戸田山和久「自然主義的認識論と科学の目的」

こちらは、前回の論文の、後編といった位置付けのようで(2005年の雑誌)、前回、自然主義に対するさまざまな反論に対する応答がされたわけであるが、その追加の応答がある、というのが特徴だ。
掲題の著者は、この二回目の論文において、改めぜ自らの立場がどういうものかを表明する:

筆者が擁護しようとしているテーゼを一言で言えば、「実在論的で規範的な自然主義的認識論」ということになる。

上記の定義で、「規範的」という用語が使われていることに注意がいる。前回の「認識論的自然主義」の主張を思い出してほしい。あそこで引用した、箇条書きされた命題は、いわば

  • ねばならない

といったような、「禁止条項」を並べたものである。しかし、そもそも自然主義が、哲学における「第一哲学」という縛りから解放される運動だったと考えるなら、ここでさらに、なんらかの「禁止条項」を必要するというのは矛盾なんじゃないのか、と考えてみることも可能だろう。それに対して、掲題の著者は以下のように反論する:

一方、次のような立場も可能だろう。クワインとクーン以後も、信念をいかに形成すべきかという規範的問いはナンセンスな問いになったわけではない。この規範的問いは認識論の重要なテーマであり続けるが、彼らの示したことは、合理性や知識についての概念分析けによってこの問いに答えることができないということである。この問いは、われわれのような認知システム(あるいは科学者たち)が現にどのようにしてこの世界で信念を形成しているのかについての事実に基づいて問われなければならない。つまり、認識についての規範的問い(いかに信じるべきか)は無意味ではないが、事実的問い(いかにして信じているか)とは独立に問うことができないという立場である。クワインも後にこうした立場をとることになったし、現代における「自然化された認識論」のもっとも熱心な推進者であるコーンブリス、またゴールドマンらも基本的にはこの立場に立っている。科学哲学においては、科学史上の事実から科学方法論を抽出しようという HPS(History and Philosophy of science)の流れをこの立場の代表と見なすことができるだろう。以上の選択肢を「規範的な自然主義的認識論」あるいは「規範的自然主義」、「自然主義右派」と呼ぶことにする。

なんだか、雲行きが怪しくなってきた、と思ったかもしれないw ようするに、掲題の著者はこの、規範的自然主義の立場にたつと表明しているわけであるが、何を言っているかというと、この認識論がこれから向かう方向については、一定の

  • 条件

によって縛られる方が「良い(=生産的だ)」といった形で、その規準の「模索」という、

  • 学問的役割

が存在するのだ、と言っているわけである。この主張の何が、うさんくさいのかというと、確かに、古典的な認識論においても、第一哲学という、規範的な主張がなかったわけではないが、しかしここでの、自然主義において設けられる「べき」とされている主張は、一体どういったレベルにおいて語られているのかが、よく分からないわけである。
つまり、これはなんなのか? なぜ、ここに急に現れたのか。その身分が分からない。
よく考えてみよう。科学は、一体どっちの方向に、これから未来において進むのだろう? いや、それは「真実」に向かうんじゃない、と思うかもしれない。少なくとも、「より良い」方向ということについては、誰も反対はしないだろう、とか。しかし、だとするなら、それは一体、なんなのか? 最初から、自然主義の立場をとる、この立場においては、この

  • 思想改善

が一体、どういった「改善」なのかを、そしてなぜそれが「良い」のかを定義できない。それは、そもそも「進化論」がどちらに進化するのが「良い」のかを決定できないことと同値となる:

【科学が進歩する「方向」がそもそもあるのか】 科学史についての研究は、また次のことも明らかにした。つまり、科学的世界像どころか、探求の認識論的目標じたいが分野、科学的集団、時代によって大いに異なっているた。たとえば、真理だったり、現象を救うことだったり、予測だったり、コントロールだったり...。したがって、普遍的な規範的自然主義なるものはありえない。
規範的自然主義者であろうとするなら、認識論的目標についてはっきりさせないといけないが、歴史をみると普遍的な認識論的な目標なんてないですよというわけだ。ここで挙げた第一の懐疑論が科学を進歩の歴史として見なせるかという懐疑論であり、その意味では、真理という探求の目標を前提した上でそれにわれわれは決して到達しえないと論じる古典的懐疑論にかなり近かったのに対して、第二の懐疑論は、科学史を進歩・改善のプロセスとして見ようにも、そもそもそれをどの方向に向かっての進歩として見るかの「方向」あるいは「尺度」そのものが存在しないという議論であり、あらにラディカルな議論である。
ア・プリオリな古典的懐疑論と異なって、これらの懐疑論は、漸進主義的な視点を規範的自然主義と共有した上で、それに対し、科学史上にわれわれが観察しうる経験的データに基いて反証を与えようとしている。したがって、先ほどのように、議論の土俵を「ずらして」回避ないし解消するという戦略はとれない。このため、これらの懐疑論的議論は、規範的自然主義者にとってかなり深刻な挑戦となる。

なぜ、規範的自然主義はこのような

  • 深刻な挑戦

を受けることになってしまったのか? それこそまさに、「ホーリズム」の結果だとも言えるのではないか。動物や人間が「進化」するのは、別に、どういった方向が「良い」と考えたから、そうなったわけではない。そうなる場合もあるが、そもそも、そんな「方向」なんて、前から分かるようなもんじゃない。ところが、規範的自然主義は、そういうわけにはいかない。しかし、その規範は、常に

  • 科学の実験結果

によって品質チェックを受けると言っているわけで、まったくもって、学問が「独立」していないのだ...。