前回は問題提起だけして終わってしまったんだけれど、まあ、以前からこのブログで書いていることでもあるんだけれど、掲題の問題について、忘備録敵に、改めて整理しておきたい。
まず、直截に、カントが自然科学と自らの批判哲学との関係をどう言っているかであるが:
他方、カントは、『純粋理性批判』第一版の「純粋理性の誤謬推理について」の章における観念性の第四誤謬推理批判では、みずからの立場として超越論的観念論が経験的実在論でもありうると述べている。カントは、第一版誤謬推理章では、魂の実体性・単純性・人格性の誤謬推理を退けたうえで、外的現象が疑わしいとする魂お観念性お誤謬推理に対して以下の議論を展開している。超越論的実在論は、「外的感官の対象を何か感官自体とは異なるものと、単なる現象をわれわれの外に存する自体的存在者と見なす」(A371)立場である。「これらの物についてのわれわれの表象に対するわれわれの最高の意識にもかかわらず、表象が現実存在する場合にそれに対応する対象が現実存在することが必ずしも確実ではない」(ibid.)とする経験的観念論がこの立場から帰結する。これに対して超越論的観念論は、「われわれがそれ[=すべての現象]を総じて単なる表象と見なして、物自体とは見なさない」(A369)立場であるが、「物質の現実存在を許容するが、単なる自己意識から超え出ていかず、われわれの内の表象の確実性を、したがって cogito, ergo sum 以上のものを想定しない」(A370)とする経験的実在論でもありうる。経験的観念論では、「われわれの外」と「われわれの内」の関係に従って外的現象と自己意識とが区別され、自己意識に対して外的現象が疑われる。しかし、「われわれの外」と「われわれの内」の関係には超越論的意味(im transzendentalen Sinn)経験的意味との両義性が認められるのであって(Vgl. A373)、外的現象が「われわれの外」にあることには疑う余地はない。このようにしてカントは、第一版誤謬推理章の第四誤謬推理批判では、超越論的観念論すなわち経験的実在論という立場から直接的な意識ないしは「知覚」(A371)に基づいて「われわれの内」に外的経験と内的経験が含まれているとして、デカルトを思わせる外界への懐疑を退けている(Vgl. A370f.)。
(近堂秀「自己意識の統一による超越論的論証」)
カントと現代哲学 (現代カント研究13)
まあ、上記の引用の最初の一文ですね。カント哲学の立場である、超越論的観念論は、経験的実在論(自然科学そのものと、この文脈では解釈していいと思うけれど)「でもありうる(含んでいる、ってことですね)」と言っているわけですから、ようするに、少なくともカントの視点からは、現在の自然科学は、まったく、そのままの形で、その
- 存在場所
を、カントの超越論的観念論の中に確保できている、という自負なわけでしょう。
そうだとすれば、これに、そもそも自然科学の側の人が文句を言う筋合いはないわけじゃないですか?
だって、別に、カントによって、自分たちの理論展開がなにか制限されるものじゃない、と言われちゃっているんですから。
しかし、そうは言っても、このカントが用意した
についての「役割」について、例えば、はるか未来において、どのように考えていたのだろうかを、うまく推測させてくれる言及をしているだろうか?
この論点にきわめて敏感なセラーズが言い表すように、「考える存在者が「責任を担うことができない」ようなものかもしれないという可能性を、カントは開いたままにしている。いいかえれば、それは精神的または思考的な自動人形(automaton spirituale or cogitans)、思考する機械仕掛けなのかもしれない」。セラーズによれば、われわれはみずからをそのような思考する機械仕掛けより優れたなにかだと意識しているとカントは確信しているが、しかしまたこの「より優れた」ということがたんなる幻想、「頭脳が紡ぐ幻」かもしれないという可能性をカントは懸念してもいる。セラーズの見解は誤謬推理論におけるカントの合理的心理学批判についてのものであるが、弁証論における行為者性論にも容易に適用しうる。
セラーズの見解はまた同じく、規準章にも適用しうるように思われる。すなわち、規準章におけるカントの当惑せざるをえない示唆によれば、われわれに知られうるところをまったく裏切って、「感性的な衝動にかんしては自由と称されるものが、より高く、より遠く離れた作用因にかんしてはふたたび自然になるかもしれない」(A803/B831)。
(アリソン『カントの自由論』)
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)
ここは、カントの自由意志に対する部分について言及しているところで、ようするに、将来よりいろいろなことが分かってきて、自由意志の自然の
- 原因
が説明できる時代が来るかもしれない、と言っているってことなんですよね。
つまり、カントは、たとえ「認識論」であろうと、将来の自然科学の発展によって、自らのこの形而上学に対して、その役割が終わる日が来ないとまでは言っていないわけです。なぜ、カントはそれでいいと考えているか? それは、たとえそうだったとしても、実践的な側面においては、やることは変わらないと考えているから。道徳や倫理的な問題は、どういう時代になろうが、その役割がなくなることはない。だとするなら、自らの形而上学の歴史的役割が終わることなど、大きなことではないのでしょう...。