掲題の本は、ほとんど日本における、分析哲学者のクワインの印象を決定している、それくらいの影響力をもって読まれてきたのではないだろうか。
しかし、この本を読むとよく分かるが、クワインが戦っているのは、論理実証主義者であり、実際には、論理学者のカルナップなんですよね。
実際に、カルナップとはアメリカの大学で、ずっと懇意にしているわけで。
例えば、クワインの有名な論文「経験主義者の二つのドグマ」については、掲題の本で、非常に詳しく解説されているのだが、ここで言っている経験主義者というのは、カルナップのことなんですよね。
つまり、分析的と綜合的という区別を、カルナップは自らの著作で、まず最初に行っているわけだけれど、クワインはこれが「おかしい」と、その論文で言っている。
そしてその主張の主要になる論点こそ「ホーリズム」となる。つまり、なぜ分析的という概念がうまくいかないのかは、クワインの立場である、「ホーリズム」を採用していないから、ということになる。そもそも、ホーリズムの立場では、分析的という主張と両立しないのだ、と。
クワインの批判の焦点は、一つ一つの命題が単独で、つまり他の諸命題とは無関係に、検証(あるいは確証)されたり反証されたりする、という考えそのものに当てられる。そして、その考えに対する「反対命題(countersuggestion)」として、しばしば引用される、次のような「ホーリズム」の基本テーゼが、提示されるのである。
外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、一つの集まりとしてのみ、感覚的経験の審判を受けるのだ。(『論理的観点から』六一ページ)
このテーゼは、既にピエール・デュエムが、『物理理論の目的と構造』(一九〇六年、邦訳は勁草書房、一九九一年)において、物理学の内部に限定した形で主張したものである。それをクワインは、「外的世界についてのわれわれの言明」全体に一般化したわけである。
さて。クワインの、論理実証主義者カルナップへの批判は、このホーリズムの立場から、さらに、いろいろな角度から行われるわけであるが、その一つの結節点が、有名な論文「認識論の自然化」、つまり
となる:
どうして心理学で満足できないのか。そんなふうに認識論の課題を心理学に譲り渡してしまうのは、最初の頃は循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性をしめすところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。しかしながら、循環にたいするそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。
(クワイン「認識論の自然化」)
現代思想 1988年7月号 増頁特集=クワイン 世界についての知識はいかにしてえられるか●自然化された認識論/W・V・クワイン
この引用を注意深く読んでほしい。ここでクワインは何が解決されると言っているか? それは、あくまでも、論理実証主義者カルナップの、
- 合理的再構成
のプロジェクトなのだ! 論理学、または、集合論によって、この世界(の説明)を「還元」することを野望したプロジェクトは、クワインのホーリズムの立場からは、到底成功するとは思えない。
というか、なんでこんなことにカルナップはなっているのかを、クワインは、カルナップがデカルトから連綿と続く、「第一哲学」の神話を夢見ているからだ、と考える。つまり、第一哲学という、形而上学=認識論が、一切の第二哲学=経験科学を
- 使うことなく
成立しなければならない、という。
しかし、である。
この指摘は、多くの人たちには、クワインにとってのカルナップ問題としては受け取られなかった。そうではなく、
- クワインにとっての<古典的認識論=カントの批判哲学>問題
として受け取られた。ようするに、クワインが、古典的認識論(=カントの批判哲学)はダメだ。破壊して、それを
- 心理学
に吸収しなければならない、という武闘派宣言として受けとられたわけであるw
(言うまでもないことだが、カントの純粋理性批判であり、プロレゴメナは、この分析的と綜合的の区別から始まっているわけで、この分類自体が「成功していない」とすると、そもそもカント哲学の価値にまで影響しかねない、と。)
例えば、今、日本で最も「自然主義」を標榜して活発に発言をされている、戸田山先生は以下のように、クワインの分析的と綜合的の概念の「失敗」こそが、この「自然主義」の本質であり、そしてこれを、たんに論理実証主義者の問題と、狭く考えるのではなく、
- 古典的認識論(または、その研究者)
にまで広げて、これは論理実証主義者が間違っているだけではなく、古典的認識論、つまり、そもそも哲学という分野自体の
- 終わり(=科学への吸収)
を目指さなければならない、という形で話を進めていく:
