檜垣良成「綜合的判断と実在性」

なぜカント哲学が、あんなに分かりにくいのかと考えれば、ようするに私たちが、当時のカントが直面していた哲学の状況に一切、無知だから、ということになる。
というか、素朴に考えて、なんであんなにまでしなければならないのかは、少しも自明ではないわけで、純粋理性批判なんて、なんであんなに分厚いんだと言われても困るって話であろう。
ここに大きな認識の間違いがあって、カントの言っていることは間違っていると言う、いわゆる現代の、科学畑の人たちは、いやそれ、間違っているでもいいけれど、まず、なんでカントがやっていることが、こんなのことになっているのか、であり、じゃあ、一体誰が「正しい」ことを言っているのかに、真面目に向き合っているのか、というと、せいぜい

  • 素朴科学論

の延長で、カントは間違っていると言っているだけで、ようするに、そういう人たちの言っていることは、あんまり、哲学(=形而上学)とは関係ないわけである。
掲題の論文は、はずいぶんと、大ざっぱではあるが、そのカントの

  • 何をやっているのか

といった側面を、当時のカントが直面していた知的状況と比較して語られているわけで、興味深い。

人によって主語概念の把握は異なってくるし、同じ人でもその把握は変化する。もちろん、語の概念がもつ内容は、その語が言語として通用している以上、或る程度、一致している。しかし、或る特定の命題が人と時にかかわらず普遍的に分析的であると言えるほど確定的ではありえない。カントは少なくとも批判期においてはそういう普遍性を前提していないのである。これは、批判期のカントがプラトンイデアアリストテレスの形相、トマス・アクィナスの本質、デカルトの生得観念といった本来的意味でのイデア的なものを前提とする哲学から一線を画する哲学を構想したことを示している。

ここが、前回もカントの哲学が「神の哲学」ではなくて、「人間の哲学」だ、と言ったことに関係しているのだけれど、このことは、数学で言えば、「古典論理」と「直観主義的論理」の違いと対応していると言ってもいい。ようするに、プラトン

のようなものは、「神の視点」からのものであって、人間にとっては分からない(まあ、これをカントの「物自体」を比喩として考えていいのかまでは分からないが)。
しかし、なぜカントがここまで、かたくなに、こういった姿勢を拒絶するのかということについては、まあ、当時の「現代科学」との関係があったのであろう。
まず、普通に考えて、なぜ「素朴実在論」ではだめなのか、ということになるであろう。「素朴実在論」で一切が済んでいるのであれば、それだけで十分ということになるのだから。

これに対して、「経験主義」(Empirismus)の立場のもとにあるロックにおいては、「観念」と「物そのもの」(things themselves)とは乖離している。というのも、彼の場合、「実在性」(reality)は、「観念と物そのものとの適合ないし対応」として、純粋に「あり方」を表現しており、「観念」とは別に「物そのもの」が実在していることが前提されているからである。しかし、彼は「認識内容」に関して「観念」と「物そのもの」との一致を要求したため、「実在性」の根拠づけは挫折する。「実体の複雑観念」は、私たちの外の「原型」としての「物そのもの」の「模写」と見なされるが、そうである以上、原理的に、「原型」との一致は補償されえないからである。「真理の対応説」おアポリアとして有名なこの論点が、「素朴実在論」の最大のネックである。素朴な「経験主義」の行く末は、esse is percipi という「観念論」にほかならない。
(檜垣良成「カントと実在の復権」)
カントと実在の復権

ここには、むしろ、当時の状況としては、経験論であり、素朴実在論が、それそのもの

  • 観念論

として理解されていた状況がうかがえる。そして、事実、デイヴィッド・ヒュームは、その英国経験論を、

  • 普遍的観念論

とさえ自称していたわけで、大陸合理主義が、この克服を目指すことを宿命づけられたことは必然的であった。
そこで、以下の当時のドイツの学問の中心であってハレ大学の哲学正教授ヨハン・アウグスト・エーベルハルトが、カント批判哲学を批評していく上で、そもそも、彼がどういった考えをもっていたのか、を見ていく。

