリスト教の修道士を悪霊がたぶらかしたように、自分も悪霊(悪しき霊)によって幻覚を見せられているのかもしれない。だとすれば、自分がもっていると思っている知識はすべて間違っていることになります。すべての知識はまったく根拠を欠いたものである、ということになるわけです。けれども、悪霊に欺かれているということは、欺く対象であるところの「私」が存在することだけは少なくとも確実である、とデカルトはいっています。これが彼のコギトであることはいうまでもありません。こうして彼は、コギトをあらゆる物事の根拠に据えて演繹的に推論していき、すべての学問の認識を体系化することを目指したのです。
前章でフィチーノデューラーの逆説をみてきた私たちは、ここでデカルトの用いているロジックにも同じ逆説が機能していることに気づくはずです。フィチーノデューラーにおいて、土星やメランコリーの否定的な性質を徹底することで肯定的な性質が得られたのと同じように、デカルトは、自分がメランコリーや悪霊に取り憑かれているかもしれない、という否定的な事態をはっきり認めることから肯定的なものとしてのコギトを打ち立てているからです。

どうでしょう。なんか変じゃないですか?
これ「同じ」逆説って言われるのが、強引なんじゃないんですか、ってことなんですが。

  • 前半のフィチーノの推論は、完全な「連想法」であって、推論になっていないw
  • 後半のデカルトの推論は、「悪しき霊」なんていう、おどろおどろしい例が使われて、びびってしまうが、なんのことはない。「仮定」の話なので、「悪しき霊」が「いない」場合を含んだ推論なわけで、とにかく、一応は、推論にはなっている(とここでは判断しておく)。

じゃあ、著者は何が言いたいんでしょう?
おそらく、著者は、デカルトが、このフィチーノの話を知っていて、こういった

  • 逆説的な発想法

を十分に意識して、その「連想」で、コギトエルゴスムを考えついたのだろう、と言いたいということで、つまりは、こういった変則的な慣習が一般的になっていた当時の、デカルトの「近代」を、ある種の「汚染」と考えていた、ということなのでしょう。
そして、もう一つは、フィチーノの逆説の「うつ病」の扱い。もっと言えば、その新プラトン主義者の発想の出発点である、プラトンの「天才=狂気」論を、基本的に

も継承している、といった含意を深くさせたかった、といった意図があったのかもしれません。また、続けて分析される、著者の「カント」への言及は、ここでのデカルトの文脈を深く継承したものになっており、興味深いわけです。

カントは、人間の(感性によって得られる)経験はバラバラでまとまりがないものであり、それらの経験は「我思う(Ich denke)」、つまり「私が自分で考えている」という「自己意識(Selbtbewubtsein)」----デカルトのコギトを引き継ぐ概念、いわば「カント版コギトです----によって統一されなければならないと述べています。私たちの経験や思考の一貫性を支えるこの機能を、彼は「超越論的統覚」と名付けました。彼の説明を聞いてみましょう。

「私は考える[Ich denke]が、私の表象のすべてにともなうことが可能でなければならない。そうでなければ、まったく思考されることのできないものが私に表象されることになるからである。[...]ある直観において与えられている多様な表象は、それが総じてひとつの自己意識にぞくするのでなければ、総体として私の表象であることにはならないだろうからである。[...]そうでなければ、じぶんに意識されている表象を有するのと、おなじだけさまざまに色づけられて、あいことなっ自己を私はもつことになるだろう[...]。(カント 二〇一二、一四四 - 一四八頁)