現代の自然科学者が第一哲学の可能性に対して懐疑的である主たる理由は二つ考えられる。一つは、おそらく最後の基礎づけ主義的運動であった論理実証主義のプログムの挫折であり、もう一つは哲学独自の方法としての内省・概念分析・思考実験の有効性に対する疑念である。「ユーザー・イリュージョン」という語を引くまでもなく、われわれが自分の心の中で生じている情報処理過程を内省的に捉える能力は非常に限られたものであることはもはや常識的になっている。また、クワインが主張したように分析性と総合性の区別に根拠がないということを認めることは、言葉の意味にどれだけのものが含まれているかをあらかじめ決めておくことはできないということを意味する。これにより、概念分析はアプリオリであり、それは経験的証拠とは別に論理だけの力で遂行できるという前提がくつがえされ、論理分析という方法だけによって何かを言うことができなくなってしまう。こうして、クワインのは論理実証主義のプログラムと日常言語分析とに代わるまともな哲学の選択肢として、自然主義に哲学的なニッチを回復したというわけだ。
(戸田山和久「哲学的自然主義の可能性」)
思想 2004年4月号 - 岩波書店
上記のクワインからの引用と、この戸田山先生の引用を比較してみてもらいたい。あくまでクワインは、論理実証主義のプログラムの話しかしていないが、戸田山先生はそこに
- 哲学独自の方法としての内省・概念分析・思考実験の有効性に対する疑念
というのを追加している。ようするにこれは、たんに論理実証主義だけがダメだったんじゃなくて
- 古典的認識論(=カントの批判哲学)
という哲学がダメなんだ、という形で、独自の形でクワインの主張を戸田山先生は
- 広げ
ているってことなんですよね。
しかし、ね。
これは正しいのだろうか?
まず、クワインの二つのドグマ批判がどのように行われていたのかを、ふりかえってみよう:
まず「定義」であるが、たしかに、あるときにある人が、全く新しい記号を、はっきりと明示的に定義によって導入する、ということはある。しかしそれは、極めてまれなことであり、しかも、そのような形での明示的定義は、ほとんど、数学などの形式的な科学に限られれいる。一般に「同義」と言われている様々な表現の同義性を、そのような形での「定義」によって説明することは、到底できない。そして、普通「定義」と呼ばれるものの多くは、むしろ、それ以前から同義と認められている表現を、同義として再確認することである。つまり、普通に言われる「定義」は、同義性を前提とするものと考えるべきであろう。したがって、「定義」という概念に基づいて「同義性」を説明することは、本末転倒、あるいは循環である。
ようするに、分析的という概念は、同義的という概念によって構成されているんだけれど、その「同義的」がこんな感じでうまく説明できていないのだから、ましてや、分析的おや、ってわけ。
ところが、である。
分析的判断の述語は(後述するように)「論理的本質」と見なすことも可能なものであるが、この論理的本質についてカントは或る覚書で次のように言っている。
論理的本質は主観的な根本概念であり、あらゆる人に妥当するわけではなく、また可変的である。......(それは)語の意味にかかわるが、この意味は、もちろん徐々に洗練され、使用によって一致してくる。(Refl.3966, XVII 369)
或る特定の内容をもつ命題が分析的なものであるか否かは、その命題の内容によって普遍的に決まっているわけではない、ということをカントは百も承知なのである。この点においてクワインらの批判はカント自身に対しては全く的はずれなものであった。概念の意味のようなものを普遍的なものとして固定することを前提として分析的 / 綜合的の区別を理解することの誤解については石川求氏が完膚なきまでに修正しているので、本小論ではここまでにしておく。
(檜垣良成「綜合的判断と実在性」)
思想 2018年 11 月号 [雑誌]
つまり、クワインが論理実証主義に対して文句を言ったのはいいわけです。そうじゃなくて、それを古典的観念論、ことに、代表として、カントにまで適用しようとすると、合わなくなる。しかし、上記の戸田山先生の引用をみる限り、すでにこの区別はなくなっているように思われる。
例えば、こんなふうに考えてみたらどうだろう。私たちが哲学と言うとき、別に、その哲学の文章が「自然科学」の論文としてアクセプトされるような、まさに自然科学の主張を記述するものだとは思っていない。だから、その一文一文を、自然科学者によってピア・レビューをされて、それを通たものだけを実際に、哲学だと読んでいるわけではない。
しかし、である。
考えてもみてくれ。今まで哲学として書かれたとき、また、読まれたとき、少なくとも、それを書いた人、それを読んだ人においては、その内容をその人の
- 常識
の範囲では、自然科学的な意味においても、ピア・レビューをしていたのではないのか?