彼[=エーベルハルト]によれば、もしも英国経験主義者のジョン・ロックの言うように「感覚」と「反省」による以外の「観念」が存在しないとするなら、「あらゆる現実的なものは変化にすぎず、いかなる自立的なものも存在しないということが帰結する」。というのも、あらゆる外的感覚は「物体の変化の単なる表象」(a.a.O.)であり、内的感覚のあらゆる知覚も「私たちの認識することと欲求することの知覚」(a.a.O.)にほかならないからである。経験主義的前提からは、「思考されうるものの全領土において自立的な何ものも残らない」(a.a.O.)。この点を首尾一貫させたデイヴィッド・ヒュームが「現実的なものの領土を単なる観念に制限した」(a.a.O.)「普遍的観念論」(allemeiner Idealismus)を提唱したのは、まことに筋の通ったことだと言うのである。エーエルハルトが言う「観念論」(カントが念頭に置いているものでもある)とは、認識能力に依存する観念以外の自立した現実的なものは存在を確保できない立場のことである。
しかし、本当に観念しか存在しないのか。そんなはずはないとエーベルハルトは考える。そして、経験主義とは別の認識論的立場を採ることによって観念論を回避するのである。

表象する力がみずからの必然的法則に従って或るものを可能あるいは自己のそとで現実的と考えるや否や、その或るものは可能であり、その力のそとで現実的でなければならなず、その或るものは、表象する力が、まさにその法則によって、そうであると考えるように強いられるのと別様には可能でも現実的でもありえない。(156)

「必然的な法則に従って表象する力」をもつのは伝統的に「知性」ないし「理性」と呼ばれてきた人間の認識能力であるが、これの思考の上で必然性をもって表象されるものは概念のそとに自立的に実在しているという前提がここで語られている。「思考」や「概念」とは独立に存在している「実在」があるとしても、私たちはそれに直に触れることはできない。だから、思考の上で必然性が見いだされたら、このことを、その思考ないし概念が実在に対応している(「実在性」をもつ)ことの証拠としようというのである。のように「理性」(ratio)ないし「概念」(ratio)から直接「実在」へと至る通路が開けているとする立場を、経験主義と対比させて「理性主義」(Rationalismus)と読んでおこう。エーベルハルトによれば、理性主義は「概念」とは独立の「実在」の存在を認めているので、観念論を克服した立場なのである。
さて、「感覚」は「観念」の存在しか証することができないので、「実在」へと至る通路をもつのは「思考」ないし「概念」だけだと言うわけであるが、これは「命題」ないし「判断」として展開される。この判断が「実在性」をもつためには「論理的必然性」が必要なのだから、「あらゆる真なる判断において述語は主語に内在する」とライプニッツが表現したようにな事態が生じることになる。判断の論理的必然性は主語概念と述語概念との間の同一性によって根拠づけられうるからである。「あらゆる判断は分析的である」とでも言えるこの判断論を、ゴッドフリート・マルティンにならって、「分析的判断論」と呼ぶことにするが、この述語の主語への内在のあり方の違いをさらに区分することによって、判断を区分することができる。まず、主語概念の「他のいかなる内的徴表からも導出されえない原初的徴表」(XXI35)(本質あるいは本質的部分)およびそうした徴表から論理的必然性をもって導出されるもの(属性)を述語としてもつ判断であるか否かで、ア・プリオリな判断とア・ポステリオリな判断が区別されうる。原理的には主語の個体概念はあらゆる述語を含んでいるのだが、私たち人間にとっても容易に論理的必然性が見いだせるのは前者の判断のみだからである。

ようするに、理性主義とは、経験主義が隘路に入っていた「観念論」を克服するための一つの立場として、主張されていたというわけで、つまりは、カントが直面していた、当時の哲学の「常識」があったわけであろう。
それは、最初に紹介した、プラトンイデアから一貫して続く、「本質」主義と言ってもいいけれど、ようするに、

に象徴されるんだと思う。上記の引用の最後の方に「論理的必然性」という言葉があるけれど、ようするに

  • 論理的に首尾一貫していることが、なんらかの「真実」「実在」を証明してしまうような考え

なんだよね。なぜなら、思考は

  • 神の思考

でもあるから、なんらかの「神性」を含有しているということになって、つまりは、論理的な「正しさ」、無矛盾性はなんらかの形で、「神の意志」を現す、っていうことになる。
そこで、以下は今度は、カント自身が大学での講義の教科書に使った『形而上学』の著者、バウムガルテンも、こういった合理主義の延長で、どのような考えをもっていたのかを確認する。

バウムガルテンは一切の「対立」を矛盾と見なす。というのも、たとえば「善」と「悪」との対立のように、「肯定」どうしの対立と思われるものについて、彼は次のように説明するからである。「悪」は、「名」が「肯定」するので、「肯定」であるように「見える」けれども、それは「仮象」にすぎず、「実際には」「否定」であり、この種の対立も、やはり「論理的な対立」にほかならない、と。こうして、「論理的な対立」(「矛盾」)と「実在的な対立」とは区別されず、後者は前者に還元されるわけであるが、このことは、「仮象」に対する「真実」が「実際のこと」を意味するという点に基づいている。つまり、「論理的な真実」と「実在的な真実」とが、「真実」=「実際のこと」なので、区別されず、「真なる概念」と「実在」とが重なって、「実在」は「論理」、「概念」に吸収されたのである。
(檜垣良成「カントと実在の復権」)
カントと実在の復権