パラフレーズしておきましょう。この推論は、次のような手順でなされています。カントは、人間の「正常」な認識は、頭のなかに湧き上がるあらゆる表象(言語やイメージ)に「私のもの」というラベルが貼られることによって成立しているといっています。たとえば、<私>が頭のなかで考えた言葉や、<私>に生じた感情や空想は、すべて<私>が考えたもの(=私のもの)です。では、もし、「私のもの」というラベルが貼られていない表象があったとすれば、どうなるでしょう。そのとき、私の頭のなかで、誰か別の人が考え、話す----つまりは、幻聴や考想吹入のような自我障害が生じる----ことになり、さらには<私>そのものの精神が分裂することになってしまうにちがいありません。そして、ここからが重要なのですが、カントは、だとすれば狂気ではない私たち人間の「正常」な認識には、狂気を抑え込む「統覚」というメカニズムがアプリオリに備わっているはずである、と論を進めています。言い換えれば、カントは事実としてひとまず私たちが「正常」である、というまったくの偶然の事柄を、「統覚」としうきわめて重要な概念の確固たる根拠にすりかえているのです。これは、まさにカントにおける狂気に対する防衛、狂気の隔離を示す記述にほかなりません。
このような推論は、狂気を排除しているだけでなく、子どもをも排除しています。実際、ある時期までの子どもは、自分が頭のなかで考えていることはすべて親に知られていると思っていることが知られています(タウスク 一九九二)。つまり、子どもは自分の頭のなかにある表象が「自分(だけ)のもの」とは思っておらず、「親のもの」でもあると思っています。自己と他者のあいだのバリアである自我境界(Ichgrenze)が出来上がるのはもう少しあとの話なのです。

カントの超越論的統覚が、ほぼほぼ、デカルトのコギトエルゴスムと「同値」のように解釈されることは一般的だと思われる。そう考えたとき、ここでの掲題の著者による、カント批判は、基本的に上記でのデカルト批判の延長にある、と考えられるだろう。
カントがスウェーデンボルグなどにはまっていた、オカルト的なものと理性の関係との考察が、純粋理性批判において、どのように消化されているのかは、一つの興味深いテーマであろう。
しかし、いずれにしろ、上記の議論は少なくとも、ここでカントが言いたいことを「超えた」議論をしているという意味では、強引な議論の印象をぬぐえない。
まず、引用の最後にある「子ども」の話は、そもそも、批判になっていない。ここでは、カントは「自己意識」が「統覚」として、さまざまな表象を、まるで時間的に連続したものであるかのように「まとめて」いる、ということが言いたいわけで、そう考えれば、かなり自明なことを言っているに過ぎないわけであろう。ようするに、子どもがどう思っているかなんて関係ない(なんで、こんなトンチンカンな反論を掲題の著者は書いちゃったんだろう?)。
そして、扱いの難しい「狂気」の問題であるが、ここで言いたいのは「自己意識」の「活動」の話なんじゃないのか? つまり、概ね、

  • 正常

に人間の生命活動が行われているときは、なんか分からんけど、生まれてから今までの「総体」を、まるで一つの「統一」したなにかのように、「自己意識」は思っている。どうやって、そんなことが可能になっているのかまでは分からないけれど、ということが言いたいだけのように思うわけで、ここで「狂気」の話をするのは、カントに「難癖」をつけているように聞こえるわけである。
もっと言えば、「狂気」があったとして、なにが困るのか、ということでしょう。まず、自分に属さない表象は「たくさん」ある。つまり、今入ってきた表象ですよね。こういったものは、次々と「自分に属す」のかもしれません。でも、そうでないものを、自己意識が「発見」したって、なんの問題があるんでしょう? なんらかの理屈をでっちあげて、

  • 整合的

に「統一」的なストーリーを作り直すだけでしょうし、それをどうやって変だと気付けるんでしょうかねw
おそらく、掲題の著者がここで本当に dis りたいのは、カントが基本的に

という側面なんだと思うわけです。だから、デカルトに直結する超越論的統覚をとりあげているわけで。しかし、上記で検討したように、まあ、それなりに、デカルトの推論は「トンデモ」とまでは思えなかったわけで、なんというか、迫力不足なんですよね。
うーん。
まず、カントの超越論的統覚が結局のところ、デカルトの「コギト」と、ほとんど同じことを言っていると考えたとき、じゃあ、デカルトの「コギト」って何が言いたいんだろう、ってことになりますよね。私はそんなに難しいことじゃないと思うんですけどね。

