太田紘史「自由意志の概念を工学する・哲学の側からの応答」

(こちらは、前回紹介した『<概念工学>宣言』という本の、第4章に対応する。)
よく考えてみると、そもそも自由意志って、定義がないんだよね。みんな「ボクノサイキョウノ自由意志」について語っていて、つまりどういうことなのかって聞くと、なんでそんな自明なことを聞いてくるんだと嫌な顔をされる。
まあ、聞いちゃダメなことの一つなのだw
ただ、そうだと言ってしまうと、前回検討した、戸田山先生の自動運転車に端を発する「責任」概念撲滅運動も、もともとは

  • 自然科学

の延長の知識として、つまり、認知科学における、人間の

から、犯罪者の刑事事件の「責任」を問えないよね、っていう認識から始まっていた。つまり、人間はある傾向性において「自由」じゃないっていう認識から始まっていた。ただし、戸田山先生は以下にあるように、別に

  • 自由意志

を否定しているわけではないのである:

道徳的責任と自由意志の概念はずいぶん性格を異にしている。自由意志は(弱いものなら)われわれは持っていそうな気がする。実在する能力ないし心的機能を意味しようとする概念である。というのも、われわれは漠然と「自分がやったこと」と「させられたこと / 自分に起こったこと」の区別ができるからだ。おそらく動物も萌芽を持つだろうし、自分がやったことと自分に起きたことが区別できることには利点があるだろう。第一、両者は何か違った「感じ」をもって体験される。道徳的責任の支えになるほど強いものでなくてよいから、こうしたわれわれの体験を説明してくれる心的なメカニズムとしてミニマルな自由意志お概念は残しておいてよいと思われる。道徳的責任は、これに比べるとはるかに事前に根ざしていない人工物(フィクション)の色彩が強い。
戸田山和久「哲学者によるまとめと今後に向けて」)

この辺りは前回の、戸田山先生による「責任」概念撲滅運動の議論とも関係して興味深いわけだが、というのは他方において、戸田山先生は以下のように、一方でカントを「概念工学」の元祖として評価しながら、他方において、

  • カントの手法は「自然科学」の手法を踏襲していない

という意味で、全否定している、という、とても矛盾した発言をしているわけであるw

太田も指摘するように、カントは自然主義者ではないが、概念工学的なプロジェクトにとりくんでいた。
戸田山和久「哲学者によるまとめと今後に向けて」)

【制約2】概念工学プロジェクトが生み出す概念は、できるかぎり科学的世界像と両立不可能なものでなければならない。
戸田山和久「哲学者によるまとめと今後に向けて」)

この制約2にあるように、戸田山先生は、そもそもこの、概念工学は「自然科学」という

  • チェック項目

を満たさない限り、それを概念工学だと認めない、と宣言している。あー、だったらカントは物自体とかヌーメノンとか言っちゃってるんだから、ダメ理論だよね、と思うと、他方で、なんかカントを

  • 評価

しているようなことを言ってる。どっちやねん、と思うんだけれどw、どうもこの人は、これが矛盾しているとは思っていないようである。
よく考えてみよう。
上記で、戸田山先生は「弱い自由」を認める立場なんだ、と言っている。しかも、戸田山先生が、自然科学の範疇での議論を完全比例しているということは、この立場は、言うまでもなく、自然科学と両立する、と考えている。
なんか、カントから後退していない?
カントは、第三アンチノミーにおいて、「現象」においては、完全に経験的実在論で記述できると考えるのだから、全ては因果律にのっとっているわけで、自由意志の入る場所はない、と考えた。こうやって聞くと、こっちの方が、

  • 自然科学

っぽくない? むしろ「非科学的」なことを言っているとして、糾弾されるのは戸田山さんの方なんじゃないのか?
しかし、である。
この戸田山先生のコメントは、掲題の太田氏の論文に対するコメントであるわけだが、こちらの太田氏の論文を読むと、全然違うことが書いてあるわけであるw