このような「実在」概念の解消は、当然のことながら、「存在」概念にも変化をもたらす。はっきりしているのは、やはりバウムガルテンである。彼は「存在」(existentia)あるいは「現実性」(actualitas)を「内的な汎通的規定」すなわち「それ自身において表象されうるあらゆる規定がなされていること」と解する。これは、「がある」と「である」とを区別する素朴な立場からすれば、途方もないことであろうが、「合理主義」の立場から見れば、当然の帰結である。というのも、「この」世界が一つしかない以上、特定の場所、時間等に位置づけられるものも、世界全体の過去から未来い至る脈絡の中では、一つしかないので、あらゆる「外的関係」を内に取り込んだ「個体概念」が「この」世界の表象に適合するなら、「この」世界=「現実」世界である以上、その対象は「存在する」と言えるからである。
(檜垣良成「カントと実在の復権」)
カントと実在の復権

だから、これっていうのも、上記からの「本質主義」というか、理性主義というか、の延長で考える限り、ほとんど必然のようなところに到達しているわけなんですね。
そして、以下の前批判期のカントの認識がどういうものだったのかを説明する文章を読んでも、このバウムガルテン、エーベルハルトがほとんど同じ

に近いところで考えていたし、また、当時のカント自身もそうだったということがよく分かるわけである。

デカルトの「第五省察」を念頭に置いた『レフレクシオーン』3706によれば、「ペガサス」が「実在性」をもたないのは、「翼」が「馬」の「概念」のうちに含まれてえおらず、「馬が翼をもつ」のは「恣意的」だからであるが、三角形が「実際に」二直角の内角の和をもつのは、「内角の和は二直角である」という「述語」が「三角形」の「概念」のうちに含まれており、「三角形の内角の和は二直角である」という認識が「論理的必然性」をもつからにほかならない。なぜなら、「感性的純粋直観」に思い至っていない前批判期のカントには、「経験」い依存しないにもかかわらず「実在的」な認識を可能にするものは、「概念」以外にはないと思われていたからである。
(檜垣良成「カントと実在の復権」)
カントと実在の復権

でもさ。これって、少し前から議論しているけれど、科学哲学の文脈における、論理実証主義の言っていることに、どこか通じますよね。かなり似ている。つまり、どっちも、論理的な正しさが、「真実」や「実在」につながっている、っていう考えなんですよね。
それに対して、カントの目指している哲学は、こういった

との戦いなのだから、私のような人間からすると、自然主義の人たちが、しきりにカントを批判することには、根本的な認識違いがあるんじゃないのか、と思われるんですけれどね。
ところで、カント哲学を特徴づけるものに「形式」という言葉の独特の使い方が、よく言われる。

さて、感官を通して対象と直接的に関係するとき、私たちはつねに具体的で多様な内容を手に入れる。それらは私たちに「印象」として与えられる。そうした印象を得ることで私たちの意識に変化がひき起こされる。たとえば、新幹線の車窓から外を眺めている際に、富士山が目に入ったとしよう。このとき意識は、富士山が見えていない状態から見えている状態へと変化する。このような事態を表現する言葉が「触発される」である。しかし、そうした内容(規定されるもの)は形式(規定するもの)に適合して与えられる。カントは、なかみ(内容)はかたち(形式)あってのなかみだと考え、形式の、内容に対する(論理的な)先行を主張するのである。このように「形式」と「内容」とを区別し、「形式」に注目するのは、カント哲学を貫く方法である。カント哲学は一面で<形式の哲学>なのである。
御子柴善之『カント哲学の核心』)
カント哲学の核心―『プロレゴーメナ』から読み解く (NHKブックス No.1252)

これは、どこか基本的なカントの批判哲学の手法を象徴しているようにも思われる。カントは、カント以前の

  • 存在

形而上学に対して、その人間と存在の間に「認識」という、ワンクッションを置くんですよね。そうすることで、その存在は「なんなのか」と前に、「どのようになっているのか」という認識の過程を介在させる。
形式も同じで、ある対象を人間が認識するという段階で、

  • でも、その認識を成立させている何か(=条件)はなんなのか?