ルネ・デカルト(一五九六 - 一六五〇年)は、その有名な著作『方法叙説』(一六三七年)において、学問的(科学的)な推論をしていくためにはどんな方法が必要であるかを論じたとされています。実際、彼は、「明証」、「分析」、「綜合」、「枚挙」という四つの原則に従って問題を解いていくことが重要だと述べています(デカルト 二〇一〇、三七 - 三八頁)。

まあ、ようするに「コギト」って、この四つを、どこの場所でも、どんな時間でも、自分がなにかをしようとするときは

  • 思い出せ

程度のことですよね。そして、実際に、こうやってデカルトやカントを dis っている精神分析の先生がたも、自分が論文を書くときや、病院や研究室で働くときは、まったくもって、こんな感じで「合理的」に生きているわけですよね。
うーん。
なんで、こんな感じで、少なくとも私には、うまく読めないんだろうか?
デカルトにしても、カントにしても、なぜ掲題の著者の、この dis りが成功していないのかを考えてみると、そもそも、この本が「統合失調症(=分裂症)中心主義」という

  • エリート主義

との「対決」の物語として、その「思想史」の再編成をもくろんで作られた本であったために、プラトンから始まる「エリート主義」の系譜に、どのように、

を包含するのか、といった後から、こじつけられた「ストーリー」だったために、まあ、無理矢理、「統合失調症中心主義」勢力の中に押し込んだ、というのがせいぜいのところなのかな、と思うわけである。
というのも、その違和感が最も大きくなるのは、最後の章の「ドゥルーズ」を読んだときで、というのも、この章では、この「統合失調症中心主義」に抗った一人として、ドゥルーズが注目されているからであって、しかし、それってどういうこと? ってことなんですよねw

一例として、『シルヴィとブルーノ完結編』(一八九三年)の第一〇章に登場するやりとりを引用しておきましょう。

「あんたは[賢いようだけど]せいぜい七つだわね、坊や。」 彼女が声に出していった。「ぼくはそんなにたくさんじゃあないよ。」 ブルーノはいった。「ぼくあ一つさ。シルヴィとぼくとで二つさ。」(細井(著・訳)二〇〇四、一八頁)

このやりとりにおける「[賢いようだけど]せいぜい七つだわね(You're not more than seven)」という発言は、対話相手の年齢を推測する機能をもっています。しかし、ブルーノはこの発言を、登場人物の個体数を指すものだと誤解して応答しています。

掲題の著者は、ドゥルーズが『批評と臨床』において、「統合失調症中心主義」と対決するために、自閉症(=アスペルガー症候群うつ病)を対置し、その代表的な例として、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルに注目します。
しかし、どうでしょう。
ドゥルーズが、「統合失調症」ではなくて、自閉症と言うとき、そもそも、この対象の変更は本質的なのでしょうか? つまり、「統合失調症」ではない、と言った時点で、ドゥルーズの言いたいことも、

  • ほとんど全ての人

を言っている、という意識があったんじゃないでしょうか?
実際に、上記の引用は、完全に

  • 子どもや外国人

が間違いやすいミスですよねw ようするに、

そのものであって、上記で言及した、古代ギリシアにおいて、なぜユークリッド幾何学のような、「公理主義」が生まれたのかの説明と、かなり近いものにしか、私には思えない。
そういった視点で、デカルトやカントの

  • 合理主義

を考えてみると、まったく同じわけです。デカルトの、「明証」、「分析」、「綜合」、「枚挙」の四つを、デカルトのコギトであり、カントの超越論的統覚と

  • 同一視

したとすると、ようするに、ものすごく

  • 単純

になっている、という所にこそ本質があって、それこそ、アマチュアリズムなんじゃないんですか、ってことなんですよね...。