そうだとすると、指令的プロジェクトに対する含意も得られるように思われる。というのもこの世界が決定論的であるかぎり、現行の自由意志信念は真なるものとして保持できないので、責任帰属もまた不当なものとして変革を迫られるだろうからだ。
しかし話はそれほど単純ではない。なぜなら、指令的プログラムはより柔軟なものとして理解できるからである。われわれが不正確な概念に基づいた実践を行っていたと判明するとき、その実践に合うように概念のほうを修正するという選択肢が存在するからである。
自由意志論において「修正主義」と呼ばれる立場を提唱するヴァーガスは、自由意志論の概念を修正することで責任実践を保存できると論じる(Vargas,2007,2013)。すなわち、「もし自由意志と道徳的責任の概念によって果たされえるべき仕事を果たすものが何かしら存在すると示せたら、それをもって自由意志と道徳的責任は実在するとのだと信じる十分な理由になる。たとえそれが、われわれが想定してきたものとは何かしら異なるものだったとしてもだ」(Vargas,2007:160)。
では自由意志の概念は具体的にはどのように修正されるべきか。ヴァーガスの提案では、それは他でもなく、道徳的観点か思考をめぐらせ、そしてそれに基づいて自己コントロールを行う能力というものである。これはある種の両立論的な自由意志概念と言えるが、彼は現行の自由意志概念はそうしたものではないと認める。「むしろ話は逆で、現行の常識から言えば、それ以上のもの、例えば頑健な他行為可能性のようなも[中略]が求められているのであり、この点を私は進んで認めよう」(ibid:161)。

太田さんは、ヴァーガスの主張を紹介しているわけだけれど、ようするにむしろ

  • 自由意志の定義が間違っている

という方に考えるべきなんじゃないのか、ってことなんだよね。マルクスが言ったように、人間は考えているようには行動しない。考えてることと行動は別なんだよね。
こういった考えは、確か、太田先生の編集の本の以下の論文も検討していたと思う:

飯島和樹「生まれいづるモラル 道徳の生得的基盤をめぐって」
モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

また、別に、自由意志を道徳に限ることもないよね(確か、コースガードって哲学者の考えだったと思うけれど)。私たちの脳の中には、たくさんの「条件付き命令文」があって、その電気回路に電気が流れるかどうかは、さまざまな

  • 条件分岐

によって分かれているんだと。そして、そういった「条件付き命令文」が作られたのは、ある行為を行う、その時じゃなくて、はるか以前なんだよね。
だから、なぜその行為を行ったのかとなれば、上記の条件分岐で流れついた先だったから、ということになるわけだけれど、そもそもそれらの「条件付き命令文」の内容って、

  • 次に同じようなことが起きたら、今度はこう行動しよう!

って自分を「コントロール」しようとした内容なわけじゃない。だとするなら、それを「自由意志」じゃないと言うのも、なんか違う気がしてきませんか?
そして、これってさー。
すっごい、カントの言っていることに近いと思いませんか?
それで、上記に戻るんだけど、なんで戸田山先生が、あえて、カントにふれたかというと、太田氏がこのカントとの相似性を、この論文で強調されているからなんですよね:

先ほど筆者は、概念工学は自由意志の概念で新たな仕方で明確化するという知的営みだと特徴づけた。この意味で、批判期のカントもまたある種の概念工学者である。カントは現代の自由意志論者と同じように、<求めるに値する自由>の概念をくつりげようとしているのである。

これって、どういうことなんだろう? つまり、カントは3批判書の、最初の純粋理性批判で、道徳の問題を考察できるようにするために、物自体やヌーメノンという考えを用意して、自然科学の因果性と矛盾しない形で、人間の

  • 自由意志

の保持される場所を確保した。そして、いざ、第2批判書の、実践理性批判では、その道徳の実体として、上記の

と非常に似た議論を行っている。つまり、この時点で、そもそもの物自体やヌーメノンの役割をかなり弱められるくらいには、その道徳の「実体」についての考察が進んだんだよね。
ねえ。
モノを考えるって、そもそも、こうやって進むんじゃない? そもそもよく分からないのが、戸田山先生は、上記で「自然科学」の規範に従っていないものは、ニセ科学として、この概念工学から排除するっていうわけだけれど、でも、それだと、

  • 今の自然科学の多く

を排除しなければならなくなるんじゃないんですかね? 例えば、紐理論みたいなものは、普通に読むと「トンデモ」にしか思えないんだけれど(だけど、なんらかの仮説的なモデルとしては、一部の自然科学の問題への回答になっているのであろうが)...。
(それにしても、なぜ第7章のまとめで、戸田山先生は太田先生の、この論文のヴァーガスの主張をさらっと読み飛ばしているのだろう? おそらく、前回の第1章での、自動運転車で展開した、戸田山先生の持論と、真っ向から対立しているから、どうしてもここで評価をするわけにはいかなかった、という事情があったのかもしれない...。)