私はクワインにしても、戸田山先生にしても、根本的に勘違いをしていると思っている。
というのは、むしろ、ここで問題なのは、クワインの
の方なのだと考えるからだ。もしもこのホーリズムの立場を受け入れると、何が起きるかというと、
- カントが必死になって守ろうとした、<各学問の間の独立性>
が、もう一度、失われる、というところにあると考えている。クワインのホーリズムは、ようするに、各学問は「独立していない」という、
- カント以前
の、全てを「神」との関係において説明していた、各学問の全体性に戻らなければならない「規範」として機能している。
しかし、これを避けるために、カントはこれと戦ったわけであろう。
まったくの、学問の後退なわけであるw
少し話が脱線したかもしれない。クワインはこの自然主義という立場における、
- なぜ帰納がここまで成功するのか?
に答える形で、自然科学はいわんやおや「進化論」にすら近づけて、その理論の正当化の理屈とする:
たしかに、何が何に「似ている」かの判定には、後天的な学習・訓練によって、変化が生じることはありうる。とりわけ人間に関しては、「文化」の影響によって、それはかなり変化するであろう。だが、類似性に対する感覚がすべて後天的であることは、ありえない。なぜなら、もし初めにそのような感覚がなかったならば、後天的な学習とか期待・習慣の形成を、始めることができないからである。それゆえ、類似性に対する何らかの感覚は、生得的であり、おそらくは遺伝子に支配されたものであろう。
すると、動物の学習、期待・習慣の形成が「成功」するか否かは、遺伝的に与えられた類似性に対する感覚が、外部の世界とうまくマッチしているか否かに、依存することになる。そして、現に生きている(学習能力をもつ)動物達、とりわけ人類においては、期待・習慣の形成が、かなり「成功」しているように見える。すると、そうした動物達の、類似性に対する生得的な感覚は、外部の世界とかなりうまくマッチしている、ということになるであろう。それはいったいなぜなのか? <神>がそのように配慮したからなのか?
「自然化された認識論」はここで、「進化論」に訴える。すなわち、類似性に対する生得的感覚が、外部の世界とマッチしていないような動物は、自然選択のプロセスを生き延びることができなかったがゆえに、現に生き延びている動物達(とりわけ人間)は、世界にマッチした類似性の感覚をもっているのだ、と答えるのである。昨日のベルの音と今日のベルの音とを、「似ている」ものと感じない(似ているものとして反応しない)犬は、今日のエサにあるつくことがせきないであろう。自然の中でも、食べ物や異性や敵についての類似性の感覚は、生き延びてゆくために最も重要な能力である。そうした能力が世界とマッチしていなかたならば、生存競争に勝ち残ることはできないであろう。突然変異の結果、たまたま世界にマッチした類似性の感覚手に入れた動物だけが、生き残っているのである。
(まあ、こんなふうに、進化論だろうが、量子力学だろうが、なんでも使って、「認識論」を説明するんだ、っていうことなんだろうけれど)私が気になっているのは、なぜここでこういう話がされているのかっていうところで、ようするに、認識論は(デカルトの頃から言われている)第一哲学で、第一哲学は第二哲学(=自然科学)の知識に基かないで記述されなければならない、っていう
- 約束事
に縛られている、というまず「前提」で、そのタブーを破った、ということが言いたいようなわけであろう。
だから、わざわざこの議論を長々書いているんだ、と。
しかし、それは少なくとも(デカルトにはあてはまるのかもしれないけど)カントにあてはまるのだろうか?
なんか、一般の人には、どうでもいい「タブー」なんじゃないですかね...。
- 作者: 丹治信春
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