という形で、つまり、人間が対象を認識する「前」に、その認識を成立させている「形式」としての、時間や空間を言わば、必須のアイテムとして措定する。
こういった姿勢は、言ってみれば、今までの「神」の知性の記述の哲学から、より

  • 人間が実際にやっていること

に近くなっている、という印象を受ける。人間は外界を知覚しているけれど、その知覚を成立させている、人間の身体の「条件」があるわけで、そういったもの全ての中に、空間や時間をまず、人間がどう前提にして、外界の知覚を成立させているのか、といった問題も含まれる。

カントの転回のポイントは、「感性的」でありながら「純粋」な「直観」を発見した点にある。以前の彼が理性主義的前提を否定できなかったのは、その前提なしには「普遍的」で「アプリオリ」な認識の「実在性」を確保する術がないと思われたからである。今や彼は、単なる「概念」や「判断」は、それが「論理的必然性」をもって考えられようと「実在性」をもつとはかぎらないと言うことができる。「三角形は、内閣の和が二直角である」という認識は、「論理的必然性」をもつから「実在的」なのではなく、「空間」という「純粋直観」においてそのような「三角形」を描出することが可能であるから、「実在性」と同時に「普遍性」、「アプリオリテート」をもつことができるのである。

カント哲学を決定的にするのは、この

  • 感性的純粋直観

だと言えるだろう。つまり、これを前提にすることで、上記で検討してきて、それまでのカント自身もそうであった

  • 理性主義

を克服できた、という関係になっている。

ア・プリオリ」という語は、カント批判哲学においては「経験に依存しない」という消極的規定しか与えられないが、このことには理由がある。当時、ア・プリオリ(先なるものから) / ア・ポステリオリ(後なるものから)という認識の「秩序」、すなわち、「理由」と「帰結」の「依存関係」を問題とする区別は、「理由(ratio)からの認識」が「原理からの認識」であり、「理性(ratio)からの認識」であることから、理性的(rational)/経験という認識の「種」にかかわる区別と重ね合わせられており、「理性」か「感覚能力」かという「起源」ないし「源泉」からの「導出関係」の区別を意味する概念となっていた(Vgl.IX22)。

批判期カントの独自性は、この「ア・プリオリ」の外延内に「純粋直観」という「感性」に属するものも収めた点にあり、そのために、対概念ある「ア・ポステリオリ」の意味である「感覚能力に依存する」を否定する形で「経験に依存しない」とだけ「ア・プリオリ」を規定し、積極的には表現しないやり方がとらふぇたのである。

こういった視点で考えると、少し前で検討した、自然主義者の主張する「アプリオリの拒否」という命題も、いざ、カントのいう意味との齟齬がどうしても感じられる。
さて。最後に、少しだけ、

  • 感性的純粋直観

について、私なりの解釈になるが、簡単に書いておこう。

純粋悟性概念は、まさにア・プリオリな純粋なものであるから、経験の及ばない領域にかかわることができるものであるかのように思われる。実際、純粋悟性概念に含まれる、実体や原因性そのものを私たちは経験的に見ることができない。私たちが目にするのはむなしく移り変わる現象だけである。新築だったマンションも、太陽光に照らされ風雨にさらされてやがて古びていく。はたしてこのマンションは変わらざる実体なのだろうか。違うだろう。それでも私たちは実体や原因性という概念をもっている。
御子柴善之『カント哲学の核心』)
カント哲学の核心―『プロレゴーメナ』から読み解く (NHKブックス No.1252)

私はカントが言いたいことは、そんなに難しいことだとは思っていない。例えば、私たちが上記の引用にあるような「マンション」が、新築されてから古びていくのを、まるで「一つの実体」として考えたり、その移り変わりの「原因性」を考えたりするのは、あくまでも、私たちの認識の側の作用なんだ、ということであろう。
こういったマンションを、まるで「三次元ユークリッド立体」のように考えて、頭の中で、それが崩れて行く場合をイメージしたり、増築をイメージしたりしてみるのも、頭の中で。
そうやって考えてみるなら、カントの発想も分かってくると思う。ようするに、私たちは結局は頭の中で、ほとんどのこういった数学的であり、幾何学的であり、ユークリッド力学的であるような、

  • ダイナミックな再構成

をやっているわけだけれど、実は、それこそが、

  • ほとんど全て

の私たちの世界認識なんだ、ということなわけでしょう。このこと全てを、全体として、ひっくり返して考えてみれば、カントの言うコペルニクス的転回も、そこまで変なことは言っていないと思えてくるんじゃないだろうか...。

思想 2018年 11 月号 [雑誌]

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